カナダ・赤毛のアンツアー 35

アンのジャガイモ料理

さてさて、ジャガイモの歴史までさかのぼってしまった。
ところで、アンはどんな料理を作ったのか? 興味が出てきたので、調べてみるとこんな本があった。

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ここに「おじゃがのクリーム煮」が紹介されていた。

レシピを紹介しよう。(4人分)

ジャガイモ・・・・4個
ベーコンの薄切り・・2枚
玉ねぎ・・・・1/2個
バター・・・・大さじ4(約56g)
小麦粉(薄力粉)・・・大さじ4
固形スープの素・・・・1個
水・・・・1カップ
牛乳・・・2カップ
塩・コショウ・・・・少々
生クリーム・・・・大さじ4

 

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ジャガイモは皮をむいて5mmぐらいの厚さに輪切りをし、水に晒す(10分ほど)。

ベーコンと玉ねぎはみじん切りにする。

水にさらしたジャガイモはさっとゆでておく。

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左の写真は、

小麦粉(薄力粉)大さじ4
バター 大さじ4(約56グラム)
牛乳 2カップ
固形スープ1個を水1カップにとかしたもの。

 

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レシピでは厚手の鍋となっているが、炒め用のフライパンで私は調理をした。
バターを溶かしてベーコンと玉ねぎを炒める。 

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薄力粉をふりいれて、焦がさないように2,3分炒める。 固形スープを水に溶かしたものを少しずつ加えて、ダマにならないようにヘラで混ぜる。

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 IMG_1501牛乳を加えて熱する。 トロリとするまでゆっくりと加熱する。
トロリとしてきたら、ジャガイモを加えて煮ていく。
ジャガイモが柔らかくなってきたら、塩・コショウで味をつける。
生クリームを加えて、煮立つ直前に火を止める。

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温めておいた器に、クリーム煮を盛りつける。

クリーム煮の表面に、家で育てているハーブを散らして彩りをつけたのが写真の完成品。

お味はなんとも素朴だが体にジャガイモの栄養が染みわたるような美味しさ。

アンのつくった料理だよと娘にいうと、「シチューみたい」と完食していた。

冬の寒い季節にピッタリの料理だと思う。でもクーラーの効いた部屋での温かいクリーム煮も食欲をそそるものだった。

 

 

 

円周率その4

江戸時代には、二つあった円周率

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江戸時代には円周率が二つあった、という記事をどこかで読んだ記憶があった。どこかにくわしい説明がないだろうか、とさがして見つけた本がこの「数量的な見方考え方(板倉聖宣著 仮説社)だ。

この本にそって自分のためにまとめておこう。

 江戸時代後半では、数学者たちは円周率を3.14と知っていたが、寺子屋に通っていた百姓や町人の子どもたちは3.16と習っていた。それはどうしてだろう?

さて、日本で最初に出版された数学書は、1615年頃に印刷された「算用記(さんようき)」で、そこに円周率についての表記がある。

「直径が1尺なら、その円周の長さは3尺1寸6分あり」と。
つまり、円周率を3.16としていたことがわかる。

1627年に有名な吉田光由(みつよし)による「塵劫記(じんこうき)」が出る。ここでも円周率を3.16としている。塵劫記は江戸時代のベストセラーとなり、この後に出版された算数や数学の本はみな3.16という円周率を受け継いだ。

算用記

塵劫記

(ウィキペディアより)

3.16の根拠は?

はてさて江戸時代の円周率の3.16の根拠はなんなんだろう。
普通は中国から伝わった数学書からの引用だろうと考えるが、実は中国から伝わった数学書には円周率は3.16と書いた本はなかった。
考えられるのは、江戸時代にだれかが実際に計算したことが予想される。円を書き、糸を使うなどをして円周の長さを測り、直径との関係を求める。誤差が出るが、3.14〜3.16程度の値になる。
「円周率のような数は、半端な数の並び方ではなく、何か美しい数になるにちがいない」と考えるのが世の習い。
ここで「3.16は10の平方根に近い」と考えたのだろうと、「数量的な見方考え方」では推論している。
(古代インドではルート10を円周率に使ったという)
ちなみに、江戸時代ではそろばんで平方根や立方根を求めることができていた。
こんなふうにして、数学好きな人たちの中に「円周率は3.16」ということを信じるようになっていった。(√10=3.16277 ひとまるはみいろにならぶ と習ったなあ)

