分子調理のカレーライス

10月26日のNHKの「あさイチ」で、「分子調理によるカレーライス」の紹介があった。
(左はNHKのホームページからの引用)
「分子調理」と言う言葉は私は初めて聞いた。
ネットなどをしらべてみると
「・・・分子調理は『分子調理学』と『分子調理法』で構成されている。『分子調理学』は食材の性質の解明、調理中に起こる変化の解明、おいしい調理の要因の解明などを分子レベルで行う科学です。それに対して『分子調理法』はおいしい食材の開発、新たな調理法の開発、おいしい料理の開発を分子レベルの原理に基づいておこなう技術です」とあった。(「おりとり様TV」からの引用)
https://ohitoritv.com/nhk-asaich-molecular-cuisine/

これは面白そうなので、紹介された調理から「カレーライス」を作ってみることにした。

放送で紹介されたレシピは次の通り
・牛肉400g
・にんにく1かけ
・ショウガの薄切り2枚分
・玉ねぎ1こ
・にんじん1本
・じゃがいも3〜4こ

・サラダ油大さじ1
・塩 肉の0.8% ここでは3.2g
・こしょう適量
・カレールー(4〜6皿分)
・水適量(ルーのパッケージの指定の量)

さて私は写真のように材料を用意した。
レシピとは少し違っているが(例えばしょうが、にんにくはみじん切りにしている)
大筋はレシピに従いながら作ってみた。

・牛肉を食べやすい大きさに切る。 レシピではフライパンだが、4人分だとあふれそうなので圧力鍋の鍋を使用した。
・油をひき、強火で加熱する。 このとき塩を肉の0.8 パーセント、牛肉が400グラムなので、400 ✕ 0.008 =3.2 グラム 加えて加熱するのがポイント。
 食塩の量が多いのでは、という疑問が番組でも出された。
実はここが分子調理なのだという。このあと野菜の加熱や蒸す作業で、肉と野菜の塩分濃度が違うため全体として同じ塩分濃度になろうとする。そのときに野菜の旨み成分が出て、それが肉に取り入れられるというわけだ。

・肉の色が変わったら、弱火にしてにんにく、しょうがを加える。
・香りが立つまで中火で加熱する。

・たまねぎ、にんじん、じゃがいも、セロリなどの野菜を入れ、加熱する。
このときに先程言った塩分濃度の差から野菜からの旨味成分が引き出される。

番組ではじゃがいもを入れるタイミングの質問があった。番組では「じゃがいもが煮崩れしないように、このあとの蒸す作業のときに入れると良い」という回答があったが、私は「くずれても気にしない」と最初から投入した。

・野菜と肉がよくまざったら、水を1カップくわえて、フタをして20分ほど中火で蒸し焼きにする。 途中で様子を見て、水を少し加えた。

上の写真左が20分後の様子。水分がほとんどない。
右の写真は入れるカレールーの指定している水を加えて煮ているところ。
加熱してひと煮立ちさせる。

・ひと煮立ちしたら加熱を止め、カレールーを入れて混ぜて溶かす。

・カレールーが溶けたら加熱を再開し、弱火で10分ほど煮込む。

私の場合は水が多かったのか、ルーの性質かはわからないが、少し水っぽい感じだったのでもう一つルーを追加した。

入れたカレールーが中辛だったので、味見をしてみると私には辛味が強かった。
そこでヨーグルトをたっぷりと入れてみた。
久しぶりのカレールーを使ったカレー。

「分子調理による20分で昨日作ったカレーの味」、というキャッチフレーズだったが私には時間短縮はそんなに気にならなかった。
昔懐かしいカレーの味がした。学生時代に食べたカレー、喫茶店で食べたカレー、デパートの食堂で食べたカレー、なにかそんなことを思い出すカレーの味だった。

 

 

史跡「土塔」特別公開

行基は堺出身の僧

南海電車の広報誌に「史跡土塔特別公開」という案内が載っていた。
そこには「奈良時代に僧行基建立した土塔の頂部を公開するはか、発掘調査で出土した瓦などの展示を行う」とあった。
土塔とは深井駅のそばにあって、車で傍を通るたびに一度近くで見てみたいとずっと思っていた史跡だ。こんな機会はめったに無い、と思い行くことにした。

土塔の約半分は再現され、残りは覆われたはずの瓦もない遺構として保存されている。 写真の下半分には発掘された「立瓦」と「粘土塊の列」と書かれた表示が基壇に置かれている。
そもそも「土塔」とは何なのだろう?
私は「ある種の古墳ではないか」となんとなく思っていた。
案内係の市役所の人に聞いてみると「古墳ではありません」ときっぱりと言われた。「お寺には五重塔や三重塔があるでしょう。それと同じで土で作られた塔なのです。頂上部分には建物が建てられていたようです」と説明してくれた。

当日の資料としていただいた「堺埋蔵文化財だより」には「史跡『土塔』に迫る」という記事が載せられていた。そこからの引用を記す。 
「・・・寺にはふつう木造の塔がありますが、この土塔は土の塔であり、材料が違うだけなのでしょう。神亀4年(727)に工事の始まった大野寺、この寺の塔が土塔であるということです。なぜ土でつくられたのかは、はっきりとわかりませんが、民衆にとって手に入れやすい、また、扱いやすい材料であったことがその理由なのかもしれません。瓦に名前を刻んだ人々をはじめとして、多くの民衆が土塔づくりに一度に参加するにふさわしい造り方であった事からも民衆の手造りの塔ということができます。土塔は奈良時代にこのあたりで活躍した行基とその活動を支え実際に行動した民衆たち(知識)の記念物なのかもしれません。なお、この土塔と全く同じものはありませんが、奈良市の東大寺にある頭塔(ずとう)がよく似たものであり、大阪市の四天王寺にもかつて土塔があったといわれています。・・・」

