愛蘭土紀行 24

スイフトとガリバー

この聖パトリック教会に「ガリバー旅行記」を書いたスイフトが眠っている。
上の写真の左側の像がスイフトである。

このタイルの下に棺が埋められているそうだ。人が囲んでいたのできちんと写真に取れていないが、スイフトの横にあるタイルに「ステラ」の名前が書かれている。
写真に二人の男女が写っているが、スイフトとステラだ。
そのへんの事情について、司馬遼太郎さんは書いている。

「祭壇をはるかに望む右手の床の上に四角い真鍮板が貼られているのに気づいた。スウィフト。そのように刻まれている。棺がこの真鍮板の床の下におさめられているのにちがいない。・・・・略・・・
 アイルランド人に大きな才能が宿っていることを最初に示した作家が、ジョナサン・スウィフト(1667年〜1745年)であることにたれも異存はあるまい。
かれはクロムウェルの死より10年のちに、ダブリンでうまれた。幼くして孤児になり親戚に養われて成人し、さきほどその前を通ったトリニティ・カレッジ(英国国教会の大学)に入学した。
 その入学は1682年で、日本では天下泰平、五代将軍綱吉の治世のはじめのころである。アイルランド人にとって生きるのがやっとという時代がつづいていた。
 中野好夫氏によると、怠惰放縦な学生だった。学課に好き嫌いが多く、古典や詩、歴史には熱中したが、形而上的なものや抽象的なもの(神学、哲学、数学)などはきらいで、生涯を通じてそういうものを軽蔑していたという。
 食うために国教会の僧になり、46歳の時、この教会の首席司祭になる。
 スウィフトはずっと独身で通していたが、そのかわり恋愛はした。若いころに知り合った女性に”ステラ”という愛称をあたえて愛し、また中年のころ、24も歳下の女性を愛した。
 おもしろいことに、床下のスウィフトの棺は、かれよりも早く亡くなった”ステラ”の棺と並んで埋められている。それにはさまざまないきさつもあるらしいが、ともかくも、英国国教会は粋なものである。」

完全には撮せていないが、スウィフトとステラの名前が見える。

聖パトリック教会の見学の後、いくつかの観光に行くのだが、午後の自由時間に行った本屋さんでのことを書いておこう。上の写真がその本屋さん。トリニティ・カレッジのそばにある本屋さんだけにたくさんの本があった。

ここで「ガリバー旅行記」の本を探したのだ。
以前に「ガリバーは踏み絵を踏んだのか?」で調べたことがあるが、スイフトが「ガリバー旅行記」を出版したのは1726年59歳のときだった。初版は1週間で売り切れるという大評判になった本だ。
スイフトが「ガリバー旅行記」を書くきっかけになったことはいくつかあるようだが、その中の一つに前年の1725年にデフォーが「ロビンソン・クルーソー」を出版したからだ、という説もある。スイフトの負けじ魂が感じられる説だ。

私はアイルランドで、アイルランドの人が買って読んでいる「ガリバー旅行記」が買いたかった。
写真でわかるように大きな本屋さんで、子どもの本のコーナーや歴史のコーナーなどがあり、ウロウロしたがわからない。「ガリバー旅行記」はどの分類の本になるのだろう? 妻と二人でうろうろと書棚を見ていると、アイルランドの人らしい男性が声をかけてきた。「何を探しているのだ?」という顔つきで英語で話しかけてきた(と思う)。
私は「ガリバー」「ガリバーズトリップ」などと言うが、全く通じない。
作者の「スイフト」といえばわかるだろうと思い、「スウィフト、スイフト」と繰り返すがこれも全く通じない。
そうだ携帯で撮した、聖パトリック教会のスイフトの肖像を見せればわかるだろうと思い、見せてみた。
彼は「オー、Swift , Jonatha Swift 」と言ったと思う。「Swift, Swift 」と、にっこり笑って私に正しい発音をさせるように何度も繰り返して言って、本屋さんの中を案内してくれた。

