ポルトガル紀行 9

ポルトガル4日目
        バターリャ

バターリャ

コインブラからバスに乗って約90km、1時間30分の旅。

バターリャは、ポルトガル語で「戦い」を意味する。スペインからの独立をかけたカスティーリャ軍との戦いに勝利したことに由来する町。その時の王がジョアン1世。1385年のことである。

聖母マリアに感謝するために建設されたのがバターリャ修道院。正式名が聖母マリア修道院(サンタ・マリア修道院)である。
この修道院は2世紀の時間をかけて建設されている。
1983年にユネスコの世界遺産に登録された。

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近づくとなんとも巨大な建物である。

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子どもたちがスクールバスで見学に来ていた。日本でいう社会見学の子どもたちのようにみえる。宗教教育の一貫かもしれない。子どもたちの見学には、この教会のスタッフが当時の服装をして説明してくれるそうだ。

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ここはジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターの二人が仲良くならんだ棺がある。上の写真ではわかりにくいが、二人の像が並んで横たわっているのだ。

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左の写真を見てわかるだろうか。棺の上の王と王妃の像は手を重ねあっているのである。
政略結婚であったが、教養があり騎士道精神にも通じた王妃はジョアン1世とも円満であった。生まれた子どもたちが優秀でポルトガルの発展に寄与したことは、司馬遼太郎さんの「南蛮のみちⅡ」にあったとおりである。

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ここは創設者の礼拝堂と呼ばれ、二人の棺の周りには、ペドロ王子、エンリケ航海王子、フェルナンド王子、アフォンソ5世、ジョアン2世、ジョアン2世の息子であるアフォンソ王子の墓も並んでいた。

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第一次世界大戦で亡くなった二人の無名戦士の墓を兵士が交代で守っている。
ポルトガルは第一次世界大戦では連合国側につき、戦勝国となった。ちなみに第二次世界大戦ではサラザールの独裁政権のもとにあり、中立政策をとっていた。
戦争と平和の象徴としての無名戦士の墓。このサンタ・マリア修道院がポルトガルの独立の戦いの記念としてあるように、過去と現在(そして未来)がつながっている。

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スペインのアルハンブラ宮殿を思い起こしそうな建築。「マヌエル様式」と呼ばれているが、アラブ、イスラムの影響があるのかもしれない。
一旦外に出て向かったところは、「未完の礼拝堂」。

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写真のように天井がない。なぜ天井がないのか諸説があるが、「未完」のまま現在も存続しているのがなんとも深みがある。歴史の風雪に耐えてきた、歴史の証人として存在しているというのが魅力的だった。

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この「未完の礼拝堂」には、ドゥアルテ1世と妻レオノールの二人が眠っている。 写真のようにこの二人も手を重ねている。ジョアン1世とフィリッパ王妃の像も手を重ねていたので、ポルトガルの王朝では夫婦で埋葬するときには手を重ねた像を置くという習慣があるのかなあと疑問がわいてくる。ガイドさんに訪ねておけばよかった。ドゥアルテ1世というのは、ジョアン1世と王妃フィリッパの間に生まれた息子である。弟がエンリケ航海王子。

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周りに大きな建物がないだけに、近づくとその大きさ、古さ、歴史が感じられる。

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 私たちのバスの隣に止まっている小型のバスが、社会見学に来ていた子どもたちの学校のバス。
外の気温は13度(ポルトガルも摂氏を使っている)。日本は寒波という情報がガイドさんから。ポルトガルは思ったより快適。
さて、バスに乗って次の目的地アルコバサへ。

 

 

