懐かしの給食レシピ 58

パイナップルのクラフティ

大阪市で働く私の知り合いの栄養士さんから教えてもらった給食レシピ。 そのレシピを元にして懐かしの給食メニューをいただいてみようと挑戦。 レシピ通りの食材が手に入らなかったら、私独自のアレンジで創意工夫。

さて今回はスイーツに挑戦。これまでお世話になっている「おうちで作る給食レシピBOOK」より。「りんごのクラフティのアレンジ、パイナップルのクラフティ」。

家にパイナップルの缶詰があったので、そのパイナップルでやってみようと考えた。

IMG_20160330_0006

IMG_0608IMG_0613

缶詰のパイナップルがあったので、そこから240グラムほどを取り出した。

パイナップルを一口大にカット。小麦粉はふるっておく。
玉子は溶きほぐしておく。レシピの倍の量を用意した。

IMG_0614 IMG_0617 IMG_0619

溶き卵、砂糖、生クリームを混ぜ合わせる。オリゴ糖があったので、砂糖の代わりにそれを使った。

ふるった小麦粉を数回に分けて混ぜ合わせる。1回ではよく混ざらないだろうと思ったので。

一口大にカットしたパイナップルを加えて、混ぜる。

IMG_0620

IMG_0623

耐熱容器の底にコーンフレークを敷き詰める。量は底が見えなくなる程度にした。
そのうえに、混ぜあわせた生地をのせる。写真のように二人分としてはちょうどの分量になっていた。

IMG_0625 IMG_0626

210度に余熱したオーブンで25分焼きあげる。
写真のように、なかなかうまく仕上がった。右の写真は半分に切って一つを裏返したもの。コーンフレークが熱で溶けて、パリッと一体化している。ちょっと目にはコーンフレークとは思えない。りんごのクラフティのレシピで、パイナップルのクラフティができあがった。

IMG_0628

お皿に取り分けると、見栄えもいい。 味もパイナップルが酸っぱくもなく、ちゃんとしたスイーツになっている。
コーンフレークも一口、二口ではコーンフレークとはわからない。でも食べ続けると、やっぱりコーンフレークだ、と思う。タルト生地の代わりにコーンフレークとは学校給食らしいアイデアだなあ、と楽しくなった。
コーヒー、紅茶にぴったりだった。

 

 

 

 

第二次世界大戦中の大地震

IMG_20160504_0001

友人に西村京太郎の大ファンがいる。550冊以上ある全巻読むつもりと言っている。
私は西村京太郎作といわれる本は一冊も読んだことがない。
テレビで十津川警部シリーズというのが放映されていたことは知っているが、そのテレビ番組も見たことがない。

図書館に行った時に、よく読まれている本のコーナーらしいところに、左の本が並んでいた。
これも何かの縁。
しかもその十津川警部シリーズなので借りてみることにした。
題名が「1944年の大地震」とある。熊本の大地震の後だからよけいに目が行ったのかもしれない。それにしても1944年といえば、敗戦の前の年。
どんな内容なのだろうかと興味もわいた。

昭和の4連続大地震

小説のあらすじはこれから読む人のために、書かないことにしよう。
ただこの小説には、実際にあった戦中の大地震が背景にある。
インターネットで調べてみると、戦争中ゆえの悲劇がそこにあった。

1943年(昭和18年)9月10日17時37分の鳥取地震

 マグニチュード7.2。鳥取平野付近を震源地として発生した浅い地震で、鳥取市で震度6、岡山市で震度5が観測され、鳥取市内の住宅の7割が全半壊し、地震による死者1083人、家屋全壊7485戸、半壊6185戸、焼失251戸、被害総額は1億6000万円(当時)であったという。この地震によって吉岡断層(長さ4.5km)、鹿野断層(長さ8km)が出現した。鳥取市社会教育事業団が発行している「郷土シリーズ」第34巻「鳥取の災害―大地震・大火災―」の「鳥取大震災」の「あとがき」*4のなかで「・・・当時の記録は戦争中の防諜事情もあって、殆ど残されていない。わずかに、特高警察の記録した「鳥取県震災小誌」が、その面影を偲ばせるばかりである】と記されている。

