金工教室

以前から大阪市立クラフトパークに関心があった。
夏休みの一日体験教室のパンフレットを手に入れたので、どこかの教室で体験をしたいと思った。とりわけ「金属加工」というものはやったことはなかったので、とても興味が湧いた。
「金工教室」で「スプーンと小鉢のアイスクリームセット」の教室に応募した。

パンフレットの『金工教室」の部分を取り出したのものが左の写真。
小学3年性からと書いてあったので、それくらいの子たちばっかりだと、ちょっと恥ずかしいなという気持ちがあった。

左は大阪市立クラフトパークのエントランスホール。
各教室での作品が陳列してある。

この大阪市立クラフトパークは平成11(1999)年10月にオープンした建物で、20年になる活動をし、木工、金工、染色、織物、吹きガラス、パーナーワーク、ステンドグラス、キルンワーク、陶芸などの教室がある。

金工教室には、すでに錫が温められていた。融点は232度。ガスで溶けるようだ。

ホワイトボードに作業手順が書いてある。
洋白(ようはく)スプーンづくり
1.持ち手に模様を入れる。
2.木皿などで形を作る。
錫(すず)の器(うつわ)
3.型に錫を流し込む。
4.中心を出しコンパスで円をかく。
5.木皿や当金(あてがね)をつかい形をつくる。
6.形ができたら小口を磨いて仕上げる(ヤスリ、紙やすり#2400
7.スプーンはグラノールで、錫の器は磨きヘラでこすり完成。

すブーンの形をした金属に、模様のついた金槌でスプーンの持ち手になるところに模様をつける。叩くことによって、上の写真のように模様がつく。

すブーンのものをすくう部分を木皿のカーブを使って、たたいて形をつくる。

型にとけた錫を流し込んで、錫の器になる円形の錫板をつくる。

中心を出し、コンパスで写真のように円をいくつかかく。この線に沿って叩いてかたちを作り出すのだ。

上の写真の右側にある黒っぽい丸い部分、金手湖のようなものだが、それを利用して、円盤を叩いてお椀状にしていく。

2時間ほど叩き続けると、なんとなくお椀らしくなってきた。テレビでやっている職人さんを想像すればいい。

私のような素人が2時間も叩き続けると、穴が空いたり金属面が薄くなってくる。
そこは金工教室の講師の人が修理してくれた。

完成?した錫のスプーンと錫の器でアイスクリームを食べる。また格別の味だ。
1時から4時過ぎまでの体験だったがおもしろかった。職人になったつもりでひたすら叩き続ける。しかし売り物のように見事なカーブを叩き出すのは、とても無理。
しかし小学生の子どもたちもしっかりと仕上げていた。

金工、これは面白い。またやってみたいと思った。

 

 

「4月1日は早生まれ」とは?

学校も二学期が始まった。
私の家の近くにも小中学生がいて、グループで登校したり、友達が迎えに来ている場面がまた見られるようになった。
小学校1年性の子どもたちの姿もすっかりたくましくなって、大きい子どもたちに負けないような元気な様子が目に入る。
以前の仕事仲間の女性たちが、子どもが誕生したので久しぶりに集まる機会があった。3月下旬の生まれの子がいて「早生まれ」が話題になった。
毎年4月の入学時には「早生まれの子は・・・」という話をよく聞く。
「早生まれ」とはどういうこなのかと、改めて調べてみようと思っていたら、左の本を図書館で見つけた。その最初の項目に「早生まれ」のことが書かれていた。

前年の4月2日から本年の4月1日の間に
          満6歳の誕生日を迎えた子

これが新1年性の基準だが、「なぜ4月1日なの?、3月31日じゃないの?」と思うのが普通の感覚だと思う。4月1日に生まれた子も新1年生でいいじゃないの?

