奈良市内散策 1

奈良基督教会・植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)

ここは近鉄奈良駅の入口付近。
この像は「行基菩薩の像」。
2022年11月25日に奈良県で開催された「第73回全国人権・同和教育研究大会」に地元の取り組みとしての「奈良市界隈フィールドワーク」があった。私は参加できなかったのでその時の資料を「奈良県立同和問題関係史料センター」にお願いして送ってもらった。
その資料を基にして、自分なりにフィールドワークをすることにした。
そのすべてを回ることができなかったが、私の知らない建築物や取り組み、歴史があることがわかり、大変勉強になった。まずはこの「行基菩薩」のすぐ近くにある「日本聖公会奈良基督教会」にむかう。

 奈良に行ったのは2022年の12月と2023年の3月だつた。
この日は12月だったので、入り口にはクリスマスのリースが飾ってあった。通行人のなかには「これは本物?」とさわって驚く人も。さすがキリスト教の教会。
写真奥に見える和風の建築が教会。

 入り口の掲示板には「奈良基督教会の歴史は明治18年(1855)に遡ります。
現在の建物は、県内の大工の家に生まれ古社寺修理の経験をもつ大木吉太郎の設計・施工により、昭和5年(1930)に竣工しました。
本格的な西洋式教会の形式に則りながら、奈良公園の風致景観と調和するよう、全て和風意匠とする点に大きな特徴があります・・・後略・・・」とある。重要文化財に指定されているそうだ。

 また「奈良県における障害者教育発祥の地 1920(大正9)年4月22日、山田安民氏を校主に、盲児4人を対象に小林卯三郎氏によって私立奈良盲唖院が開学された。」という「奈良県立盲学校同窓会」による掲示板も設置されていた。

 奈良県立同和問題関係資料センターの資料によると「明治5(1872)年学制が制定されて以来、我が国の教育制度は徐々に整えられた。しかし障害を持つ子どもたちの教育は篤志家などが運営する私立学校に頼らなければならない状況だった。
 大正9(1920)年4月22日に日本聖公会奈良基督教会の一室を借りて私立奈良盲唖学校の開講式が行われた。これが現在の奈良県立盲学校の始まりであり、その設立者がロート製薬の創始者山田安民で、私財を投じて経営を支えた」とある。

奈良公園、興福寺方面に向けて歩く。

 上の写真は興福寺南大門跡と「般若の芝」。
興福寺には南大門があったが今はない。中金堂の前にその跡地がのこっている。上の写真の丸い石が、それがわかるように復元されている。
下の写真はその南大門跡の前にある「般若の芝」。ここで薪御能(たきぎおのう)が5月の第三金曜日と土曜日に開かれている。
薪能(たきぎのう)は各地で開催されているが、薪御能とよばれるのは興福寺だけである。数ある野外能の本家本元であると言われている。

  https://www.kohfukuji.com/event/takigionou/

 私は以前に薪御能が開催されているときに傍を通った記憶があるが、残念ながら見たことがない。能楽堂でのお能を見学したことは何回かあるが、野外能は見たことがないので機会を見つけて見たいものだ。

 南大門跡を背にして猿沢の池を見ると目に入ってくるのが「植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)」。掲示板には次のように書かれている。

「幕末の弘化3年(1846)から嘉永4年(1851)までの5年間奈良奉行を勤めた川路聖謨(かわじとしあきら)はその識見と善政によって住民から深く敬愛された。この碑はその一端 彼の呼びかけで桜と楓の苗木数千株を東大・興福両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹した時の記念碑である。多くの苗木を寄附した奈良の住民たちの自然景観への愛着と配慮、また後世の人に補植を呼びかけたその先見の鋭さは奈良公園愛護の教訓として敬服のほかはない。・・略・・・」

 奈良県立同和問題関係史料センターの資料によるとその善政とは「拷問の禁止、治安の取り締まり、裁判の迅速化、貧民救済のための基金の設立、墨の改良など産業を盛んにするための協力、天皇陵の調査などさまざまな分野」にわたるそうだ。
幕末期にこういった人物がいたことに感心する。