我々はなぜ我々だけなのか

アジアから消えた多様な「人類」たち

「絶滅の人類史」を読んで、もう少し勉強してみようと思い左の「我々はなぜ我々だけなのかーアジアから消えた多様な『人類』たち」を読んだ。この本は最近発掘調査の報告でマスコミに取り上げられるようになってきた、アジアの人類史をメインテーマにした本だ。
人類の歴史の研究はヨーロッパが中心で、発掘される化石もヨーロッパ方面が多い。しかし私たちの住むアジアには、これまで知られていない多様な人類がいた、という研究が進んできている。その最先端であろう研究の成果がこの本にあると思う。私も知らないことがたくさん書かれていて、簡単な勉強に終わりそうにもないなあと思ったのが実感。

上の写真は、この本で紹介されている「人類進化の系統樹」。
この本では、人類の歴史を、私が中学校や高校でならった「猿人」「原人」「旧人」「新人」という言葉で説明されている。

ところでこの「猿人」「原人」「旧人」「新人」という言い方は日本特有のものらしい。以前読んだ「絶滅の人類史」にはこの言葉はなかった。そのことについての説明がある。
「今の国際的な人類学では、猿人や原人といった日本語に相当する言葉は使われていない。むしろ、種、属といった単位、あるいは系統的関係を直接、参照するのが普通になっているからだ。・・・『日本語で猿人とか原人と言っているのは、分類学的な定義とはあえて離して、一般向けの理解を助けるためなんです。分類学のかたい定義に従ってしまうと、すべてが学名表記になってしまいます。そして、その個々の学名には論争があります。だから、あえてそれらの定義を使いたくない、というわけです。そうした混乱を避けて、人類進化の流れがわかることがむしろ大切だと考え、これらの言葉を使い続けています」。

さてどちらがいいのだろうか。私は学校の教科書で猿人や原人、旧人、新人という言葉を学んだ。進化の流れの中で区別するためにこういう言葉があるのだ、ということは理解できた。でもその間には、たとえば猿人と原人の間、旧人と新人の間にすごい溝があるような気がしていた。突然変異のように違ったタイプの人類が登場してくる、というイメージだ。少しずつ変化して、進化につながるのだろうと思うが、それ以上のことは今の私にはわからない。
上の図によると、原人のホモ・ハビリスやホモ・エレクトス、旧人のネアンデルタール人やデニソワ人?、新人のホモ・サピエンスはすべてひっくるめて「ホモ属」に含まれるそうだ。

この本のメインは「小さすぎる人類」とよばれている「フローレンス原人」だ。
2003年、インドネシア・フローレンス島のリャン・ブア洞窟の地表下6メートルから人類の化石、全身骨格がほぼそろった化石が発見された。身長は1mあまりで、とても小柄だった。
こんな小柄な人類がいるのか、子どもの化石じゃないのか、病気で発達不良なのではないか、と様々な議論をまきおこした。

島嶼(とうしょ)効果

人類がこんなに小さくなったのは、島嶼効果(とうしょこうか)が働いたからだと説明されている。
「閉ざされた島の環境では、大型生物が矮小化し、小型生物が大型化するといった島嶼効果がはたらきます。
フローレンス島では、ぞうの仲間のステゴドンが方の高さ1.5mくらいに小型化したり、ハゲコウという地上性のトリが体長1.8mにまで大きくなっなりしました。だからフローレス原人の祖先も、:島嶼効果まで小さくなったのだろうと言うことはいえる。・・・」
今も生きているコモドドラゴンがその例なのだろう。

方の高さが1m50cmのゾウ、1m80cmの高さのトリがいたなんて、想像もしなかった。そんな島に身長が1mあまりの小さな人類が生活していたことは確かだということだ。

デニソワ人と澎湖(ほうこ)人

シベリアのアルタイ地方、デニソワ洞窟から10万年前〜5万年前ごろにいたと思われる古代型人類がいたことを、ドイツとロシアの研究チームによって2015年に発表された。
さらに同じ年に台湾沖の海底から19万年前〜1万年前の原人の化石が発見されたと発表があった。

