妻籠宿(つまごじゅく)

ここは中仙道の宿場町、妻籠宿(つまごじゅく)。
中山道(中仙道)は、ウィキペディアによると、

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。・・・・。

 江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を近江・草津まで67の宿場(六十七次)がある。距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い。宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている]
 東海道に比べ大回りをする経路で、かつ、中山道には碓氷峠越えや和田峠越え、「木曽のかけはし」通過などの難所]があったにもかかわらず、往来は盛んであった。東海道には、船の使用が許されず川越人足が置かれ、時に長期の川止めもある大井川、安倍川や、険しい箱根峠など交通難所が多い上に、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったため、これらを避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと言われている。また、中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる。」

妻籠宿は中山道42番目の宿場である。そして妻籠宿の次が馬篭宿である。

後で入った「南木曽町博物館」のパンフレットによると、
「町並み保存のさきがけ『妻籠宿』  中仙道妻籠宿は、昭和40年代はじめ、日本全国が高度経済成長に沸く中にあって、歴史的な景観を守るべく、率先して町並みを守る運動に取り組みました。そして今日、国の重要伝統的建造物群保存地区の主柱として、また全国町並み保存連盟の中核として、町並み保存の先頭にたっているのです。」とある。町の心意気が伝わってくる。

ここは「妻籠口留番所跡」(くちどめばんしょあと)。
口留番所跡とはウィキペディアによると、

「口留番所(くちどめばんしょ)とは、江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。・・・・
 江戸幕府は寛永年間の武家諸法度の改正において諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていた。

だが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所であった。主に藩に出入りする旅行者や商品の監視を任務としていた。・・・」

最近のNHKのタイムスクープハンターでこの口留番所のこと、入鉄砲出女の厳しさが番組で放送されていたので、その当時の様子が想像できた。

これは「高札」(こうさつ・たかふだ)。博物館のパンフには「幕府が庶民に対し、禁制や法度等を示したものです。」とある。
高札の名のとおり、高いところに掲示してある。
これは復元されたものだが、当時の庶民は高いところに書かれた文字を読むことができたのだろうか。江戸時代の識字率は高かったと言われているが、このような高札の文章が読めて、理解できるのはすごいことだと私は思う。

ホームページよると、
「妻籠宿脇本陣は屋号を「奥谷(おくや)」といい、代々林氏が務めてきました。木曽五木の禁制が解かれて、明治10年(1877年)に総檜造りで立て替えられたのが現在の建物です。 昭和42年には妻籠宿保存の中核として公開され、平成13年には国の重要文化財に指定されました。裏の土蔵には、脇本陣にまつわる民俗資料や島崎藤村文学関係資料などが豊富に展示されています。」とある。
脇本陣は参勤交代のときに大名たちが泊まる本陣だけでは止まりきれないときに使用した施設、という説明を聞いた。そうか中山道を通って参勤交代をしていた藩があったのだなあと思い、中山道が江戸時代の大動脈だったことをあらためて確認した。

上はかつての妻籠宿のジオラマ。
ほとんど現在と変わらない、というよりは現在の妻籠宿は過去のすがたを大切に保存しているのだ。
「脇本陣 奥村」と大きな表札が出ているが、その最初に小さな字で
「南木曽町博物館」と書かれている。
博物館として「歴史資料館」も後方に作られている。
歴史資料館には私が知らなかったことがたくさんあった。