河内鋳物師の里

堺市立みはら歴史博物館の企画で、「河内鋳物師の里をめぐる」というフィールドワークがあった。
参加者は美原区役所に集合して、6階の展望スベースから美原市の全貌を見ながら講師の泉谷先生の話を聞くことから「里めぐり」ははじまった。

左の写真は展望スペースに合った航空写真。美原市内が一枚の画面に収まっている。写真はその一部。10年近く前の写真なので現在とは大きく変わっている。以前は田んぼと溜池が多かったことがよく分かる。

さて今回のフィールドワークのテーマである「河内鋳物師」とはどういう意味なのだろう。講師の泉谷先生の話によると「中世に活躍した鋳造技術者集団のことで、河内国を本貫地か住地としていた鋳物師のことを指す」そうだ。
慶長(1596〜1615 安土桃山時代〜江戸時代)以前に鋳造された梵鐘(つりがねのこと)で現存する81のうち50が河内鋳物師の作品とされる。梵鐘(つりがねのこと)の他にも、仏具から生活用品まで広く制作していたそうだ。
今回はその河内鋳物師が活躍したであろう地をいくつか見て回ることのようだ。

ここは大阪府立美原高等学校。 この学校を建設するときに遺跡が発見された。7世紀から8世紀前半の建物の遺跡である。
当初の計画では道路側に校舎が建てられる予定だったが、急遽そこを運動場として残し、校舎は写真のように奥に移動して建てられた。
ただ時間的な余裕がなく、遺跡(平尾遺跡と呼ばれている)は調査されずに埋め戻されているそうだ。
心配なのはこの美原高校が3年先に廃校予定になるというリストにのったことである。現在の大阪府の考え方では、この土地は民間に売られてしまうだろう。そのとき遺跡調査がなされるのか、なされないのか、注視しなければならないと泉谷先生はおっしゃっていた。

写真は東除川。
美原市の東側にこの東除川、西側には西除川が流れている。
この川はどちらも狭山池につながっている。
狭山池は行基(668〜749)がつくった溜池の一つと伝承されている。
石川や大和川といった河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は水量に乏しく、灌漑に苦労していた。大和川の付替工事まで、80か村、約55000石を灌漑していたと言われている。この狭山池から流れる水は、西除川と東除川によって多くの溜池を作り、この地の灌漑に役立ってきた。今も大小の溜池が美原市に多い。

美原高校から東除川を見ながら南へ進んでいく。
上の写真は菅生神社(すごうじんじゃ)。 延喜式神社名帳に記載のある式内社の一つであるが、中世には菅原道真を祀るようになり、天満宮あるいは天神神社と称するようになったという。
右上の写真が菅生天満宮の本殿。立て札には「堺市指定有形文化財 平成18年4月指定 菅生天満宮本殿」と書かれている。
ここに伝え残されている資料は、京都の北野天満宮や大阪にある大阪天満宮のものとちがっている部分があるらしい。どういう関係でこの地に天満宮ができたのか謎のままだそうだ。

みはら歴史博物館にもどり昼食。
館内の展示品で、河内鋳物師に関係する展示について泉谷先生の説明を聞く。
日本の梵鐘のほとんどは銅製であること、韓国や中国は鉄製が多いこと。
河内鋳物師の一部は廻船鋳物師として近畿各地に活動の場所を広げていたことを聞く。また東大寺の大仏再建にも関係があることも知った。

午後のフィールドワークはまず廣國神社に向かう。この神社周辺は鋳物の発祥地であるという意味が神社由緒の立て札に書かれていた。
あいにくこの神社は神社社殿新築中だった。
神社の境内には上の写真のような古びた石の板が置かれていた。立て札には「黒姫山古墳の天井石の1枚」と書かれている。黒姫山古墳は古くから盗掘が繰り返され、石棺のようなものは全てなく、この天井石は水路の橋に利用されていたそうだ。
うーん、もっと大切にしてほしいと思うばかりだ。

ここは医王山平松寺(へいしょうじ)。
「白河・鳥羽・後白河三天皇の勅願寺と伝えられている」と立て札に書かれている。 本尊は薬師如来坐像。昔から女性や子どもからあつく信仰されているそうだ。 この坐像は半丈六(はんじょうろく 約1.8m )の座高を持つ大型の坐像。年に2回の御開帳だそうた。
「堺市のこの地域における仏教文化のありようを探る上でも貴重なもの」と泉谷先生の話にあった。

最後は大宝山法雲寺、法雲禅寺とも言われている。 ここは禅寺で、数少ない黄檗宗の寺院。京都七福神巡りで、宇治の萬福寺に行ったがそこは本山に当たるお寺。
もともとこの地には真言宗の長安寺があったが、西除川の氾濫で流失し、そのあとに建てられたという。
本堂内には数多くの仏像が並んでおり、その数は3333体になるそうだ。
このお寺には七福神が祀られており、機会があればもう一度訪れてみたいと思った。
かなりハードだったフィールドワーク。
この美原が古くからの歴史と文化が受け継がれてきたこと地であることが実感できた。またお天気もよくフィールドワーク日和に助けられたとも言える。