10万年前のアジアにはどんな人類が生きていたのだろうか。
澎湖人、ジャワ原人、フローレンス原人、そしてネアンデルタール人やデニソワ人が共存していたのかもしれない。
ホモ・サピエンスがアジアにやってきたのは5万年前ごろというのが一番新しい説のようだ。10万年前という説もある。そうするとどこかで出会っていたかもしれない。原人、旧人、新人とよんでいるちがった進化の波の中にある人類たちが、このアジアに共存し?、最終的にホモ・サピエンスだけが生き残った。
「絶滅の人類史」では、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの共存があったのかもしれない、という知識を得たが、この「我々はなぜ我々だけなのか」の本では、さらに多様な人類が生存していたことがわかった。

さて2冊の本を読んだが、多様な人類が生存し、進化の波の中で私たちホモ・サピエンスだけが生き残ったことがわかった。どうしてホモ・サピエンスだけだったのか。様々な説が出されている。これからも出されるだろう。

「なぜ我々だけが?」という問いはこれからも続きそうだ。

 

 

さよならインフィニウム L-OSAKA

科学館 プラネタリウムのリニューアルへ

私のお気に入りの一つ、科学館のプラネタリウムが来年春に新型にリニューアルする。 現在の投影機、その最後の投影会があった。
投影機の名前は「インフィニウムL−OSAKA」。「インフィニウム・エル・オーサカ」と読む。インフィニティ・プラネタリウム、無限大のプラネタリウムということらしい。宇宙船から見た星空も再現できるらしいが、私はその投影をみたことがない。

科学館は休館になっていて、プラネタリウムだけが可動していた。11月30日が最後の投影会となった。 科学館入口の前の広場は、青いLEDでなんとなく幻想的。 今回の入り口は地下だった。
この投影会はネットで知って申し込んでいた。定員300名は早くから完売だった。

ドームの中央に据え付けられたインフィニティL−OSAKA、その姿を多くの人がカメラやスマートフォンにおさめている。
この投影機は2004年より稼働している。14年間の投影で、小学校の見学で見た人も多いと思う。
私も何回も見た。以前の投影機も、その前の投影機も見た。私は自分が小学校の時に、四ツ橋にあった電気科学館のプラネタリウムとの出会いの感動がずっと続いている。

大阪市のプラネタリウムは1937年にさかのぼるそうだ。
その時のプラネタリウムがカール・ツァイス社のもの。左の写真のように独特なデザイン、フォルムがとても印象的。私もこの姿にすっかり見されてしまった一人。
1989年の10月に現在の場所に移動し、大阪市立科学館として開館している。 このときのプラネタリウムはインフィニティアルファ。現在のインフィニティ・エル・オオサカが動き出したのは、2004年の7月。
最後の投影会、解説はとてつもなく思い入れの入ったものだった。
スタッフの人、学芸員の人の熱い想いがヒシヒシとつたわってくる。みんな、館内の人も含めて、プラネタリウムが大好きなんだなあと思った。
南半球の星座、南十字星も見ることができた。これは今回の投影で楽しみにしていたもの。プラネタリウムで全世界の星空が見える、時を越えて見ることができる、というフレーズはよく聞くが、私はこの夜のように実際に体験することはなかった。
この日のような投影は、これからもやってほしいなあと思った。

上の写真はインターネットにあった南十字星。プラネタリウムの解説で、となりにあるケンタウルス座のことがふれられた。そうか、太陽系に最も近いと言われているケンタウルス座は南十字星のそばにあったのか。知らなかったなあ、大マゼラン星雲、小マゼラン星雲の投影もあった。南半球に行く機会があったら、ぜひとも見たい星や星座だ。
パンフレットに「大人向け」という説明があった。
小学生も来ていたし、星座について詳しくない人もいると思うから、事前に何を投影していくのか、順序をおって説明してほしかった。これからどんな投影があるのかと先に知っていたほうが、もっと楽しめたと思う。

