日本語表記の歴史 4

カタカナの誕生

漢字が日本列島に伝わったのは西暦300年〜400年ぐらいと推測されている。

604年 十七条の憲法
652年 最も古いと思われる万葉仮名を難波宮跡から発見
712年 古事記 太安万侶
717年 遣唐使 吉備真備
783年 万葉集 大伴家持
804年 空海が遣唐使として中国へ

漢字が伝来して数百年のあいだ、漢字をそのまま中国語読みすることからはじまり、音仮名、訓仮名へと利用の仕方が発展してきた。
平安時代になってから、漢文を読む工夫から「カタカナ」が作られ、使われるようになったと言われている。

奈良時代の人たちは漢文を読むために工夫を重ねた。 私達が漢文の勉強で習った「✓」や「一」「二」などの「返り点」を想像すれば良いとおもう。
日本語で使う「こと」「を」など補うために、「ヲコト点」というものを漢字の四隅に打って、それがわかるように工夫された。
さらに日本語の活用や活用語尾をあらわすのには、「ヲコト点」という記号だけではたらず、万葉仮名をつかうようになった。 しかし万葉仮名では字数が多すぎて書ききれない。そこから万葉仮名の一部を用いて済ませてはどうか、そういう方法があみだされたようだ。

上の写真は「成実論」(828年)といわれる仏教論書で使わている「カタカナ」の一例である。

 

カタカナを使って漢文を読むことがすすみ、漢字を書くときにカタカナも使った文書が発見されるようになる。

つまり文章全体を「漢字とカタカナ混じりで書く」という形態がでてきたのである。これが「漢字カタカナ混じり文」の誕生である。

左の「平家物語」も「漢字カタカタ混じり文」で書かれている。漢字と「カタカナ」の相性は言いようで、この書き方は公文書などに引き継がれれいく。

 

 

 

824年 「東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゅもんこう)」 
      カタカタが使われた最も古い例と言われている。
828年 「成実論」 ヲコト点、カタカナが使われている。
835年  空海亡くなる
851年 「金剛般若経讃述」書き込みにカタカナが使われている宣命書きがある。

800年代、9世紀を通じてこの方式が広がり、宗派や僧侶によって違っていた「カタカナ」の字体表記も統一化の方向へをすすんでいったと考えられている。
しかし「万葉仮名」のくずし方、取り出し方は時代や人によってさまざまだった。

「あいうえお」などをあらわす「カタカナ」や「ひらかな」にはいろいろな書き方があったようだ。
その状態は明治になるまで続き、1900年の「小学校令施行規則」によって、現在使っている形に統一された。

カタカナがどの漢字から変化してつくられていったかについても諸説ある。

上の写真は「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ(岩崎書店)」から引用したもの。

この写真は「光村の国語 広がる! 漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!(光村教育図書)」からの引用。
この2つの表を見比べると、
カタカナの「二」の元字として「二」と「仁」、「マ」の元字としては「末」と「万」、「ン」の元字などに違いがあり、「カタカナ」の元になったという漢字も、このように諸説いろいろあることがよくわかる。

*今回のブログにはこの2冊の本を引用しながら説明をしてみた。

 

 

日本語表記の歴史 3

音仮名(おんがな)と訓仮名(くんがな)

漢字が伝わってきた当初は、日本列島の人たちも中国語で漢字を読んでいたのだろうと想像される。 中国からの渡来人たちが漢字の読み方や使い方を指導したのだろう。また代々そうした人たちが漢字を使い、時の権力者と共に漢字の文化を発展させていったのだろう。
そして漢字を中国語のまま読み・理解する段階から、漢字の「音」を日本語(大和言葉)に当てはめて使う方法が工夫されるようになる。

 漢字は「音」と「意味」がセットになっている、という性質がある。 古代の日本に住む人達はそんな漢字の「音」を利用して、日本の言葉(大和言葉)を書き表わそうと考えたに違いない。 また、漢字の意味と対応する日本語を結びつけ、たとえば「山」という漢字を日本語の「やま」とむすびつけて、「山」を「やま」と読むようになってきた。 「人」には「ひと」、「木」には「き」という読みがあたえられるようになっていったのだろう。このように漢字の意味に対応する和語を「訓」とよぶ。