1944年(昭和19年)12月7日午後1時35分の東南海地震

マグニチュード8.0。紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20km、深さ40kmを震源とする地震。九州から東北・北海道の一部でも揺れが観測されるほどの強い揺れだったという。学校の授業中や勤務時間帯に重なったため被害者も増え、死者1223名、家屋倒壊17599戸、流失家屋3129戸、津波8〜10mだったという。
ただ発生が戦時中だったため、軍需産業の被害を海外に知らせないという理由で、報道管制がなされ、詳細は今もはっきりとしていないという。

1945年1月13日午前3時38分23秒の三河地震

マグニチュード6.8。震源は三河湾、深さ11kmの直下型地震。この地震で愛知県額田郡幸田町深溝に深溝断層(ふこうずだんそう)を形成する(断層は現在天然記念物に指定されている)。太平洋戦争末期のため、戦意に影響を及ぼすという政府の判断で、地震の詳細な発生状況や被害は報道されることはなかった。現在に至っても詳しいことはわかっていない。震源地域の三河地域では、死者1180人、行方不明者1126人、負傷者3866人、家屋の全壊は7221戸、半壊16555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他24311戸という記録がある。愛知県幡豆郡と碧海郡で死者2652人という記録が見つかったという。一方、明治航空基地では顕著な被害は記録されていないなど意図的な記録管制があったのではないかと感じられる。また現在、地震体験者による被害の掘り起こしとその資料化も行われているようだ。

1946年12月21日午前4時19分過ぎの南海地震

マグニチュード8。震源は潮岬南方沖78km、深さ24kmを震源とする地震で、南西日本一帯で、地震動、津波の観測があった。四万十市では市街地の八割以上が地震動で生じた火災等で壊滅状態に、串本市や海南市は津波による壊滅的な被害を受けた。
高知県、徳島県、和歌山県を中心に、死者1330名、不明者113名、家屋全壊が11591戸、半壊が23487戸、流失1451戸、焼失2598戸、津波が静岡県より九州にいたる海岸で観測され、4〜6mに達したという。第二次世界大戦による空襲被害のあとに地震、津波の被害を受けた地域もあるという。

戦後の大地震

戦後の大地震で、千人をこえる死者を出した地震をしらべてみた。
資料は下記のホームページ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

大地震マップ

 

そのホームページにある地震マップ。赤はマグニチュード7以上。青は死者があるもの。紫は最大震度6以上のもの。

◯1948年(昭和23年)6月28日 福井地震(マグニチュード7.1 震度6)
                 死者・行方不明者3769人。

◯1995年(平成7年)1月17日 阪神・淡路大地震(マグニチュード7.3 震度7)
                 死者・行方不明者6437人。

◯2011年(平成23年)3月11日 東日本大地震(マグニチュード9 震度7)
                 死者・行方不明者1万9000人。

こうしてみると日本は歴史的に見ても大地震と共に生きてきたと言っていい。
調べていると毎年のように大きな地震が起きている。
今年の熊本大地震もまだ全容がわからない。
毎日のように被害の様子や、地震のメカニズムなどのニュースがあり、報道もされている。

西村京太郎作「十津川警部シリーズ 1944年の大地震」を読んで、地震と報道、情報の共有の大切さを感じた。
1943年、1944年、1945年と毎年1000人以上の死者を出した地震の全体像は不明のまま。それは戦時下ということで、国民に広く知らされなかった。そのために救出や援助の手も十分になされなかったようだ。
亡くなった人たちの無念さがこの小説の背後にはある。

さてこの小説の残念なところは、十津川警部シリーズとタイトルにあるが、十津川警部の登場は最後の1ページのみ。十津川警部の活躍はわからないままだった。

熊本大地震で被害にあわれた方のご苦労を思うと、何ができるだろうかと自問自答する。
被災地で働いている人たち、子どもたちの身体や心の健康を祈るばかりである。

 