パンフレットに「・・・最後の瞬間には、この投影機導入から今まで一度もしていない、でも最後だからできる、アレをしてみようと計画しています。」とあった。「アレ」とは? それが写真の「非常停止ボタン』。
さあ、このボタンを押したらどんなことになるのだろう。期待と不安が、、、、
ボタンを押した途端に、、、、ああ! 何もおきない!!
私は全館の電気が消えるとか、館内が真っ暗になるとか、と思っていたが。
でもそうなったら大変だなあ、とあとから思った。
このボタンを押して止まったのは、インフィニウム・エル・オオサカの冷却音がとまったとあとからの説明があった。ずっと冷却していたことがわかったが、非常停止と冷却とどういう関係があるのか????? 新しいプラネタリウムが公開された時に聞いてみようか。

上の写真が2019年3月30日土曜日より、リニューアルオープンするプラネタリウム投影機。 名前はインフィニウムΣ−OSAKA シグマ・オオサカ。よりホンモノに近い投影を目指すそうだ。

外に出ると、師走も近いのに空気は冷たくない。 川面に映るビルの窓の明かりは、プラネタリウムみる星とはまた違ったまたたきをし、光がゆらいでいた。

 

 

歴史講談

上方講談 時代を駆け抜けた大阪ゆかりの物語

講談ー小中学校の頃にラジオで聞いたことがある。 落語や漫才、吉本の喜劇、歌舞伎、文楽、能などの芸能には興味があって、実際に見に行くことはあるが、「講談」、これは舞台で聞いたことがなかった。
機会があれば生の講談を聞いてみたいと思っていた。

11月24日に「たかつガーデン」で上のような事業があったので申し込んでみた。幸いにも抽選に当たり、聞きに行くことができた。

写真のような舞台が作られていた。

講談と落語、似ているようだがどこが違うのだろう。
「講談協会 オフィシャルヴェイブサイト」によると

「講談」と「落語」はどう違うの?
「講談」「落語」はことあるごとに比較されています。
その違いは一体どこにあるのでしょうか。簡単に言ってしまえば、「落語」が会話によって成り立つ芸であるのに対し、「講談」は話を読む芸という言い方ができます。勿論、読むといっても単なる朗読とは違い独特のしゃべ調子と小道具の使い方で展開される訳なのです。よく使われる小道具として有名なのが張り扇と釈台(机)です。
張り扇で釈台を叩きパパンという音を響かせて調子良く語ります。この小道具を巧みに使った芸こそ「講談」ならではのものです。
また、「講談」は「落語」と比較して歴史が古く、奈良、平安の頃にその原型が見られます。但し、一般に良く知られる「講談」の始まりは「太平記読み」とされています。食に困った浪人が老若男女を集めて「太平記」を面白おかしく読んで聞かせたというものです。
これが「講談」のルーツです。
                   http://kodankyokai.com/about.html

なるほど、講談のルーツは落語よりも古いのか。
写真にある小さな机が「釈台(しゃくだい)」といわれているもの。落語で使っている同じように見える小さな机は見台(けんだい)と言われているそうだ。

真田丸の攻防 玉田玉秀斎

玉田玉秀斎さんの講談は、そもそも講談とは、というところから説明があった。
集まっている人を見ると、私ぐらいの年齢の人、それ以上の人たちか。私は講談については全くの素人だが、何回も聞いている人がいるのだろうと思う。

玉秀斎さんは京都の大学の経済学の講義で、紀伊国屋文左衛門の講談をもとに、需要と供給の関係を説明する授業の手伝いをしているそうだ。
大学生にとって、講談も落語も雑談も区別がつかないくらい世界の違うものに映っているというイントロダクションだった。
出版社の講談社が、講談の本を印刷していた会社から出発していたこともわかり、なるほどだから「講談社」なのかと納得。
演目は「真田丸での真田幸村の活躍」をテーマにしたものだった。真田幸村の知恵が徳川家康軍を翻弄するというもので、さてこれからどう展開するというところで「丁度時間となりまして・・・・。」なるほど、さて次は?

