ミュージカル スパイファミリー

4月11日から兵庫県立芸術文化センターで「ミュージカル スパイファミリー」の上演がはじまった。(左は劇場で買ったアルバムの写真。)
初日のチケットが手に入ったので観劇することができた。スパイファミリーは、家族が好きなアニメなので私もネットフリックスで見ていた。だからあらすじは大体わかってミュージカルを見るパターンだった。
兵庫県立芸術文化センターは久しぶりの劇場。以前にオーケストラの演奏会に来たことがあったが、ミュージカルなどの演劇ははじめてだった。

兵庫県立芸術文化センターの大ホールはとても立派なホール。まるで外国のオペラ劇場に来ているような気分になる。

この日のキャストは左の写真のとおり。
ロイド・・・森崎ウィン
ヨル・・・・唯月ふうか
アーニャ・・池村碧彩
ユーリ・・・瀧澤 翼
ロイドの幼少期・・・米本吉之介
男子児童・・斎藤 潤
孤児・受験生・・井澤美遥

ロイドとヨルはダブルキャスト
 ロイド役に 鈴木拡樹
 ヨル役に 佐々木美玲
アーニャ役は四人で交代している。8才から10才の子役なのでそれはそうだと思った。

 森崎ウィンさんはスピルバーグ監督の映画「レディ・プレイヤー1」に抜擢されたことから私の記憶にインプットされていた。ミャンマーの人だが日本語や英語が堪能で日本でも数多くの舞台や映画に出ている。

ロビーには舞台セットの模型が置かれていた。
アルバムに美術を担当した松生紘子(まつおひろこ)さんが次のように書いている。
「・・・プランするにあたっての課題は「どのようにバーリントの街を表現するか」であったが、この二面性(注 日常と裏社会のこと)街が表の表情と裏の顔を持ち、両方の面が見え隠れしつつ、時には境目がなくなって展開して行くのが相応しいのではと思い至った。そして往々にして裏の世界のほうが、入り組んでいて凸凹があって複雑なのでは、と。私達が住んでいる現実の世界も、きっと二面性があるのだと思う。・・・・」

舞台展開の仕組みは複雑で大掛かりのように見えた。でもそれが煩雑ではなく、スッキリとしていたのは確かだった。

一幕が1時間20分、二幕が1時間15分。休憩を挟んで約3時間。
舞台は原作のアニメを忠実に踏まえていた。
登場人物もアニメの主人公・登場人物にそっくり。ロイド役の森崎ウィンさんはぴったりだった(ダブルキャストの鈴木拡樹さんの演技は見ていないのでなんともいえないが、多分鈴木拡樹さんもピッタリだったとおもう・・・)
アーニャも可愛かったが(わくわく!の仕草がアニメそっくりで思わず微笑んでしまう)、私が一番印象深かったのはヨルさん(Yor Forger)。私が見たのは唯月ふうかさんだったが、声も仕草も立ち姿も原作にそっくりだった。殺し屋いばら姫のアクションも見事だった。

開演30分以上前に劇場についたが、長蛇の列におどろいた。グッズを買うための列だった。
20分休憩のときも長蛇の列。
トートバッグ、Tシャツ、チケットファイル、
キーホルダー、ポストカード、プロマイドセット、ストラップなど多数のグッズが販売されていた。
漫画原作のミュージカルはどんなものだろうと思いながら劇場に来たが、原作・曲・歌詞もすべてオリジナルの国産ミュージカルで、この舞台を作り上げたすべてのスタッフに感心してしまった。
最後に音楽がすべて生演奏だったことを書いておこう。舞台開始前からずっと練習している。20分の休みの合間も練習している。約3時間にわたる演奏は大変なものだと思う。私が習っているべノーバの先生が「暗い狭い場所で、小さなライトで譜面を照らしての演奏は体力のいる仕事です」と言っていた。
あらためてすべての舞台芸術は多くの人の力によって作らていることを思い出させてくれたミュージカルだった。

 

 

 

 

奈良市内散策 2

菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)

ここは菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)、通称十三鐘(じゅうさんかね)。
門の横の掲示板には次のように書かれていた。

「本院はふつう、奈良時代の高僧玄昉僧正(?〜746)の創建と伝えられるが、実際はむしろ玄昉の菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)で 別に稚児観音(ちごかんのん)立像が安置される。鐘楼に掛かる梵鐘は永享8年(1436)の鋳造で、かつて昼夜12時(一時は今の2時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ッと六ッの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
 なお、大御堂前にはには、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作(さんさく)を石子詰(いしこづめ)の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して、浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である」

  鹿を殺すと死刑になるという話は、桂米朝さんの落語「鹿政談」で聞いたことがある。落語では「犬を殺した」ということになって無実になるのだが、少年三作のようなことは実際にあったのかもしれない。「石子詰め」という伝説は長く伝わっているようで、文楽の「妹背山女庭訓」にも使われている。時代が違うと命に対する考えも違うのだろう。

菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)から「一の鳥居」に向かう。

  鹿に挨拶をするおじさんがいた。
「いつものことなんですか?」と尋ねると、
「そう、そう」と言いながら立ち去っていく。鹿たちもそのおじさんの後をついていく。奈良ではの風景だ。