 

 

 

「子」のつく名前

「子」のつく名前

IMG_20160507_0002

最近、女の人の名前で「子」のついた人が減ってきているという感じがする人は多いと思う。
子どもの名前ベスト10などの報道を見ても、「子」のついた名前は見当たらない。
女性の芸能人の名前もそうだ。
思いつく「子」のつく人といえば「フーテンの寅さん」の「倍賞千恵子さん。でも少し古いかなあ。

最近話題になっているNHKの朝ドラにしても「あさが来た」の「波留さん」「宮崎あおいさん」、いま放送中の「とと姉ちゃん」では「高畑充希さん」、妹役の鞠ちゃんは「相楽樹さん」、美子ちゃんは「根岸姫奈さん」。

「子」のつく人はいない。

私が小中学校の時のクラスの女の子は、ほとんどが「子」のつく子だったと思う。(何%かと言われると自信がない、ただ女の子の名前には「子」がついているものだ、という印象が残っている)

さて、このことを調べた本がこれ。

「子」のつく名前の誕生 (仮説社)
(橋本淳治・井藤伸比古 著 /板倉聖宣 監修)

128ページの本だが、読み応えのある内容で、資料もバッチリ。

詳しい内容は読んで確かめてもらうことをおすすめすることにして、私が興味を引いたことを書いておこう。

1900年ごろからふえる「子」のつく名前

IMG_20160507_0003

このグラフは、「1877〜1988年の日本各地10校の小学校卒業者名簿4万人を調べた結果」から描かれたもの。
1900年(明治22年)頃から増え始め、1945年(昭和20年)頃をピークに、それ以後凸凹はあるが減ってきている、と読み取れそうだ。

私は以前に、「子」のつく名前は貴族や皇族に限られていたが、明治維新になってだれもが「子」のつく名前をつけることができるようになった、という説明を聞いたか、読んだかした記憶がある。

でもどうもそんなに単純ではないようだ。もしそうなら、明治維新以後に生まれた子どもにすぐに「子」のつく名前が出てくるはずだ。しかしそうではない。時間のずれがあるように思える。

さて、そこで現在では多くの人の記憶にも残っていない「子」の事実がある。

「子」の三つの使われ方

私たちは◯◯子と、人の名前の一部として、言い方を変えれば、セットとして「子」があると思っている。 しかし、明治時代はそうではなかった。
戦後の法律で生きている私たちとちがって、明治時代の感覚として、子」の表記には、

1.敬称である「子」をつけて表記している場合。
2.自分で「子」の字をつけて名乗っている場合。
3.本名に「子」の字がついている場合。
  つまり自分の娘に「子」の字をつけた場合。

の三つの場合が混同されていると、この本には書かれている。

IMG_20160508_0001 - バージョン 2

IMG_20160508_0001

上の資料は、作家の宇野千代さん(1897年生まれ、旧姓藤村)さんが1921年に懸賞小説で一等を受賞した時の、「時事新報」(1921年・大正10年1月21日)の新聞記事。
見出しには、「千代子女史」とあり、受賞者の一覧表には「千代」。インタビュー部分は「千代子氏」、写真には「千代子」となっている。
つまり、「子女史」「子氏」「子」は、敬称として使われている。
このように、「子」のつかない名前の女性に「子」を付けて呼ぶことが、少なからずあったのである。「子」は女性へ愛称・敬称といってもよい。
とこの本には書かれている。