漢字の「音」を利用して日本語の発音をしめすのが「音仮名(おんがな)」。
たとえば「奈久母(ナクモ→鳴くも)」は漢字の音を利用して大和言葉の「鳴くも」を漢字を使って表した例。

音仮名の例

阿(あ),伊(い),宇(う),麻(ま),左(さ),知(ち),之(し)

これにたいして訓を用いて日本語の発音を示した「名雲(なくも→鳴くも)」は、「訓仮名(くんがな)」とよばれる。

訓仮名の例

裳(くもだにも),夏樫なつかし),名束敷(なつかしき),奈都(なつかしき

「音仮名」「訓仮名」という漢字を利用して大和言葉・和語をあらわそうとした努力は大変なものだったに違いない。

万葉仮名

これら「音仮名」「訓仮名」を総称して「万葉仮名」とよぶ。
「万葉集(783年)」が書かれる以前から、「音仮名」「訓仮名」の用法はあったが、「万葉集」に多く使われているため、「万葉仮名」という言い方のほうが定着したようだ。
 前回書いた「古事記(712年)」には、漢文だけでなく「音仮名の部分」と「訓仮名の部分」があるという。
「古事記」はすべて漢字で書かれているので、どこで切れるのかわかりにくい。後世の注釈書には、「こここらは音でよむ」「ここからここまでは訓でよむ」という注釈が付けられているそうだ」。

上の和歌は、漢字の音だけを利用して日本語の歌を表している。 万葉仮名という手法はもともと中国にあった方法だった。例えばサンスクリット語のnaraka(地獄の意味)は、中国では「奈落」とかかれる。Sakyaは「釈迦」。このように外国語を表すとき、同音もしくは類似音の漢字で表したのである。今でもパリを「巴黎」(日本では巴里)、ニューヨークを「紐約」(日本では紐育)と書き表している。この方法が日本に伝わったに違いない。(この解説は、ちくま新書「日本語全史」沖森卓也著」による)。
「音仮名」や「訓仮名」を利用して、漢字ではあるが、日本語を発音そのままに書く努力がすすめられた。その顕著な例が「万葉集」だと言える。

万葉仮名の一例。万葉集からのもの。和歌も万葉仮名でしか書きあらわすことができない時代があった。

この後、漢文を読む工夫から「カタカナ」の創造、和歌を書くために万葉仮名からより優雅な字体への変化を求めて「ひらかな」の創造とつながっていったようだ。

 

 

 

日本語表記の歴史 2

日本語表記の歴史を考えるために、年表で古代にさかのぼってみよう。

年表を書こうとエクセルでやってみたが、2000年以上もの長いものをどんなふうに収めたらいいかと考える難しい。 そんなとき前回紹介した「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史」を見つけた。 そこにあったのが上にある、らせん式の年表。これは役に立ちそう。

日本語の歴史と簡単に言っても、厳密に考えなくてははらないようだ。

縄文時代は今から1万年以上前からはじまるらしい。
縄文時代、弥生時代とすすむなかで、その当時の人達は会話をして意思疎通をはかり、生活を高めてきたことは想像できる。
ただ文字が残っていないので、想像するしかない。

たとえ文字があったとしても、現在に残っていないと、「あった」と証明できない。
石や木などに刻まれた文字があれば残るかもしれないが、そういった文字らしいものはない、というのが現在の定説になっている。

漢字が中国より伝わる。

年表に記入したが、「17条の憲法」が書かれたのが604年。
「古事記」が書かれたのが712年。
「魏志倭人伝」が載っている「後漢書」が書かれたのが西暦400年代。「魏志倭人伝」が日本のことであるなら、その記述は西暦280年代の記事が元になっているという説がある。そうすると日本への漢字の伝来は、西暦200年代後半にはあったのだろうと推測される。しかしそれはまだまだ本格的なものではなく、本格的な漢字の伝来と日本での活用が始まったのは、西暦300年代後半から400年代前半だろうと言われている。