ポルトガル紀行 8

ポルトガル三日目
        コインブラ②

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歴史を感じるホテル。「キンタ・ダス・ラグリマス」。18世紀の貴族の館を改修してホテルにしたもの。
さて、ポルトガルの悲恋の物語は、「ペドロとイネスの悲劇」。
時は14世紀。この話の主人公はペドロ1世。
ペドロ1世の子がジョアン1世。そしてジョアン1世の子どもにエンリケ航海王子がいるという系図になる。
ペドロ1世は、父ドン・アフォンソ4世、母ビアトリシュ・カステラ女王の間に生まれた嫡子。次の国王になることは決まっていた。
ペドロが結婚適齢期になると、父ドン・アフォンソ4世は隣国の貴族の娘ドナ・コンスタンサ・マノエルと結婚させることにした。政略結婚であり、ペドロは全く乗り気ではなかったが、従わざるを得なかった。ペドロは妻を愛さず、狩猟に熱中していた。
ある時、妻コンスタンサの侍女イネスを見て、一目惚れしてしまう。

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二人の恋はたちまちのうちに周知の事実となる。王は二人を引き離すが、隠れた恋は続く。
二人が暮らしたとされている館の跡がこのホテルの敷地に残っている。それが左の写真。

二人が密かに恋を語らったとされている泉が「愛の泉」。下の写真の門の後ろに見えている祠のようなところの中にある。

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妻マノエルが後のフェルナンド1世を産み亡くなると、二人の恋は公然化する。それに危機感をおぼえ、反対する貴族たちの動きが活発化する。
この危険を取り除くのは、イネスの死しかないと王に訴えはじめる。
王はしぶっていたが、ついにイネス暗殺の命令を出す。
ペドロが留守の間を狙い、イネスと二人の間の子どもを暗殺したのがこの地。「涙の泉」といわれて残っている。イネスの流した血でこの泉ができたと言う伝説が残った。

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涙の泉の横にある石版には詩が刻まれている。

モンテゴの妖精たちは涙を流し続け
彼女の悲しい詩を記憶に刻み込んだ
そして永遠の記憶を求めて
流された涙は美しい泉となった
あの処刑の場所にできた泉に
妖精たちはイネスの愛という名をつけた
泉は今でも湧き続けている
見よ、なんと清らかな泉が
花々に水を与えていることか
愛という名の泉から流れる涙の水を

「愛の泉」も「涙の泉」も、今はホテルの広い公園のような敷地の中に静かに眠っている。
 イネスの暗殺を怒ったペドロは、王に反旗をあげようとするが、母の説得で矛先を収める。 年老いた王の死後、王となったペドロ1世は復讐をはじめる。
 イネス暗殺に手をくだした貴族を捕まえ処刑する。そしてイネスを墓から掘り出し、王妃の座に座らせ、貴族たちに忠誠の誓いとして、亡くなっているイネスの手にキスをさせるなど、女王としての敬意を払うように命じたと伝わっている。
 この悲恋の主人公ペドロ1世は「残酷王」とも「正義王」ともいわれている。自分の立っている立場によって正反対の評価となっているのだろう。ペドロ1世の治世の時代は、ポルトガルの社会としては安定したのは事実のようだ。

イネスの遺骸はサンタ・マリア修道院に移され、美しい棺の中に眠っている。
それにかかわる話は、サンタ・マリア修道院を見学した後に紹介するつもりである。

ペドロ1世の後の王位は、先の妻のマヌエルとの間にできたフェルナンドが継ぐ。
フェルナンドが子どもをもうけずに亡くなったので、後継者はペドロ1世がイネスの後に愛したテレサ・ロレンソとの間の子どもジョアンとなり、アヴィス朝をおこす。そしてエンリケ航海王子へとつながっていくのである。
「悲恋」といえばロマンチックだが、なんとも、複雑で愛憎渦巻く歴史である。日本も含め、 王朝という名のつくところは同じような歴史を刻んでいるのだと思う。

ちなみにこのホテルの名前「QUINTA DAS LAGRIMAS」は日本語に直すと「涙の館」。

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「涙の泉」から溢れだした水は、大きな池に注ぎ込んでいる。
池の向こうに見えるのが私たちが泊まったホテル。