これには4つの法律が関係していると、この「仰げは尊し、和菓子のON」には書かれている。

学校教育法施行規則

「小学校の学年は、4月1日に始まり、翌年3月31日に終わる。」(第59条)
この条項は中学校(第79条)、高等学校(第104条)についても書かれている。

なぜ4月から翌年の3月か? という疑問についてこの本では説明があるが、ここでは省略させていただく。興味のある方はこの本をお読みいただきたい。

学校教育法

第17条 第1項
「保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満12歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校に就学させる義務を負う」(一部省略あり)

ここでいう「学年の初め」というのは、4月1日である。
つまり「4月1日が満6歳に達した日の翌日以後」になればいいと書いてある。
では3月31日までに誕生していればいいというように理解できる。
そうすれば4月1日誕生の子の入学は次の年になるのでは?
「子の満6歳に達した日」とは?

年齢計算ニ関する法律(1902年)

この法律は1902年だから明治35年の古い法律だ。

1.年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス
2.民法第143条「暦による計算」ノ規定は年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス
(以下略)

第1項は「年齢の計算は生まれた日を1日目とする」ということ。
第2項は「民法第143条の規定を当てはめる」ということ。
ではその民法とは?

民法第143条(暦による期間の計算)

1.週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。
2.週、月又は年の初めから期間を計算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応答する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応答する日がないときは、その月の末日に満了する。

なんともややこしい。1回読んでも私にはさっと理解できなかった。

まず第1項は、「月数によって期間を定めたときは、大の月(31日)・小の月(30日や28日、29日)があっても、日数に関係なく月単位でカウントする」ということ。また「年単位で考えた時、うるう年があっても1年と数える」ということだ。

第2項は、週や月、年の初めからスタートしない期間を考えた時、たとえば「起算日を9月20日として3ヶ月後の期間満了日は、3ヶ月後の12月20日の前日の12月19日」になるということ。
なるほどそれはそうだな、と納得できた。

4月1日生まれの子どもの年齢は?

ではもとに戻って「4月1日生まれの子どもの年齢」について考えてみよう。

民法などの条項に合わせて考えると、

4月1日生まれの子どもの年齢は、4月1日を起算日として、次の年の応当する日である翌年4月1日の前日の3月31日が終了し時点で1つふえる」ということになる。

ここからが肝心なところ。

3月31日が終了した時点とは、「3月31日24時00分」のこと。
4月1日の0時00分ではない。

両者は全く同じ時点だが、法律上では3月31日のうちだと規定しているのだ。

このような法律によって、

4月1日生まれの子どもは、3月31日24時00分に満6歳になるので、
次の日の4月1日から始まる学年の1年生として小学校に入学することになる。

早生まれの子とは、誕生日が「1月1日から3月31日まで」ではなくて、「1月1日から4月1日」までの子どものことをいうことがわかった。
通常の感覚と少し違うが、それはここで説明した法律がもとになっているのだ。

以上の説明は、「仰げは尊し和菓子のON」を大いに参考させてもらった。このほかに世界的に見て4月始まりの学校は日本以外にあるのか、などの興味ある話題が28にわたって解説されている。参考文献や参考になるサイトの紹介もあり楽しめる本だった。

 

 

 

 

日本語表記の歴史 7

撥音(はつおん)と促音(そくおん)

「日本語全史(沖森卓也著)ちくま新書」によると

「古代日本語の音節は、・・・現代と大きく違っている点は、拗音(キャ、シュの類)が存在しないこと、『ん』に相当する撥音や『っ』で書かれる促音がないことなどである(P30)」とある。

では、いつごろから『ん』、『っ』が使われるようになったのだろう。

「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②(倉島節尚著)筑摩書房」によると、

「平安時代i漢語の影響もあって『ン』と発音される音(撥音)が定着し、仮名で『む』と書かれるところや助動詞の『む』などが、『ン』と発音されるようになりました。

しかし、この音を書き表す方法がなかったので、『む』、『い』、『う』であらわしたり、何も書かない無表記であったりしました。

平安時代に書かれた紀貫之の『土佐日記』では、『天気(てんき)』のことを『ていけ』と書いています。」

とある。

左の写真がその土佐日記の一部。最後の行にある「ていけのことについていのる」というのが「天気のことについていのる」と読むが、書くときには「ていけ」と書いていたということがわかる。