「古事記」「日本書紀」とも、上の写真のように漢字で書かれている。
「17条の憲法」の原本や写本は存在しない。「日本書紀」に全文が引用されているのが初出と言われている。「日本書紀」に引用されている「17条の憲法」はもちろん全文が漢字で書かれている。(「日本書紀」「古事記」の写真は「日本語の歴史1」より引用)

変体漢文・和化漢文

左の写真は日本現存最古の「古事記」の写本。
「大須真福寺宝生院」に蔵される「真福寺本古事記」と呼ばれるもの。
応安四年から五年(1372年)に書写されたもの。

「古事記」は漢字で書かれているが、古典中国語文ではない。

このことを知って私はおどろいた。見たところ全部漢字だから、てっきり漢文(中国語)で書かれていると思っていた。
 漢字で書かれているが、日本語の語順で漢字を配列したり、正規の漢文にはない敬語が使われていたり、内容として日本語の歌謡を含んでいるものだそうだ。漢字を使って日本語の文を書こうとしていることが明らかであるそうだ。
日本語の文体の一種として考えてよく、「変態漢文」とか「和化漢文」言われるもので、平安時代の公家の日記や記録に使われているそうだ。

江戸時代の幕府の公用文にも使われているという。へーっ、そうだったのか、平安時代の貴族の日記はこの変体漢文・和化漢文で書かれていたものだったのか。全く知らなかった。
ちなみに「日本書紀」は、「古典中国語」の部分と「変態漢文」の部分があるので、作成に中国人が協力していたことが推測されるそうだ。

上の「古事記」の写真は左の本「図説 日本語の歴史」から引用した。
この本には、実際の日本語の表記の実物写真がたくさん載っており、書かれたそのままを写真で見ることができて、当時の雰囲気が伝わってくるような気がする。

 

 

 

日本語表記の歴史 1

ある時、友人から「ハングルには日本語の『ん』にはないようだ」ということを聞いた。私はハングルには詳しくはないので、ハングルというよりも「日本語の『ん』はいつ頃からあるのだろう?」という疑問が先にわいてきた。

図書館で調べてみると、日本語の歴史に関してたくさんの本があることにびっくりした。左の本がそのうちの一つ。
山口謠司(やまぐち ようじ)さんの本が多く見つかった。

・日本人が忘れてしまった日本語の謎 (日文選書)
・「ひらがな」の誕生 (KADOKAWA )
・日本語の奇跡ー「あいうえと」と「いろは」の発明 (新潮社)
・日本語にとってカタカナとは何か (河出書房新書)
・てんてんー日本語究極の謎にせまる (角川選書)
・んー日本語最後の謎に挑む (新潮社)

こんなにまとまって日本語の歴史について本を読んだことはなかった。

これらの本を読んで、空海(弘法大師)の果たした役割がよくわかる。また漢字が伝わるまで、現在日本とよばれているところに住んでいた人たちが、自分たちの考えや気持ちを伝えるための文字がなかったこと、そして伝わってきた漢字を使いながら現在の日本語へと発展させていった、時間をかけたすごい努力に感心した。

左の本の「仮名の発生」という章が大変興味を引いた。

私達は(私だけかもしれないが)、「いつ、どこで、だれが」ひらがな・カタカナを発明したのだろう?と簡単に思いがちで、クイズの答えのように「はい、西暦〇〇年、〇〇県のどこそこの〇〇という人が作ったんですよ!」と回答があるだろうと思う。

ところがそんな命題は成立しないと強調されるのが左の本の著者の今野真二さん。

「誰が作ったのかという問いそのものが、仮に誰という答えを得たとしても、それが正解であると証明できない問いであることはいうまでもなく、また答えの推測もできないような問いであることは明らかなことだ。いったいどういうことがわかれば答えられるのだろうか。この問いは修辞的な問いとしてしかなりたたないのではないだろうか。・・・略・・・言語は一定の社会集団に共有されて使われる。だから言語に関して誰かが何かを決めるということはまず考えない。この語は誰が作ったのか、この漢字は誰が作ったかは、いずれの問いにも何らかの条件下でなければ問い自体が有効ではないし、もちろん答えを得ることは難しい。」