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夕食は魚のスープ、
ポークロイン、
そしてデザートのプリン。
食事の後に夜空の星をたのしもうとしたが、夕方には月が見えていたのに雲が夜空をおおっていた。
ポルトガルでの星空は、お天気に邪魔をされているという感じで、楽しむことができなかった。

朝食には野菜もたくさんあり、静かなブレックファーストを楽しめた。

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ホテル側にはプールがあり、前の庭にはオレンジが実をつけていた。 春にはさぞかし美しく花が咲き乱れるのだと思う。

さて、ポルトガル4日目、コインブラから南へ90km。バターリャに向かう。

 

 

 

ポルトガル紀行 7

ポルトガル三日目
        コインブラ

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ポルトガルのお土産物を探すと、必ず目につくのがニワトリ。これには意味がある。
「バルセロスの黒いおんどり」と言う話は、ポルトガルの子どもでも知っているという有名な話だそうだ。ガイドさんが話してくれた。

時は12〜13世紀の頃。巡礼の人たちが泊まっている宿での出来事。
とても信心深い人が泊まっていた。ドアを叩く音で目が覚める。
警官が「押し込み強盗が入った。お前は犯人によく似ている」と彼は逮捕される。
犯人に瓜二つだったため、その信心深い人の言い分は聞いてもらえず、裁判にかけられて死刑判決が出た。刑場に引きたてられた彼には一つだけの願いが聞き入れられる。
「裁判官に会いたい」
裁判官は食事中で丸焼きのチキンを食べていた。無実を訴えるが聞き入れられない。彼は言う。
「神様は私の行いを見ています。私の刑が執行されるのなら、私の無実の証拠に、今食べているニワトリが生き返り、コケコッコーと鳴くでしょう」
なんと、裁判官が食べているニワトリが息を吹き返し、コケコッコーと鳴いた。
あわやというところで、その巡礼者は処刑を免れ、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼を終えた。そしてその後、バルセロスにもどり感謝の碑を建てたという。

こんがりと焼けた黒いおんどりは「幸運のシンボル」になったというわけ。

コインブラマップ2

コインブラの町は、ポルトから120km、約1時間30分の距離。

コインブラ大学の見学がメイン。
コインブラ大学は13世紀(1290年)に建てられたというから、日本では鎌倉時代。元寇の弘安の役が1281年だった。

この図書館が有名で、1724年に建てられたもの。
30万刷の蔵書があるという。写真撮影が禁止されていたので、中の様子はここでは紹介できない。とにかく豪華絢爛で、雰囲気はハリーポッター。
紙を食べる虫の駆除のためにコウモリを飼っていて、汚れ防止のシートに落ちているコウモリのふんを始末するのが毎朝の仕事と言う説明があった。コウモリのかわりにフクロウがいれば、ハリーポッターそのもの。
インターネットなどで「コインブラ大学 図書館」などで検索すると写真がヒットする。

コインブラ大学の建造物群は「コインブラ大学ーアルタとソフィア」として2013年にユネスコの世界遺産に登録されている。

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ガイドさんに大学生の女性の入学について聞いた。
かつては男子だけの入学であったらしい。
日本の明治時代のころにテストで優秀な成績だった女性が入学したという記録があるそうだ。
現在ではもちろん男女共学の大学。
女性の参政権が気になったので聞いてみると、現地のガイドさんが「1974年4月25日まではサラザールの独裁政治でした」という説明。そうだった、ポルトガルは独裁政治の国だったのだ。リスボンにある「サラザール橋」とよばれていた橋は、この革命後「4月25日橋」と呼ばれている、という説明を思い出した。

ここが大学図書館の入り口。
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IMG_8335日本人観光客を珍しそうに見ている大学生。オートバイのヘルメットを持っている。
女の子は黒い髪を長く伸ばしている子が多い。
IMG_8337図書館の屋上からの風景。 これがポルトガルの町並み。ジブリの「魔女の宅急便」を何となく思い出す。IMG_8349