実際に計算で求めた村松重清

円周の長さを数学的に詳しく計算したのが、4月14日のブログで紹介した村松重清である。彼は円周の長さをものさしを使って計ったのではなく、日本ではじめて数学的な計算で求めたのである。

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直径1mの円の内側にぴったり入る正六角形を描くと六つの辺の長さは3mになる。
円周の長さは3mより長いのは明らかだ。次に正12角形をつくり、その辺の長さを計算すると3.1058285・・となる。このことを繰り返していく。 詳しい計算の方法は4月14日のブログを見ていただくことにして、1663年に彼は正3万2768角形の辺の長さを求めた。

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これはあくまでも多角形の辺の長さだから、円周率ではない。
しかし彼は「円周率は3.16ではなく、3.14だ」と主張することができた。

広がる3.14

村松重清の発表以降、
翌年の1664年、野沢定信が、村松重清と違う計算方法で計算し、円周率を3.14とした。
このあと多くの人が計算をし、円周率を3.1416とか3.1428など少しずつ違う円周率の数字が発表され、「円周率は3.16ではなく、3.14にはじまる数字だ」と、数学愛好者のあいだで広まっていった。
当時もっとも普及していた算数・数学の本、「新編塵劫記」、「改算記」、「算法闕疑抄(さんぽうけつぎしょう)」も、1684年から87年のあいだに「円周率は3.14・・としたほうがいい」という改訂版を出していった。
ただ改訂版といっても、版を一から作り直すのではなく、「注」として3.16が載っているページの余白などに書き加えたのものだった。
1687年頃には「日本の算数・数学の本はほとんど『正しい円周率の値は3.14だ』」という考えで統一されていったといってよい。

3.14を疑う人たち

ところが、社会的に影響力のある人たちの中で、「円周率は3.14」に疑いを目を向ける人たちがいた。
まず野沢定信。この人は村松重清が計算した翌年に、円周率は3.14と計算して発表していたが、「円周率はルート10」という考え方が気に入っていたので、
「円周率には、『理屈によって得られる平方根10』と『図形をもとにして計算して得られる数』との二種類がり、真理はその二つの数の間にある」と言い出した。

次に荻生徂徠(1666〜1728)。彼は「円の内側にかいた正多角形をどんどん増やしていったら、その多角形の辺の長さや面積は果てしなく増えていくのではないか」と数学者たちの計算の結果を疑った。

三人目が漢方医学者の橘南谿(たちばななんけい 1754〜1806)。彼は「円周率の値は、3.16 あるいは3.14 といろいろに論じているが、まだ疑問の点がたくさんある」といった。

分裂した円周率

その結果どうなったのだろう。 影響力のある人が3.14に異議を唱えると、これまで3.14としていた本が3.16ともどすようになってきた。 そろばんの本で影響力のあった「塵劫記」と「改算記」が改訂の時に、「注」にあった「3.14が正しい」という文言を、省くようになったのである。そろばん入門の本の出版者達の中にも、「円周率3.14を疑っている知識人がいる」と知った人がいて、わざと円周率は√10(3.16)を残したようだ。

「数量的な見方考え方」の本の調査によると、江戸時代後半(1818〜30年)の算数・数学書で、「著者も明瞭で200ページ以上もある数学書は全部が円周率は3.1416あるいは3.14159」と表記されていた。しかし「著者名も記されず30〜100ページのそろばんの本のほとんどが円周率を3.16」としていることがわかった。

結果的に、数学者や数学愛好者の間では円周率は3.14とわかっていたが、百姓や町人の子どもたちは寺子屋やそろばん入門の本で円周率は3.16と習うようになったのである。

すべての人に納得させるという考え方がなかった江戸時代。

江戸時代の数学者には、円周率は3.14ということに疑問を持つ人を納得させる方法を考えつかなかったのだろうか。
たとえば、私のブログの「円周率その1」(3月14日)で取り上げた中国の劉徽は、円に内接する多角形と外接する多角形とを考えて、多角形の周の長さを円の両側から挟んで円周率を求める方法を使った。 

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日本ではこのように考えた人はいなかったのだろうか。
いや、一人いた。
蒲田俊清(1678〜1747)という人が「宅間流円理(たくまりゅうえんり)」という本で、円周に内側と外側から接する正多角形を考えて、円周率の上限と下限を決めていた。
残念なことにこの本は手書きで写されていて印刷されていなかったため、研究を受け継ぐ人がいなかった。