書棚から何種類もの「Gulliver’s Travels 」の本を出してきた。
絵本のような本、子ども用に短くした本、ペーパーバックの本、ハードカバーの本など数種類もの本を積み上げてくれた。
妻は日本語で「ありがとう」を繰り返していた。

私は以前から気になっていた、ラピュタの章で、ガリバーが踏み絵をしていないことを役人に告げ口したのは「船長」か「水夫」かを調べてみた。
ラピュタの章はあっても、「踏み絵」のことがのっていない本がほとんどだった。
1冊だけが注を付けていた。
それが左のハードカバーの本だ。

本文のその部分が上の赤い線で引いたところ。
注を見ると、Skipper : Cabin boy と書かれてあった。
やはり「船長」ではなかったのだ。これで私が疑問に思っていたことが解決した。
アイルランドに来て解決できるなんて、とても嬉しかったし、楽しい経験だった。

司馬遼太郎さんの本には、アイルランド人はとても親切だ、ということが書いてあったが、それは私にとっては真実だった。

 

 

 

 

 

愛蘭土紀行 23

聖パトリック教会

聖パトリック教会は工事中だったが、中を見学することはできた。

司馬遼太郎さんは聖パトリック教会について、「カトリックの教会だと思っていたら、英国国教会だった」と驚きのニュアンスで「愛蘭土紀行1」で書いている。
聖パトリック教会は1191年創設と言われている。最初はケルト系教会だったが、イングランドの宗教改革の影響で英国国教会系となった。「愛蘭土紀行1」には、

「教会に、カトリックの聖人の名がついているじゃないか、と思った。
聖人というのは、ローマ・カトリックの神学とながい習慣によってできたものである。新教(プロテスタント)には聖人崇拝がなく、その後、新教の影響を強くうけた英国国教会においても聖人崇拝があるはずもないと私は思っていた。
・・・・略・・・・なにしろ英国国教会は16世紀、ヘンリー8世が王妃と離婚したいがために教会をローマから独立させ、英国国教会として出発させた宗教だから、諸事、鷹揚あるいはぬえのようにできている。
 初期にはカトリックに揺れたり、プロテスタントになったり、じぐざぐをくりかえしたが、やがて中道を行くということにおちついた。たとえば儀式はカトリック、教義は新教、聖教者のスタイルは結婚生活が許されるということで、新教の牧師じみている。」

この「中道を行く」までに大きな悲劇がアイルランドにはあった。
司馬遼太郎さんの「愛蘭土紀行1」には次のようなことが書かれている。

「ただし、アイルランド人は、いまもクロムウェルを許さない。
 1649年夏、クロムウェルは”共和国軍”2万をひきいてアイルランドに押しわたり、かれらがカトリックだというだけで、大虐殺をやった。聖職者、修道女、女子供をえらばなかった。
 ドロヘダでは4千人を虐殺して、ウエックスフォードでは二千人を虐殺した。働き盛りの男をみつけると、アメリカ大陸へ奴隷(年季奉公人)として売りとばした。
「プロテスタント」という言葉が、アイルランドにおいては、悪魔もしくはそれ以上のイメージになったのは、このときからだった。
 宗教は、水か空気のようである場合はいいが、宗教的正義というもっとも悪質なものに変化するとき、人間は簡単に悪魔になる。」

聖パトリック教会の中には、美しいステンドグラスがたくさんあった。
そこはプロテスタントの教会的ではない。キリストやマリア像はないが、カトリックの教会の雰囲気がある。

司馬遼太郎さんは言う。

「つまりはいい意味でいいかげんであるため、カトリックの専売特許であるはずの”聖人”の称号をそのまま英国国教会で無断借用して、”聖パトリック教会”と名づけているのである」

私にはキリスト教のことはよくわからないが、歴史の中で右往左往させられてきたアイルランドのことを思うと、素直にはその「いいかげんさ」では理解できない部分がある。

聖パトリック教会の前庭には、美しい花壇があり花を咲かせている。子どもの遊具などもあって、楽しく明るい空気がある。
こんな風景がいつまでも続いてほしいと思う。

この聖パトリック教会には、私の見たいものがあった。
それは「ガリバー旅行記」を書いたスイフトの墓だ。

 

