山月記と英語

Enjoy Simple English の5月号は「山月記」がのっていた。
「山月記」は人間が虎になってしまった話だ、という記憶があった。
ラジオでこの小説を誰かが朗読して、解説しているのを聞いたような気もする。

後で調べてみると、「高校の現代国語の教科書にのっていた、それも全教科書会社の現代国語にとりあげられていた」、ということがわかった。しかし私は高校でこの小説を習った、という記憶は全く残っていない。現代国語の先生には申し訳ないが、、。
このへんのことは、またあとから詳しく書こうと思う。

著者の中島敦さんの文章は、漢文じみて正直ちよっと読みにくい。
出だしはこのように始まる。

隴西の李徴りちょうは博学才穎さいえい、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性、狷介けんかいみずかたのむところすこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるをいさぎよしとしなかった。



(青空文庫より)

Enjoy Simple English では、次のように英訳されている。

Licho  from  Longxi  was  intelligent  and  talented.   At  a very young age, he passed  a  very  difficult  test  called  the  kakyo  so  he  could  become  a      government  official.   He  was  then  sent  to  an  area  called  Konan  to  be  the  leader  of  the  army  and  prison  department.    Bat Licho was too proud to do that job.

英語で読めば、なるほどとわかる。

「山月記」での授業で、討論になるところが2つあるという。
一つは李徴の書いた詩について、友人の袁傪の抱いた感想についてである。

本文を見てみよう。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。

この部分はよくわかる。英語ではどのように書かれているだろう。

You  could  tell  the  poet  was  very  talented.                                                  Ensan  was  impressed  but   thought,   “Licho  could  have  become  a  great  poet.  But  there  is  something  missing  for  the   poems to  be  really  great.”

何が欠けているのか、何が missing  なのか。
このことをテーマにして高校の現国の時間で話し合うことが多かったそうだ(「山月記」はなぜ国民教材となったのか」大修館書房 佐野幹著)が、私の記憶にはない。原文を読んでも直接的な答えが書かれていないのだから、話し合うことそのことに重点が置かれていたのかもしれない。

もう一つは、虎になった原因を考えるところ。
李徴は自分でこのように言っている。少し長いが青空文庫より引用する。

何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようにれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己のっていたわずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐと、刻苦をいとう怠惰とが己のすべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。

Enjoy Simple English の英訳は次のようにまとめている。

I  said  before  that  I  don’t  know  why  this  happened  to  me.  but  I  have  an  idea.  I  wanted  to  become  a  great  poet.  But  I  didn’t  have  a  teacher  or  try  to  improve  my  writing  with  other  people  with  the  same  dream.
Not  only  that,  I  was  not  happy  living  with  people.
 I  worried  that  I  wasn’t  good  enough,  so  I  never  tried  to  improve  my  writing.

But  at  the  same  time,   I  half  believed  that  I  was  good  enough,  so  I    couldn’t  be happy  living  a  normal  life.
I  had both cowardly  pride  and  arrogant  shame  inside  me.  I  have  heard  people say,  “Each  of  us  is  an  animal  trainer.  We train  the  animal  within  us.  That  animal  is  who  we  really  are.”
  My  animal  is  a  tiger.  It  made  me  a  bad  person  and  made  me  hurt  my  family  and  friends.
The tiger  was  inside  of  me,  but  now  my  inside  and  outside  look  the    same.
I  can  no  longer  live  as  a  human.  And  even  if  I  could  wirte  a  great     poem  now,  there  is  no way  for  me  to  tell it  to  people  anymore.   
 
我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心

李徴の自分自身の分析によると、自分が虎になったのは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」によるものだと言っている。
その部分の英語は cowardly  pride  and  arrogant  shame  となっている。

cowardly  は文字通り「臆病な」という意味の形容詞。

arrogant  は「傲慢な、尊大な、横柄な」という意味の形容詞(どちらも Eゲイト英和辞典 ベネッセ による)

原文通りの形容詞を、英単語の形容詞から選んでかかれている。

「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」、これは日本語でも難解な言葉だと私は思う。
これについて高校の現国の授業の中で議論する指導がなされてきたそうだ(「山月記」はなぜ国民教材となったのか」より)。
議論することはできても、どこが終着点なのだろう? と私は思ってしまう。

高校の現代国語の時間に、1回だけ班で話し合いをしたことを覚えている。
たしか安部公房の作品だったことまで思い出すが、作品名は覚えていない。それぞれがなにか意見を言ったが、授業の最後に「現代社会の矛盾」という大きな概念でくくられてしまったかなあ、というぼんやりした記憶があるが、、、それ以上のことは覚えていない。