 

 

 

ららぽーと堺と黒山遺跡

「ららぽーと堺」が11月8日よりオープンした。
上のポスターは堺市立みはら歴史博物館が、「ららぽーと堺」がオープンする前から「ららぽーと堺の下に眠る歴史』として発掘調査のようすをパネル展示すると言う案内をしていたもの。

上の写真はネットで調べた「ららぽーと堺」周辺の地図。 下の写真はその地図を航空写真に切り替えて見たもの。
地図のデータと航空写真のデータの作成年が違うため、「ららぽーと堺」の一部は溜池を埋め立てて建設されたことがわかる。
そしてその埋め立てたときの「黒山遺跡」の調査のときの航空写真が、一番上の「ららぽーと堺の下に眠る歴史」という宣伝チラシに使われている。

上の写真は「令和4年度 でかける博物館講座 みはら学びのすすめ2 黒姫山遺跡から見る古代の三原」という講演会での資料より。

「黒山」は日本書紀に「黒山」の地名があるほど歴史のあるところ。写真のように大井遺跡と黒山遺跡があり、直ぐ側に黒姫山古墳がある。
資料によると「黒山遺跡は奈良時代から平安時代の集落の遺跡で、調査では奈良時代から鎌倉時代の遺構や遺物」が発見されたそうだ。
大井遺跡は写真のように黒山遺跡の西側にあり、古墳時代中期から後期の古墳があり、飛鳥時代から奈良時代の大型の建築物や青銅製品に関する遺構や遺物が発見されているそうだ。

みはら歴史博物館でのパネルと展示のようす。
発見された土器や発掘の様子がわかるような展示だった。
パネルによると「集落の成立は美原を中心に金属製品の生産に従事した職能集団である河内鋳物師が文献資料に現れる時期」であること、「見つかった集落も金属製品の生産に関与しており、河内鋳物師と深く関係する可能性もある」ということだ。

右上の写真は「ららぽーと堺」の屋上駐車場から阪和自動車道を見たところ。
溜池の一部がみえる。溜池の右上の角から阪和自動車道を見た角度の延長線上に、(阪和自動車道にほとんど隠されて見えにくいが)「黒姫山古墳」がある。

私は「黒山遺跡」がここにあることや「ららぽーと堺」の一部が溜池を埋め立ててできたことがわかる資料が「ららぽーと堺」の施設のどこかに展示されていないかと思い、建物を一周したり施設の中を歩いたが私には見つけることはできなかった。近くの「みはら歴史博物館」でわかることなのかもしれないが、施設の中にこの地の歴史がわかるような展示があってもいいのにと思った。

資料にあった「河内鋳物師」というのに興味が湧いた。この「みはら歴史博物館」主催するフィールドワークもあるそうだ。さっそく参加申込をすることにした。

 

 

 

お茶のチャーハン

次は「お茶のチャーハン」。 上の写真はNHKのホームページより。
お茶の葉を使ったチャーハン。どんなふうに作るのだろう。

材料 (一人分)
・茶葉 小さじ2(5g)
・ご飯 200g
・卵 1個
・しょうゆ  小さじ2
これが基本なので必要な人数分は掛け算をすればよい。

1,冷めたフライパンの上に茶葉を敷き、火をつけて強火で加熱する。

2,茶葉から白い煙が出てきたら火を止め、ヘラで茶葉を動かして予熱で焙じる(炒る)。

3,1分たったら茶葉を取り出す。
(焙じる時間を短くすると、茶葉の青々さを楽しむことができる)

4,ご飯を別の容器に取り、たまごを入れて軽く混ぜる。 これは以前作った炒飯の作り方を参考にしている。
NHKのレシピでは「フライパンにサラダ油とたまご、ご飯を入れる」という順になっているが、以前学んだことを参考にした。
またごはんは無水鍋で炊いたごはんを用意し、温かいご飯でチャーハンを作るようにしている。

5,フライパンを熱し、サラダ油を入れ、先に用意したたまごで混ぜたご飯を入れるて加熱する。

6、軽く混ぜ合わせ、たまごが固まってきたら茶葉を入れてまぜあわせる。
このときは火は強火にする。

7、しょうゆを回しかけ、火を止めてなじませて完成。

 

 

レシピではたまごとご飯と茶葉だけなので、わたしは炒めるときにベーコンを入れ、最後に青ネギを散らした。
このほうが色合いも良く、食欲をかきたてるような気がした。
味はグッド。
味見のときはレシピどおりのところでたべてみたが、ほうじ茶がイヤミなかんじもせず、「あー、お茶の風味がする焼き飯だ」という感じだった。
最後にベーコンと青ネギを入れて、私好みのチャーハンになったが・・・・
お茶を使ったカレーとチャーハンを作ってみたが、お茶の葉がスパイスの役割を果たすことがよくわかった。
これからこのようなお茶の葉を使った料理が増えてくるかもしれない。興味津々のお茶の葉をスパイスとして使う料理だと思う。