上の写真は名前の刻まれた瓦。
土塔の周りにはいくつかの説明板があり、文字瓦についての説明もあった。
「土塔には全面に瓦が葺かれていました。その数は約6万枚にもなります。・・・土塔からは文字を記した瓦が約1300点出土しています。大半は人名で、行基とともに土塔を建立した「知識(ちしき)」と呼ばれる人々の名を記した考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前も見られます。』

上の写真左は「土塔」建造当時を予想して作られた模型。
右の写真は土塔の内部、土の様子がわかるように作られた観察ゾーン。

瓦六万枚をつくるのは大変な作業だったに違いない。
再現した瓦を持たせてもらったが、結構な重さだった。
いただいた資料には「土塔から北西約160mのところには土塔に使われた瓦を焼いた窯跡が2基見つかっています」とあった。
瓦を焼く人、運ぶ人、土を積み上げる人・・多くの人がこの土塔をつくるために汗を流したことが想像される。

上の写真は現在の大野寺(おおのじ)。
行基が建てた49院の一つ。平安時代に書かれた「行基年譜」には行基60歳の神亀(727)に建立されたとある。
行基は現在の堺市西区家原寺町(えばらじちょう)でうまれた。生家あとは合格祈願で有名な家原寺(えばらじ)になっている。

「堺埋蔵文化財だより」には、「奈良時代に仏教を介して民衆を束ねたひとりの指導者行基がこの地域のそれまでほとんど未開であった山野を開拓し、村を作り、道を、溜池を、そして寺をつくりました。その後いったん衰退する村もありますが、中世、近世の開発を経て現代に受け継がれてきました。当時の構築物で原型をよくとどめているものはこの土塔しかありません。私達の祖先が奈良時代にこの地を開発したあかしがこと土塔なのです。」

土塔の上からは、大仙古墳、ニサンザイ古墳などが見え、東には二上山、葛城山、金剛山が連なって見えた。1300年の時を超えてこの土塔があることに新鮮な感動を覚えた。

 

 

 

 

個人所有だった犬山城

上の写真は駐車場から写したもの。下の写真はホームページよりの引用。
犬山城は木曽川のすぐそばに建っている。もらったパンフレットには、
「犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年(1537年)に木之下城を移して築城したと伝えられています。こののち江戸時代初期にかけて城主は目まぐるしく入れ替わりました。・・・江戸時代になり、元和3年(1617ー尾張藩付き家老成瀬正成が城主となってからは成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。
明治維新後には犬山城は廃城となり、天守の除く櫓や門の大部分は取り壊され大部分は公園になりました。
 明治24年(1891)の濃尾震災で天守閣は大きな被害に見舞われました。同28年、愛知感から修復を条件に旧城主である成瀬氏に譲渡されました。また、多くの市民からの義援金により修復工事が行われました。
 天守は昭和10年(1935)に国に指定され、同27年規則改正に伴い再指定されました。天守の創建年代はいくつかの説がありますが、現存する天守の中では最も古いと言われています。天守の建つ本丸を含め、城跡は平成30年(2018)2月13日Ⅱ国の史跡に指定されました。」
 「現在、犬山城天守は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有となり、犬山市が管理を行っています。」
 犬山城の天守閣が個人所有だったなんて、全く知らなかった話だった。

犬山城の天守閣に行くまでに、2つの神社がある。一つは写真左の三光稲荷神社(さんこういなりじんじゃ)、もう一つは写真右の針綱神社(はりつなじんじゃ)。


三光稲荷神社はハートの絵馬で有名なところ。
着物レンタルもあって、着物姿のカップルが赤い鳥居をくぐっているのも三光稲荷神社の風景の一部になっている。
針綱神社(はりつなじんじゃ)は珍しい名前だなあと思った。ネットでホームページなどを見ると、「尾治針名根連命(主祭神、おわりはりなねむらじのみこと)」という記事があった。いくつかの説があるようだが主祭神から来ているのかもしれない。

三光稲荷神社の狐、針綱神社の神馬、ハートの絵馬、赤い鳥居と見どころが沢山。

天守閣からのながめ。 ここの階段がとても急。聞いてみると53度はあるそうだ。
正面の山が伊木山(いぎやま)、標高173mあるそうだ。
ライン大橋が架かっている。

天守閣の瓦に不思議なものを発見。

拡大してみると、桃の形。 帰ってから調べてみると、これは「桃瓦」といわれているもの。 天守閣に八つの桃瓦があるそうだ。 これは留蓋(とめぶた)というもので、瓦が接合するところに置いて雨水の侵入を防ぐ役目を果たしているそうだ。
八つの桃瓦を見るといいことがあるそうだ。知っていたら調べてみたのにと後から残念に思った。

天守閣には歴代の城主の写真が飾ってあった。 初代から12代の城主の顔写真。最後の城主はワイングラスを持っての写真、77歳まで長生きされたそうだ。

犬山城天守閣   高さ19m 内部4階 地下2階(石垣の中)
石垣の高さは5m、自然石をほとんど加工しないで積み上げた野面積み(のづらづみ)という工法で作られているそうだ。(もう少し詳しく見ておくべきだったとあとて後悔することの多いこと。)
1500年代に川のそばにある高台にこんな大きなお城を築くなんて、たいへんな苦労だったと思う。クレーンもダンプカーも大きな機材を運ぶ機械もなく、人力で築き上げるなんて、当時の人達の苦労と英知におどろくお城だった。