1712年に関孝和(11桁)、1722年に建部賢弘(41桁)と、精密に円周率の計算をしたが、不思議なことに円に内接する多角形のみの計算方法で、内側と外側からせまる方法は蒲田俊清以外だれもとっていない。計算方法がわからなかったはずはなく、ただそういった考え方をしなかったと思われる。

江戸時代の和算は、中国の水準を超えるまで発展したが、古代ギリシャ以来の数学の伝統である「他分野の学者たちをも完全に納得させるには、どういう議論をしたらいいのか」ということはせず、「だれでも納得するような理屈・論理」「すべての人々を納得させずにはおかない研究法」が確立していなかったのだ、と『数量的な見方考え方」では説明されている。

分裂した円周率は、明治維新後の学制発布による学校教育によって、すべての人々が正しく3.14と学習するようになった。

*この「数量的な見方考え方」には、調べた和算の本などの詳しいデータがのせられているが、この記事では省略し結果のみを記した。

 

 

 

 

カナダ・赤毛のアンツアー 34

アンの食べたジャガイモの種類は?   

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前回は専門的な本「ジャガイモとインカ帝国」を紹介したが、同じ著者の岩波新書で出版されている「ジャガイモのきた道-文明・飢餓・戦争」を紹介しよう。
大変読みやすく、私はこの一冊でジャガイモの歴史がほぼわかったような気がした。

ここでジャガイモの栽培化について説明されていることが、たいへんわかりやすかった。

「ジャガイモに限らず、わたしたちが日常食べている「栽培植物」はすべて人間が作り出したものであるということだ。ただし、ここでいう栽培植物とは単に栽培されている植物という意味ではない。栽培植物とは、栽培の過程で植物を人間にとって都合よく改変した結果、野生の植物とはすっかりちがったものになっている植物のことである。それは「作物」ともよばれるが、栽培植物はまさしく人間によって作られた植物なのである。」

このあとに例として野生の植物は種子が熟すと地面に落ちたり、風に飛ばされるが、それは人間にとっては都合が良くないので、栽培植物は種子は脱落しない、と説明がある。そういえば稲も小麦もたわわに実った実は人間が刈り取るまでしっかりと茎についている。また、野生のイモは小さいが、人間がより大きなイモを選択してきたことも説明されている。
「こうして、このような努力を何百年、あるいは何千年とつづけることで、人間は野生とは大きく異なった栽培植物を生みだしたのである。このように動植物を人間が自分たちの都合のよいように変えることを一般に「ドメスティケーション」とよぶ。日本語では動物の場合が「家畜化」、植物では「栽培化」と訳されている」

たとえば、家のまわりの田圃の稲も大きくなり、花が咲いて特有の匂いがしている。見渡すかぎりの稲の背の高さはほとんど同じだ。これが栽培化の結果なのだろう。

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左の本「ジャガイモの歴史」(アンドルー・F・スミス著 武田 円訳 原書房)によると、
「通説によれば、南北アメリカ大陸に人類が定住したのは1万6千年前、アメリカ先住民の祖先がベーリング海峡を渡ってきたのがはじまりで、その後人類はアメリカ大陸西海岸をすみやかに南下し、約1万4千年前にはチリ南部のモンテベルデに到達したといわれている。こうした初期のアメリカ先住民は狩猟採集民族で、食用に適したさまざまな野生植物を食べて生きていた。その中で南アメリカのほぼ全域、中央アメリカ、そして北アメリカ南西部にまたがる広大な地域に存在していたジャガイモは235の種類があった。現在品種化されているすべての食用植物の中で、ジャガイモほど数多くの野生種の祖先を誇る植物は他にない」
「アンデス山中に平らな土地や肥沃な土壌はほとんどないが、アンデスの農民たちは山の斜面にテラス状の段々畑を作り、灌漑用水路を建設し、およそ70の植物を栽培化(野生植物を人間に有益な作物になるように改変すること)した - これは、ヨーロッパ、もしくはアジア全域で栽培化された植物の数にほぼ等しい。そのうち25種類が塊茎(かいけい - 地下茎の養分を蓄えて肥大した部分、いわゆるイモ)植物ないしは根菜作物で、ピリッと辛いアニュス、ラディッシュに似ているマカ、色鮮やかなオカ、ウルコ、そして7種類のジャガイモの仲間(そのひとつがもっとも重要なジャガイモSolanum tuberosum )などがあった。根菜植物の多くは現在も南米で栽培され市場にも出回っている。しかし、唯一 S.tuberosum -(普通ジャガイモ)-だけが名もない端役から一転、世界的なスターの座に踊り出たのだった」