こんな調子で私の安易な考えを蹴飛ばしていく。

カタカナが漢字の一部からできていることは、小学校のときにならった。ほとんどの人がそうだと思う。
でもそれがどうしてわかるのか。どんな証拠があるのか。
そんな当たり前と思っていたことを丁寧にこの本は説明している。

「ウ冠の漢字はたくさんあるのに、なぜ『宇』とわかるのかといえば、『干』(宇という字のウ冠の下の文字のこと)という字形の片仮名の「ウ」があるからだ。これでもわかりにくい言い方かもしれない。
片仮名の「ウ」が書かれていることが予想される箇所に「干」と書いてあることがあるので、「干」もカタカタの「ウ」であることがわかる、ということだ。
「干」は単独でも「ウ」という発音をもっているが、「漢字の部分を採ったもの」が片仮名だから、「干」は部分でならなければならない。となると、「宇」から採られた、ということになる。
片仮名の「ウ」は、10世紀から12世紀頃までは、いかにも「宇」から採りました、という漢字で、3画目は短く書かれている。しかし室町以降は3画目が長くなっていることが指摘されている。」

上の「宇」から「ウ」までの字形の変化をみると、その事がよく分かる。(この字形の変化は、「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史① 古代から平安時代 書き残された古代の日本語(筑摩書房)」から引用した。

このような「ひらがな、カタカナの五十音図」と「元の漢字」の表は、国語の教科書などにものっていたような気がするが、一つ一つ元の漢字を特定していく調査と証拠がためのために、何人もの研究者の努力があったとは、今まで気が付かなかった。

いわゆる「五十音図」とよばれるものは、平安時代に遡ることができるそうだが、私の小学校の教室に貼ってあったあの「五十音図」の歴史は新しいそうだ。「カタカタの五十音図」は明治30年(1900年)の文部省小学校令から、「ひらがなの50音図」は戦後になってから、昭和22年(1947年)からだとは知らなかった。
時代をさかのぼってもう少し調べてみたい。

 

 

 

 

ディズニーシーそばの三角点

三角点を探る旅 43

地図を見ると、ディズニーシー駅のそばに三角点があることがわかった。
ディズニーシー駅の横にある「浦安市運動公園」の中にあるようだ。

上の写真の右フェンスの向こうにあるようだ。
行ってみると、そこは、

アンツーカーと芝生の立派な陸上競技場だった。

建物の受付で、三角点のことを聞いてみる。 「三角点?」とびっくりしたような返事。4年前というから 2014年(平成26年)この陸上競技場ができたということだ。
係の人と一緒にフィールドのまわりや、フェンス付近を歩いて調べさせてもらった。
私の見た限りでは見つからなかった。
受付の人も「三角点のことについては,まったくわかりません」という返事だった。
「以前はここは野球場だっんですよ」とおっしゃっていたが、工事の中で三角点は消えてしまったようだ。

大阪に帰ってから国土地理院のホームページをしらべると、ここの三角点の写真があった。

なるほど、野球場らしいフェンスが見える。

「平成23年12月22日」の調査の写真のようだ。
金属の蓋には「三角点 国土地理院」という文字が書かれている。
平成23年だから、陸上競技場ができる前の写真であることがわかる。

上の写真はグーグルで見た現在のディズニーシー周辺のもの。
きれいなアンツーカーの陸上競技場。以前は野球場だったということだ。
この建設工事の中で移転されたのか、埋められたままになっているのか、それはわからない。
国土地理院の写真によると、金属の蓋があったからその中に三角点があったのだろう。ひょっとしたら競技場のフィールドの周囲の芝生の中にあったのかもしれないが、そこまでは調べることができなかった。
関係者らしい受付の人の話では、三角点の移設などの話は聞いたことがないということだ。四等三角点だからマイナーな話題だったのかもしれない。

ディズニーシーのそばにある三角点、とワクワクしながら行ったが見つけることはできなかった。残念な話だ・・・・。