アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 14

三日目 若草物語とアンクル・トムの小屋 

前回は「若草物語」に「アンクル・トムの小屋」からの引用があり、また映画「王様と私」の劇中劇にも「アンクル・トムの小屋」が使われていることを書いた。
「アンクル・トムの小屋」が出版されたのが1851年。
「若草物語」が出版されたのが
1865年。
「王様と私」の映画に先立って、ミュージカルとして上演されたのが1951年で、映画は1956年ということがわかっている。

「アンクル・トムの小屋」は、出版されてから100年間以上ものあいだ読み継がれ、語り継がれてきたのだろう。

今回「アンクル・トムの小屋」の引用があることからあらためて「若草物語」を読み直してみて、ハンナはどんな人物なのかなあということが疑問になった。
ハンナというのは「若草物語」に出てくるメイドさん、というか使用人のこと。
「若草物語」の第1章「巡礼ごっこ」(岩波少年文庫より)の最後の部分に登場してくる。(old Hannah を太字にしているが、原文はそうではない)

They talked over the new plan while
old Hannah cleared the table, then out came the four little work
baskets, and the needles flew as the girls made sheets for Aunt March.
It was uninteresting sewing,

翻訳ではこのようになっている。

娘たちはメイドのハンナが食卓を片付けているあいだに、楽しい計画について相談しあった。そして、四つの小さな裁縫箱を出してきて、マーチおばさんにプレゼントするシーツの端をかがりはじめたが、四人の針はすいすいと運んだ。おもしろくない針仕事だったが、、、、

ハンナがどうしてこの家にいるのかの説明が第2章「メリー・クリスマス」のはじめの部分にある。

・・・・,” replied Hannah, who had lived with the family since Meg was
born, and was considered by them all more as a friend than a servant. 

岩波少年文庫では

・・・」とハンナが答えた。ハンナはメグが生まれたときからずっとこの家にいるので、みんなはメイドというより友だちのように思っていた。

ハンナはこの小説に何回も登場してくるが、私の読んだ限りでは、これ以上の説明はないようだ。人種などについての具体的な説明はないと思う。

左は1949年につくられた映画「若草物語」のDVD。
たまたま書店のDVDコーナーで見つけたもの。
290円(税抜き)というあまりの安さに買った。

ジョーにジューン・アリソン
ベスにマーガレット・オブライエン
エイミーにエリザベス・テイラー
メグにジャネット・リー
という配役で、アカデミー賞で美術監督・装置賞をとっている。
この映画は1933年の映画版のカラー映画のリメイクとしてつくられたものらしい。この映画では、ハンナは白人の家政婦として登場している。

ところが、日本のテレビ番組「ハウス世界名作劇場」で放映された「愛の若草物語」では、ハンナは黒人家政婦として登場している。もちろんこのアニメは「若草物語」の完全版ではないので、原作との違いはいろいろとあるようだ。
ただハンナを黒人として登場させたのは、作品の時代的な背景からそういった可能性もあると、テレビ局側は考えたのかもしれない。(アニメの写真はインターネットよりの引用)

しかしここで言えるのは、原作「若草物語」では、白人か黒人かはわからない。

左は岩波少年文庫「若草物語」下巻、第15章「電報」の最初のページ。

挿絵はハンナがマーチ夫人に電報をわたすところ。
この挿絵のハンナは黒人ではない。

岩波少年文庫「若草物語」下巻の訳者あとがきにこんな説明があった。

「最後に、この本の『挿し絵』のことですが、うれしいことに、岩波書店児童書編集部で、多くの挿し絵の中からバーバラ・クーニーの版画を選んでくださいました。クーニーは、オルコットのファンで、同じ地に住み、かつてのオルコット家のこともよく知っているというイラストレーターで、まさに、この本にぴったりでした・・・」

「若草物語」はルイザ・メイ・オルコットが、自分の少女時代、姉妹をモデルにしてこの話を書いたことは有名である。そうすると、ルイザ・メイ・オルコットの生活をよく知っている人が描いた挿し絵は、オルコット家の生活を正しく反映しているだろうと考えられる。

オルコット家が、使用人・メイドをおいていたかどうかはわからない。
その当時の生活では、家に住み込みの家政婦や通いの家政婦がいたとしても不思議ではないと思う。私の友だちに、お手伝いさんのいる家もあったし、最近のNHKドラマ「悦ちゃん」でも、昭和のそういった生活が描かれている。
昨年「恋ダンス」で話題になった、みくりさんも通いの家政婦さんだったわけだから、現在の世の中でも家事を専門にやる仕事があり、家に派遣された家政婦さんがいるのも別に不思議じゃないわけだ。

「若草物語」にもどって考えてみると、南北戦争があり、奴隷解放の闘いがあったわけだし、オルコット家の考え方だと、黒人奴隷はいなかっただろうと想像される。
これはあくまでも私が本やインターネットで仕入れた知識で言っているだけのことで、素人の考えであり、学問的なものではないことは、言うまでもない。

上の写真に「STOWE CENER」の白い案内板があるが、ストウセンターは写真の左側にある。案内板の奥に見えている、ユニークな形の屋敷が「トム・ソーヤーの冒険」を書いたマーク・トウェインの屋敷だ。
ハリエット・ビーチャー・ストウとマーク・トウェインは、ご近所づきあいのある関係だったそうだ。
ハリエット・ビーチャー・ストウの家の見学の後、マーク・トウェインの屋敷の見学に行くことになる。