野生種2

「ジャガイモのきた道」には、「植物学的にいうと、ジャガイモはトマトやタバコ、トウガラシなどと同じナス科の植物であり、ソラヌム(Solanum)属に属している。このソラヌム属の植物はきわめて多く、1500種も知られているが、このうちの約150種がイモ(塊茎)をつける、いわゆるジャガイモの仲間である。ただし、ジャガイモの仲間とはいっても、これらのほとんどが野生種であり、栽培種は7種しか知られていない。また、この7種の栽培種のうち世界中で広く栽培されているのは1種だけであり、残りの栽培種はいずれもアンデス高地に分布が限られている」 (上の図は「ジャガイモのきた道」から)

この1種というのが トゥべローサム種(S.tuberosum) なのである。

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左の本「ジャガイモ伝播考 ベルトルト・ラウハァー著 福屋正修訳 博品社)」によると、
「ポテトの変異能力は驚くべきものだ。品種が次々と飛躍的に増加している。文化が、言い換えれば、耕作することが、ほとんど毎日のように新品種を作り出している。今日では約1,000種が知られているが、例えば、フランスでは、1815年には60種であったのだが、1855年には493種、1862年には528種というように、変異の度合いは明らかに耕作の拡大とともに増え、これとともに質も改良された。・・・(略)・・・変異の多様性にもまして素晴らしい特徴は、気候、高度、土壌に対するこの植物の適応性だ。高度12,000フィート、あるいは、14,000フィートの高地にさえ見られるが、海岸地方でもよく育つ。砂質土壌にも、穀物の育たない高地にも生存できる。塊茎の保存は容易で、しかも長期間もつ」(この本の序文の日付は1937年7月1日)。
プリンスエドワード島のように緯度の高い寒冷な気候で、しかも赤い砂岩の土壌で栽培されているのは、ジャガイモの特性を活かしているからだとわかる。

上の本には「今日では約1,000種」と書いてあるのは、その文章の前に書いてあるように「品種」のことである。「ジャガイモのきた道」には次のような文がある。

「ここで注意していただきたいのは、『種』というのは植物学でいうスピーシスのことであり、このスピーシスそれぞれから多くの『品種』が生み出されていることだ。」

「男爵」も「メークイン」も品種名であり、植物学的にはどちらも四倍体のソラヌム・トゥべローサムに属するということだ。世界各地で作られているジャガイモ品種のもとをたどれば、アンデスで生まれたトゥべローサム種の一種に由来するということになる。
日本の米に例を取れば、イネには20種の野生イネがあり、栽培化されたのが2種で、アジア栽培イネとアフリカ栽培イネである。アジア栽培イネにジャポニカ種(日本型)とインディカ種(インド型)の二系統にわかれ、私たちが食べている米はこのジャポニカ種であり、そこから「品種改良」により、農林一号、コシヒカリ、あきたこまち、ササニシキなどの多様な品種ができあがったのと同じことだと分かる。

最近「インカのめざめ」という品種をみることがあるが、これは説明を見ると、

「南米アンデス地域の2倍体在来種で独特の食味を有する Solanum phureja とアメリカ品種「Katahdin」の半数体を交配して育成された2倍体系統です。
4倍体の普通栽培種(S.tuberosum)とは異なる2倍体品種です」

とある。上の図2-2を見るとS.phureja (2X) があることがわかる。
トゥべローサム(S.tuberosum) 種以外の栽培種をもとにした品種改良が進んでいることが分かる。

アンの食べていたジャガイモも、このトゥべローサム(S.tuberosum) 種から品種改良されたものだったにちがいない。

ジャガイモ以外に南北アメリカからヨーロッパに運ばれた野菜類は多い。
ジャガイモ、さつまいも、とうもろこし、トウガラシ、ズッキーニ、ピーマン、カボチャ、トマト、インゲン豆、ピーナツ、ひまわり、イチゴ、パイナップル、アセロラ、カカオ、アボガド、パッションフルーツ、グァバ、そしてタバコ。

アンをはじめ現代の私たちの食卓は、ベーリング海峡を渡った南北アメリカの先住民族の何百年、何千年もの栽培化の努力がなかったら、これほど彩り豊かなものにならなかっただろう。感謝、感謝。