さて、そういった「文学論」とか「授業論」はまたの機会に考えることにして、「山月記」も原文と英訳文を比べながら詠むと、自分ではよくわかる気がする。
英訳した人の読みが確かなのだろう。原作をしっかり理解していなと、英語に翻訳するときに困るだろうと思う。日本や世界の名作を、私にとって読みやすい英語にしたものを詠むことは、両方の理解にとって役立つと思った。

 

 

 

 

 

くまのプーさん3

上の写真は、あべのハルカスでの「くまのプーさん展」の入口にあった看板。

入口の看板は、「くまのプーさん」の第一章の挿絵を利用して作られている。
この文章と挿絵について、「「くまのプーさん』を英語で読み直す」には次のような説明があった。

・・・・・・・・・・・・

まず本文のレイアウトだが、ミルンはシェパードと共同で作業を始めたとき、シェパードにどのような挿絵を描くか、細かい指示を出している。大きさ、形、内容、ページにおける位置など、すべてミルンが決定しているのだ。たとえば最初の章を見てみよう。ここではプーが木に登り、ハチミツを探す場面が出てくるが、その様子が描かれた絵の横には各行に一つの語が下まで書かれており、ページの一番下には短い詩が載せられている(上の絵を参照)。こうした配置は、作者ミルンの意図に基づくものなのである。普通こうした場合には、編集者や装丁をおこなう人間がレイアウトを決めるものだが、これが作者の手で行われている。いったいなぜなのだろうか?
しかしこれについては説明する必要がないだろう。ページを見ているだけでも、このレイアウトがいかに大事かが一目瞭然だからだ。実際、ディズニーにしても、あれほどいろいろな変更を加えたにもかかわらず、映画の中では同じレイアウトをつかっているのだ。

・・・・:・・・・・・

これは第7章の挿絵。これについても解説がある。

「この挿絵が含まれたページでは、カンガの動きに合わせるかのように、文章の配置も上下に動くようになっている。・・・・
 本文と挿絵に関して、もう一つ指摘すべき点がある。プーの物語では、本文と挿絵が密接に結びついて作品を構成していることだ。物語は当然ながら本文を左から右へ読んでいくわけだが、登場人物の絵の中で示されている指示が、本文と完璧に対応しているのである。つまり、もしプーがどこかへ出かけると書かれていれば、彼の姿は左から右へ動くように書かれ、文章と対応するわけだ。

これは日本語版ではわかりにくい点で、というのも本文と挿絵が違う方向に動くからである。
日本語版で感じを掴むには、挿絵を逆にするか、本文を縦書きから横書きに変えたほうがいいかも知れない。
この問題はそれほど重大なことではないけれど、考えてみれば本が読者に与える心理的効果は、大きな事柄が引き起こすものではなく、ごく小さなことがたくさん集まって生まれるものなのである。」

左は岩波文庫の「くまのプーさん」。
日本語訳は縦書きで書かれている。
そのため、カンガルーの飛んでいる方向は、文章の書かれている方向とは逆になっている。左へ文字を読んでいくことで話が展開していくのだが、カンガルーの進んでいる方向は過去の方向に向かっている、ということなのだ。

翻訳する時に、挿絵を左右反転する、そんなことは許されるのだろうか?
考えたこともなかったことだ。
とにかく、「くまのプーさん」は、作家ミルンが本のイメージをしっかりともっていて、それに基づいた細かな指示の下にシェパードが絵を描いた。それが「くまのプーさん」を誕生させ、全世界に広まったと言えるだろう。

図書館で下のような本を見つけた。

本の裏表紙には、「・・・ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で開催された大規模な展示に合わせて刊行された本書では、作者のA.Aミルトンと挿絵のE.H. シェパードが力を合わせてプーと仲間たちの物語を創り出した背景にどんな秘話があったのかを探っていきます。・・・」とある。
この本にはミルンとシェパードがどんなやりとりをしていたのかを想像できる部分が多く載っていた。たとえば、

左は「プー横丁にたった家」の第8章「コブタがとてもりっぱなことをするお話」(岩波書店 石井桃子訳)にある挿絵。
この挿絵について、ミルンとシェパードのやりとりが載せられている。