他の例としては、「子」のつかない女性へ手紙を書く時には、宛名には「〇〇子」とことさらに「子」つけて書くのが礼儀だったそうだ。

ラフカディオ・ハーンはこう言った

あのラフカディオ・ハーン、小泉八雲が日本女性の名前について書いている。

****************************

日本女性の多くは、「まつ」とか「うめ」というように二音で呼ばれる。最近では、上流階級でさえ、それが流行である。(中略) 女性の名前には習慣的に敬称として「お」が前に、「さん」が後ろにつけられる。たとえば「お松さん/お梅さん」というように。ただし、名前が「きくえ(菊江)」のように三音の場合には、「お」をつけない。「きくえさん」と呼んで「おきくえさん」とは言わない。
 最近では、上流階級の婦人の呼び名には、昔とちがって「お」はつけない。その代わりに「子」がつけられる。つまり、農民の娘なら「お富さん」というところを、上流階級なら「富子」となるのである。そして、もし普通の女性が、自分自身の名前を「節子/貞子」などと書いたらみんなに笑われるだろう。というのも、「子」という接尾語はLadyに相当し、「節子/貞子」と名乗れば、自分で「節さま(the Lady Setsu)/貞さま(the Lady Sada)と言っていることになるからである。(後略)

(Japanese Female Names 1900年)

*****************************

1900年頃の外国人から見た日本人女性の名前についての受けとめ方がよくわかる。「子」という名前は、上流階級の名前であり、広く世間では使うのに抵抗がまだまだあったようだ。

「子」付けて良し

明治天皇の歌集を編集した、宮中につとめる歌人である大口鯛二(おおぐちたいじ)は、1899年『女学講義』と言う本に「婦人の名の下につくる子の字の説」という文章を載せている。
*******************************

自他共に、「子」の字を添えて苦しからず。されど、今日やんごとなき御辺りの女性の名には必ず「子」を添えさせるれば、尊称のごとく聞こゆるをもって、身分なき者が「何子」と名のるのは僭越のごとく思う人もあれど、決して然らず。男子の名に「彦/雄/麿」などいうと同じ意味で添えたるものなれば、上下貴賎を通じて何人が自己の名とし、またわが子の名に命ずとも、すこしも憚るところなしと知るべし。

********************************

つまり、自分の名前にも、子どもの名前にも「子」をつけて名乗って良いといっているのである。

そして現代のように「子」と付く名前が一般化してくると、「子」という言葉にあった「尊称」「敬称」「愛称」という意味合いは薄れていく。
そして現在はだれもそんなことを考えなくなっている。

女性の名前は多様化しているのである。

さて女性の名前の研究は、どんな意味があるのだろう。
著者の井藤さんもずっとそのことが気になっていたそうだ。
後押ししてくれたのが、監修された板倉聖宣さん。
「明治維新からの日本の近代は、明るかったのか、暗かったか、いろいろな議論がある。<人民が抑圧されていた暗い時代>だったのか、<新しい時代に人々が胸膨らませていた時代>だったのか。そういうことがこの研究で浮かび上がってくる。今までの近代史は、政治史とか経済史とか一部の人だけの歴史だった。この研究結果は、まさに日本人全員の近代史だ」

自分や子どもの名前にかける思いが、グラフにあらわれていると井藤さんはいいたいのだろう。

IMG_20160508_0002

巻末に付けられている37ベージにも及ぶ年表がおもしろい。
内容を紹介したいが、自分で読む人のために遠慮しておこう。

この本の面白いところは、資料の大切さを伝えているところである。

一次資料、二次資料、同時代資料ということも知ったし、その違いも説明されていてたいへん勉強になった。

これから研究活動をしようと考えている人や大学生にとっては一読の価値があると思う。

たとえば、

井藤さんはこの冊子を作る元になった研究会に、こんな資料を出された。

若松賤子(「小公子」の訳者)
与謝野晶子(歌人)
松井須磨子(俳優)
野上弥生子(小説家)
宮本百合子(小説家)

これら名前に「子」のつく人たちの活躍が、広く世間に自分や自分の子どもに「子」のつく名前をつけることを促進する働きをしたのではないか、と言う理由をつけて。

板倉さんは「これは全部ウソです」と言って、みんなびっくりした。

とこの本に書かれている。
このあとに一次資料の大切さの話があるのだが、これ以上書くと、これから読む人の興味が削がれると思うのでここまで。
資料から学ぶとはどういうことか、そんなことを私でも、少し知ることができる内容だった。また名前にはその時代背景と願いが込められているということが、データーとしてわかる本だったと思う。