五代友厚と活版印刷 旭堂南鷹

南鷹さんの講談は、大阪万博誘致の成功からはじまった。 東京オリンピックに講談がどう登場するか、というこれまでの野望が、今度は大阪万博に講談をどう登場させようか、という夢の登場になったというわけだ。
演目の「五代友厚」は、2016年のNHKの朝ドラ「あさが来た」で有名になった人。私も「あさが来た」で、大阪と五代友厚の関係を知った。今回は活版印刷と五代友厚の関係がわかっておもしろかった。東京よりも大阪で活版印刷がはじまったとは知らなかった。
「サラマプレス倶楽部 活版印刷アラカルト」というホームページに「古代友厚と大阪活版所」の記述があった。その中の一部を引用すると

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五代は「若き薩摩藩士」をひきいて江戸時代末期に英国に密航し、通称『薩摩辞書』の発行につよい関わりをもった。『薩摩辞書』の初版は上海で製造したが、再版を日本国内での製造をめざして大阪活版製造所を開設し、それを請けおった本木昌造一門に再版刊行を委託した。

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この史実がもとになった講談なのだろうと、帰ってから調べてみてわかった。

安倍晴明 旭堂小南陵

旭堂小南陵さんは女性の講談師。

左の写真は、小南陵さんのブログからとったもの。

小南陵さんは大阪市に講談用の劇場を作ろうとしている。その名は「此花千鳥亭」。落語などの寄席として人気のある「繁昌亭」の講談版というわけだ。写真の小屋は建設中の「此花千鳥亭」らしい。来年完成予定ということだ。完成したら一度行ってみたいと思う。

演目の「安倍晴明」はあの安倍晴明の子ども時代の活躍を描いたものだ。
少年時代は尾花丸(おばなまる)と呼ばれていたそうだ。京の帝の健康が優れず、天変地異もおこる不吉な時代。その災害を取り除くために、蘆屋道満との呪術対決がはじまった。その駆け引きを講談で演じるのだが、おもわず引き込まれてしまう小南陵さんの話術。歴史講談は本当に面白い。
さあ、これからどうなるのだろう。対決の結果は?というところで
「丁度時間となりました、、、」となる。
そうなるだろうなあと予想しながら聞くのもおもしろかった。

私は安倍晴明神社のお守りを持っている。カバンにお守りを持ちながら「安倍晴明」の講談を聞くのも一興だった。お守りの後ろには五芒星が描かれている。これもまた一興だ。

忠臣蔵大阪の義商 天野屋利兵衛 旭堂南左衛門

最後は旭堂南左衛門さんの忠臣蔵の中の天野屋利兵衛をテーマにしたもの。 歌舞伎で見たことがある。「天野屋利兵衛は男でござる」という名台詞で有名な演目。

天野屋利兵衛は赤穂浪士の討ち入りの手助けをするため、討ち入りに必要なものを集めて、提供したとして知られている。今回の演目もそれに従っていた。しかし史実かどうかは疑問だそうだ。赤穂浪士に関わっての話にはそういう事が多い。でも話としては史実がどうであったかどうかよりも、そのほうがおもしろいのは確かだ。

 

上の写真は旭堂南左衛門さんの公式ホームページによるもの。
上方講談の重鎮と言ってもいい人だと思う。
南左衛門さんの講談は、私が昔に聞いたあの講談の口調だった。
歯切れがよく、畳み掛けるような語り口、滑舌もとても良い。
話に引き込まれるというのはこういうことなのだろう。
「講釈師、見てきたような嘘を言い」なんていう言い方があるが、「嘘かなあ、嘘だろっ」と思いながらその話しぶりに引き込まれる、というのは面白いことだ。
落語と同じようにその話芸はすばらしいと思った。講談師にとっては落語のほうがずっとあとから出来た芸だから、「落語と同じように」という言い方は失礼かもしれない。繁昌亭でも講談があるようだから、行ってみたいと思った。

講談を聞いた帰りに、上六の近鉄百貨店に寄った。
地下で買い物をしたあと、地下鉄に向かう出口を探していると、なんと「五平餅」を売っていた。
NHKの朝ドラ「半分、青い」が放送されていたとき、あちこち五平餅を探したが、どこにも売っていなかったのに、ここにあるとは。
「『半分、青い』の時はもう大変でしたよ。」と店員さんが笑って言った。みんな「五平餅」を探していたのだろうなあ。
「クルミもはいってますよ。朝ドラのおじいさんがつくっていたようにね」とたっぷりとタレをぬってくれた。
 「五平餅」は私が期待していたようにおいしかった。
耳にも胃袋にも栄養のある一日だった。