「ミルンはシェパードに細かい指示を出しています。『フクロの家が崩れたとき、壁にあるドアに付いていた郵便受け箱は、天井についた郵便受け箱になる(フクロの家の玄関は居間に続くという設定だ)。暖炉が正面を向き、コブタは右側の椅子に座っている。プーは左側だ。家が潰れた後は、右手の壁(ロバートおじさんの肖像画がかかっている壁)が床になる。左側の壁(ドアが埋め込まれている壁)は天井になる。これでわかるかい?」

シェパードは細心の注意を払って構成を考え、参考のため、嵐の前のフクロの部屋まで描きました。」
その絵が上のスケッチ、下にはシェパードの注釈が書かれている。

二人の協力がよく分かる。文章だけでなく全体構成を視覚的に考えていたミルン、その指示を注意深く絵にしていったシェパード、この二人の天才によって「くまのプーさん」シリーズは完成したのだと思う。

「ハルカス美術館」の一階上にある喫茶店で、「くまのプーさん展」にちなんだケーキセットをいただく。コーヒーの上に、ハチをかたどったラテアートというのかな?

学芸員さんの説明の後、もう一回入り直して、ゆっくりと「くまのプーさん」展を楽しむことができた。芸術鑑賞で頭が一杯になったので、胃袋に美味しいコーヒーとケーキでしばしの休憩をとった。ハルカスの「くまのプーさん」展は、今後10年は日本で見ることはできないという原画を見ることができるという、大変お得な展覧会だと思う。

 

 

 

くまのプーさん2

「くまのプーさん」を英語で読み直す

左の写真は、ハルカスでの「くまのプーさん展」のショップコーナーでのもの。たくさんの「プーさん」の本が並んでいた。
私が気に入ったのは左の本。

The Christopher Robin Collection というもので、「くまのプーさん』の全訳ではない。コレクション、という名の通り、エピソードを選んで本にしたもの。少し高い本だったけれど、ここでしか買えないだろうと思って買うことにした。
絵も大きくて見やすく、なによりも活字の工夫がたのしかった。そのことはあとで紹介するつもり。

以前に左の本、「『くまのプーさん』を英語で読み直す」という本を買っていた。
その時、原文を読もうと思って買ったのが上の右の本。

CHAPTER 1 はこのようにして始まっていた。

Here is Edward Bear, coming downstairs now, bump, bump, bump, on the back of  his head, behind Christopher Robin.

さて、この bump, bump,  bump, on the back of his head, behind Christopher Robin って、どんな意味だろう? ドン、ドン、ドンと彼の頭の後ろの上に・・・これはどいう意味だ? ここで詰まってしまった。

「『くまのプーさん』を英語で読み直す」の本を見てみると、こんな説明があった。

「頭を下にして、仰向けにドン、ドン、ドン」・・・bump, bump, bump の b が頭韻を踏んで、この一節がことさら目立って、リズムを生み出し、その結果ユーモラスな感じがでることとなる。」

なるほど、「頭を下にして、仰向けに」という表現だったのか。

講談社英語文庫の「くまのプーさん」の本を手に入れた。
この本は注がたくさんついていて、辞書をひくことなしに本の内容がわかるようにと工夫されている。

第1章の注にこの「bump,  bump, bump , on the back of his head 」があった。
そこには「ドスン、ドスン、ドスンと床に頭のうしろをぶつけながら」と書かれていた。

岩波少年文庫の「くまのプーさん(石井桃子訳)」を見てみると、

「バタン・バタン、バタン・バタン、頭を階段にぶつけながら」と書かれていた。

原作の本の挿絵をみると、階段をクリストファーに引きずられて、プーさんの頭の後ろが階段の段にぶつかっているのがわかる。それもプーさんは上を向いた状態で。
そうすると「頭を下にして仰向けになって」という様子がわかってくる。

これはハルカスで買った「The Christopher Robin Collection」の最初のページ。

ミルンの書いた原作とはフォントの選び方が違っている。

bump, bump, bump

が、原作では横一文で書いてあるのだが、この本は写真のように「階段をぶつかりながら落ちている」雰囲気がわかるようなフォントの配置にしている。
最近はこういった形で「くまのプーさん」の魅力をつ立てる工夫もされているようだ。

さてミルンの書いた「くまのプーさん」は、文章はとても工夫されていると言われている。
また挿絵をかいたアーネスト・ハワード・シェパードとは、何回も打ち合わせをしながら本を作り上げていったと学芸員さんは言っていた。

階段をプーさんを引きずりながら降りていくクリストファー、その様子をユーモアを感じさせる文章と、それを絵でさらに説明している、これが「くまのプーさん」の大ヒットの秘密らしい。