これは「旧カテドラル」。レコンキスタの時代では要塞を兼ねていたらしい。1162年ものだからとても古い。 IMG_8364

IMG_8366この像は、コインブラ大学から旧カテドラルと坂道を下って行くところにあった像。 「ポルトガルの洗濯女」という名前がついているらしい。
川で洗濯する女性がこの地方の風物詩だったので、それをモデルにして作られているとのことだ。

きっとこのコインブラでも、大学の卒業をきっかけにして、故郷に帰っていく無責任な男を、涙で見送るしかなかった長い黒髪の女の子たちの物語があったにちがいない、と勝手な妄想がわきあがってくるのをおさえて、お店がいっぱい並んでいる通りに出てきた。

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IMG_8375 IMG_8374ありました。 これが金平糖です。 ケーキやパンなどを売っているお菓子屋さんにありました。
ポルトガル旅行の目標の一つが達成。

ウィキペディアの説明。
「金平糖(こんぺいとう、コンペイトー)とは、砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の日本の菓子。 金米糖、金餅糖、糖花とも表記される。語源はポルトガル語のコンフェイト (confeito) 。金平糖はカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから西日本へ伝えられたとされる。初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説あるが、戦国時代の1546年(天文15年)とも言われる。ー 」

コンフェイトというのは、ポルトガル語で「砂糖菓子」という意味だそうだ。
金平糖を意味するお菓子は「CONFEITO COM BICOS(コンフェイト コン ビィコシュ 意味 イボ付き砂糖菓子)」というのが正確らしい。ボルトガルのお菓子屋さんの説明が下記のブログにあった。

http://www2.jfn.co.jp/blog/wfn/2010/03/post_156.html

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ポルトガルの名産の一つ、コルク。コルクのお店やさんに入ると、コルクの木の写真があったので写す。
コルクはコルクの木からとれる、ということは知っていたがどんな木なのか知らなかった。
司馬遼太郎さんは「南蛮のみちⅡ」で次のように書いている。

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樹々の中で、圧倒的に多いのは、コルクの樹(コルク樫)であった。コルクはポルトガルの国にとって大きな輸出産物で、日本に対しても輸出品目の第一位を占めているらしい。・・・・・略・・・・
コルクは、日本には明治以前の元治元年(1886年)にはじめて入ったそうである。・・・・略・・・・
ヨーロッパでは紀元前四百年ころからびんの栓や浮子、それに靴底につかわれてきた、という。今も靴底だけでなく、婦人用の草履、サンダルなどにつかわれている。
 途中、幹がふたかかえほどのコルクの老樹があったので、バスを停めてもらった。
コルク樫は、ぽってりとした樹皮がコルク質なのである。それを独特の刃物で剥いでゆく。その樹は、幹半分、太枝半分といったぐあいに剥がれており、剥がれたあとの幹は紅殻(ベンガラ)色になっていた。文字通り赤裸(あかはだか)といった感じだった。

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お店に入ってみると、司馬遼太郎さんの紹介以上の品物が並んでいた。帽子、傘、バックと見ていても楽しかった。現在は多方面での製品開発が行なわれているようだ。

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ポルトガルのポストの色は赤。日本のポストが赤いのは、ポルトガルからの輸入?
お店が並ぶ通りには、キーボードを演奏している大道芸の若者の姿があった。

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iPhoneの時計は夕方の5時前を表示している。
バスに乗って、コインブラでの宿、QUINTA DAS LAGRIMAS(クゥインタ ダス ラグリマス)、パンフレットではよりポルトガル語の発音に近い「キンタ・ダス・ラグリマス」と書かれている、いわゆる「貴族の館ホテル」に向かう。
ここも、ポルトガルの有名な悲恋の物語に縁のある地であるという。

それは・・・・・。