 

 

大阪錫器

ここは大阪錫器株式会社。近鉄南大阪線の今川駅のすぐ近くにある。

以前にあべのハルカスで錫のタンブラーをつくったことから、錫の容器にへの関心がたかまっていた。

知り合いからハルカスで錫のタンブラーを販売していた「大阪錫器」が大感謝祭と称してセールをしていることを知った。

そこで天王寺阿倍野駅から近鉄南大阪線にのって、ここ「大阪錫器株式会社」にやってきた。

以前にも調べたが改めて錫について調べてみた。

錫器は今から約1300年前に伝わってきたそうだ。この間まで開かれていた奈良の正倉院には、この錫の容器が数点保管されているそうだ。

大阪における錫の歴史は、延宝7年(1679年)の「難波雀」に「錫引き、堺い筋」という記述があり、江戸時代中期には心斎橋、天神橋、天王寺などで生産されていたようだ。

戦争により職人が減り、また材料の錫も入手困難となり大打撃を受けたが、1983(昭和58)に伝統工芸品『大阪浪華錫器』として指定・承認されたのがここ「大阪錫器」だそうだ。(大阪錫器ホームページより)

職人さんの作業も見ることができ、溶かした錫の溶液を型に流し込んでタンブラーを創るところとか、普段では公開されないだろう様子をかいまみることができた。

上の写真のような工具を使って錫が加工されている。ここはほとんどが手作り。その作業の緻密さに驚く。
マレーシアに行ったとき、シティマーケットで錫の容器が販売されていた。色合いや値段を見たとき、これなら大阪で買うほうがいいなあ、と思った。そのことを職人さんに話すと、「日本から技術指導でマレーシアに行ってるのです。錫の精度、ここはスリーナインですがマレーシアはそこまでなっていません。また加工技術も日本のほうが上です。買うのならやっぱり大阪のほうがいいですよ」という話をしてくれた。

上の写真はお茶などを入れる容器。真ん中の白い金属色の容器は、上のふたが重力で降りてきているところ。完全に降りるとその継ぎ目はほとんど見えないほどの精密さでできている。左右の茶色の容器も同じ。ふたと本体とのつぎめがあるのか、ないのかわからないほど。これはすべて手作りだそうだ。手の感覚でこの精密さを生み出しているのだからすごい。テレビなら「職人さんの技術」で表現されるかもしれないが、そんな言葉だけでは表しきれないすごさを感じた。

これは錫の容器に金箔をはったもの。仏壇の職人さんとのコラボのようだ。それにしても美しい。

子どもづれのお客さんも思ったより多く、そのためかガチャガチャがおいてあった。わたしたちがガチャガチャをやって出てきたのは「錫でできた貝殻」だった。穴を開けたらかわいいネックレスやペンダントになりそうなものだった。

私がびっくりするほどのお客さんが出入りしていた。小学生に体験をさせている家族もあった。
錫のぐい呑による味の体験もあった。日本酒やアイスコーヒーの錫の容器とそれ以外の容器との味の違いがあるのか、ないのか。私は日本酒で、妻はアイスコーヒーで味わいを確かめた。
びっくりするほどの味の違いがあった。錫のグラスは味が良くなる。
何組もの錫の容器を持って「あれもいいなあ」と購入している人も多かった。

以前ハルカスで体験で作った錫のタンブラーが食器棚にぶつかってゆがんでしまったので、ここで修理してもらった。それが上の写真の左。
右は妻に買ってあげたタンブラー。容器の中にも模様が入っている。中に模様があると泡立ちが良くなり、味も良くなるそうだ。買ったものはB級商品と呼ばれるらしく、店頭に出すときの最終審査ではねられたものだそうだ。商品としての価値は十分にあるが、贈り物としてはおすすめできないそうだ。その分少し安く販売されていた。
並べてみるとやっぱり職人さんの作ったタンブラーにはかなわない。
来年もこの時期にあるそうだ。
忘れずに行かなくては。