 一の鳥居をくぐってすぐ右側に「影向の松(ようごうのまつ)」がある。
「御神木 影向之松」という立て札が立っているが朽ち果てていて判読がほとんどできない。
ウィキペディアによると、

影向の松(ようごうのまつ)は、・・・・参道右側に生育しているクロマツである。延慶2年(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木であったが、1995年(平成7年)に枯れたため現在は巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられている。
・・・・松は特に芸能の神の依代であり、この影向の松は能舞台の鏡板に描かれている老松の絵のルーツとされている。」

 私が写真を取ろうと近づくと、若い男性が三脚を用意して写真を撮っていた。
「この松は能舞台の松のルーツらしいですよ」と言うと、
「私もそのことを知ったので写真を撮りに来たのです」と返事が帰ってきたのでびっくりした。
 一の鳥居から博物館への道はよく通ったことがあったが、「影向の松」とか「能舞台の松の原点」とか全く知らなかった。あの朽ちた立て札「御神木 影向の松」を新しくできないものかと思った。
 猿沢の池に戻るために道路に出ると、信号が青なのに停車した車の列。
なんだろうと先を見ると、鹿がこの道路を横切っていた。さすが奈良の地だ。

 

 

 

奈良市内散策 1

奈良基督教会・植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)

ここは近鉄奈良駅の入口付近。
この像は「行基菩薩の像」。
2022年11月25日に奈良県で開催された「第73回全国人権・同和教育研究大会」に地元の取り組みとしての「奈良市界隈フィールドワーク」があった。私は参加できなかったのでその時の資料を「奈良県立同和問題関係史料センター」にお願いして送ってもらった。
その資料を基にして、自分なりにフィールドワークをすることにした。
そのすべてを回ることができなかったが、私の知らない建築物や取り組み、歴史があることがわかり、大変勉強になった。まずはこの「行基菩薩」のすぐ近くにある「日本聖公会奈良基督教会」にむかう。

 奈良に行ったのは2022年の12月と2023年の3月だつた。
この日は12月だったので、入り口にはクリスマスのリースが飾ってあった。通行人のなかには「これは本物?」とさわって驚く人も。さすがキリスト教の教会。
写真奥に見える和風の建築が教会。

 入り口の掲示板には「奈良基督教会の歴史は明治18年(1855)に遡ります。
現在の建物は、県内の大工の家に生まれ古社寺修理の経験をもつ大木吉太郎の設計・施工により、昭和5年(1930)に竣工しました。
本格的な西洋式教会の形式に則りながら、奈良公園の風致景観と調和するよう、全て和風意匠とする点に大きな特徴があります・・・後略・・・」とある。重要文化財に指定されているそうだ。

 また「奈良県における障害者教育発祥の地 1920(大正9)年4月22日、山田安民氏を校主に、盲児4人を対象に小林卯三郎氏によって私立奈良盲唖院が開学された。」という「奈良県立盲学校同窓会」による掲示板も設置されていた。

 奈良県立同和問題関係資料センターの資料によると「明治5(1872)年学制が制定されて以来、我が国の教育制度は徐々に整えられた。しかし障害を持つ子どもたちの教育は篤志家などが運営する私立学校に頼らなければならない状況だった。
 大正9(1920)年4月22日に日本聖公会奈良基督教会の一室を借りて私立奈良盲唖学校の開講式が行われた。これが現在の奈良県立盲学校の始まりであり、その設立者がロート製薬の創始者山田安民で、私財を投じて経営を支えた」とある。

奈良公園、興福寺方面に向けて歩く。

 上の写真は興福寺南大門跡と「般若の芝」。
興福寺には南大門があったが今はない。中金堂の前にその跡地がのこっている。上の写真の丸い石が、それがわかるように復元されている。
下の写真はその南大門跡の前にある「般若の芝」。ここで薪御能(たきぎおのう)が5月の第三金曜日と土曜日に開かれている。
薪能(たきぎのう)は各地で開催されているが、薪御能とよばれるのは興福寺だけである。数ある野外能の本家本元であると言われている。

  https://www.kohfukuji.com/event/takigionou/

 私は以前に薪御能が開催されているときに傍を通った記憶があるが、残念ながら見たことがない。能楽堂でのお能を見学したことは何回かあるが、野外能は見たことがないので機会を見つけて見たいものだ。

 南大門跡を背にして猿沢の池を見ると目に入ってくるのが「植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)」。掲示板には次のように書かれている。

「幕末の弘化3年(1846)から嘉永4年(1851)までの5年間奈良奉行を勤めた川路聖謨(かわじとしあきら)はその識見と善政によって住民から深く敬愛された。この碑はその一端 彼の呼びかけで桜と楓の苗木数千株を東大・興福両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹した時の記念碑である。多くの苗木を寄附した奈良の住民たちの自然景観への愛着と配慮、また後世の人に補植を呼びかけたその先見の鋭さは奈良公園愛護の教訓として敬服のほかはない。・・略・・・」

 奈良県立同和問題関係史料センターの資料によるとその善政とは「拷問の禁止、治安の取り締まり、裁判の迅速化、貧民救済のための基金の設立、墨の改良など産業を盛んにするための協力、天皇陵の調査などさまざまな分野」にわたるそうだ。
幕末期にこういった人物がいたことに感心する。