さらに「っ」については、次のように書かれている。

「つまって発音される音『促音』も平安時代からはじまりました。

この音を書きあらわす方法もなかったので、『レ』のような符号や、『む』『う』であらわしたり、無表記であったりしました。

また『退屈(たいくつ)』のように『つ』で終わる漢語の『つ』の部分が促音に似た音たったことから、促音が『つ』と書かれるようになったと考える説があります。

なおこれでは本来の『つ』と発音される語と区別がつかないので、『現代仮名遣い』では促音は小さい『っ』で書くと定められています。」

とある。

(鎌倉時代に書かれた)「平家物語」の一部の写真にあるように、「あって」の「っ」が省かれていたり、「やんごとなき」の「ん」が無表記であったり、「まろうど きたって」が「まろうど きたて」と促音の「っ」がないことがわかる。

私達が使っている「ん」や「っ」も、長い歴史の中で作られてそれが広がっていったことがわかる。ここで紹介した本以外にも、たくさんの本があり、諸説色々ありということがわかった。

拗音は鎌倉・室町時代

拗音について、「日本語全史」には、

「拗音という語が『キャ、ショ』などの類を指す意味て用いられるようになったのは鎌倉時代中期頃の悉曇学(しったんがく)においてである。『悉曇初心抄』(1320年以前)には、キャは拗音、ヵは直音であるという記述が見え、これ以降は音韻として拗音が意識されるようになる」

とある。

拗音や促音を小さく書くのは今は当たり前だが、昔はどうだったのだろう。

上の写真は「小学指教図」といい、明治16年のもの。
図を使って言葉を教えたものだが、たとえば一番上の段の左には「きようだい(鏡台)」があり、「よ」は小書きの「ょ」ではない。三段目の左は「ちやうちん」、四段目の右は「らつぱ」とあり、拗音は小書きになっていない。
ここには小書きになっていない例を上げたが、子ども向けの本などには小書きの拗音も使われたということだ。字の大きさの統一はなかったのだろうか。

拗音が小書きになったのは昭和になってから

昭和61年に出された「現代仮名遣い」(昭和61年7月1日 内閣告示第1号)では「拗音に用いる『や、ゆ、よ』は、なるべく小書きにする」という指示で、必ず小書きにしなければならない、というものではなかった。
学校では促音や拗音は小書きー小さな文字の「っ、ゃ、ゅ、ょ」を使うように指導されているが、法令文書では「や、ゆ、よ、つ」は小書きではなく、普通の大きさの文字であった。
それが現在のようになったのは昭和63年7月20日の通知、(「内閣法制局発第125号 内閣法制局長官総務室から 内閣官房内閣参事官室あての通知)「法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について」による。
そこに「小書きにする」と書かれている。
それから促音・拗音は必ず「小書きする」ことが当たり前になったのである。小学校で習っていることが普通になったのが昭和61年、1986年からだとは思いもよらなかった。

最後に半濁音(ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ)について書いておこう。

「日本語全史」には「半濁音符はキリシタン資料の『落葉集』(1598年刊)に見られるのが最も古いようである。」と書かれている。

「落葉集」について調べてみると、長崎で刊行されたキリシタン版の漢字辞書であることがわかった。そこには
字訓にパ行の半濁音が使用されている。たとえば、
「一夫」・・夫に「ぷ」の送り仮名
「一飯」・・飯に「ぱん」の送り仮名
「一歩」・・歩に「ぽ」の送り仮名
が書かれているそうだ。

「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②」には、

「キリシタンの宣教師たちがのこした書物には、「パアテル」のような半濁点が書かれています。これはやがて、日本語でも使うようになりました。(パアテルとはポルトガル語で「①父なる神・聖父 ②神父」のこと)」
とある。

もともとの日本語になかった音が、中国やポルトガルの影響を受け、日本語の音が広がっていったことがよくわかった。
長い歴史と時間がかかって、現在私達が使っている「現代仮名遣い」となったわけだ。それにしても「拗音」が小さい「や・ゆ・よ」で政令文書書かれるようになったのが30年少し前からだとは、知らなかった。