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 12

三日目 ハリエット・ビーチャー・ストウ

目的地はハートフォード。ボストンからバスで2時間半ほどの道のり。
「アンクル・トムの小屋」の作者、ハリエット・ビーチャー・ストウさんの家に向かう。

この女性が「アンクル・トムの小屋」の作者、ハリエット・ビーチャー・ストウさん。

「アンクル・トムの小屋」の作者はストー夫人、というのが常識的な答え方。しかしこの地に来てみて、どこにもMrs.Stowe という表示はない。すべて Harriet Beecher Stowe

である。あらためてゆっくり考えてみると、それはそうだろう。わざわざ夫の姓を全面に出して「ストウ夫人」と言う必要はない。「アンクル・トムの小屋」が書かれたころは、まだ女性の参政権も認められていない時代だった。女性の権利が十分に認められていなかったからかもしれない。日本でいうなら、藤原道綱母とか紫式部というようなものだろうか。
日本に帰ってきて、「アンクル・トムの小屋」の翻訳本さがしてみると、図書館で見つけた本には、著者名として「ストウ夫人」と書いてある本はなかった。

屋敷の案内は若い女性がしてくれた。ボランティアの人かもしれない。
「アンクル・トムの小屋」は、1851年〜52年にかけてハリエット・ビーチャー・ストウが、THE NATIONAL ERA という新聞に連載していたものが53年に本になって出版された。そして大ベストセラーになったという。ネットで調べてみると雑誌「ナショナル エラ(国民時代)」とか機関誌とかの説明があり、本のようなイメージだが、実際は写真のような新聞のような大きな印刷物。ベットに置くと下のような感じ。

部屋の壁一面に貼ってあるのは、「アンクル・トムの小屋」を絵にしたもの。日本流で言えば漫画版の「アンクル・トムの小屋」。舞台でも演じられ、各国で翻訳されたという。その当時の著作権についての考え方はわからないが、ハリエット・ビーチャー・ストウは、「アンクル・トムの小屋」がどのように使われても、広まるならかまわないという姿勢だったようだ。

世界各国で翻訳された「アンクル・トムの小屋」の本が展示されていた。日本語の本も展示されていた。

1862年、南北戦争中に、ハリエット・ビーチャー・ストウにあったリンカーン大統領が言った言葉として伝わっているのが上の言葉。
「あなたのような小柄な方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね。」という意味か。「アンクル・トムの小屋」という作品が、南北戦争、奴隷解放につながっていったということだろう。写真の上部にはリンカーン大統領の顔がある。

沢山の蔵書の中に、ルイーザ・メイ・オルコットの書いた「Jo’s Boys 」(第四若草物語)があることを松本先生が発見。

ハリエット・ビーチャー・ストウは1811年〜1896年。
ルイーザ・メイ・オルコットは1832年〜1888年。どちらも南北戦争をはさんで活動をしている。そして「Jo’s Boys」 は1886年出版だから、ハリエット・ビーチャー・ストウは、若草物語やこの作品を読んでいたに違いない。

これはヨーロッパに行った時に、奴隷反対の署名がこれほど集まった、というもの。しかも全て女性からの署名。女性に参政権がなかった時代だったのだ。

派手な装飾もない落ち着いた部屋。ハリエット・ビーチャー・ストウの人柄が伝わってくるかのよう。

ここは台所。現代のシステムキッチンの基礎を作ったのが、ハリエット・ビーチャー・ストウとその姉によるものだそうだ。家庭料理は使用人や奴隷に任せず、自分たちでつくる、そして作りやすい台所、という考え方のようだ。奴隷解放の視点が読み取れそう。

ここは「ハリエット・ビーチャー・ストウ ビジターセンター」。「アンクル・トムの小屋」関わる展示や書籍が販売されていた。

このビジターセンターで『アンクル・トムの小屋」の英語版の本を買う。

先にハリエット・ビーチャー・ストウは、ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語」を読んでいたと推定されると書いたが、その逆のことがわかっている。

「若草物語」に「アンクル・トムの小屋」のことが出てくるのである。このことは次のブログに書く予定。

 

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 9

二日目 ボストン市内観光その8

ソロー「森の生活」とウォルデン池

私たちがやってきたのは、オーチャードハウスからバスに乗ってすぐのところ。ここにソローの「森の生活ウォルデン」を執筆したウォルデン池がある。
上の写真はソローの像。後ろにあるのは2年間生活をした小屋のレプリカ。
本来の小屋はここではなく、池の北側にあり、私たちの観光時間の関係からそこまではいけなかった。

4畳半ぐらいの大きさの部屋。中には暖炉と机のベットがある。
ここで自給自足の2年間の生活をおくったという。

ウォルデン池についてウィキペディアをみると、次のように書かれていた。

ウォールデン池Walden Pond)は、アメリカマサチューセッツ州にある水深31mのである[。 池は、マサチューセッツ州コンコードにあり、 広さは61エーカー (250,000 m²)、周囲は 1.7マイル (2.7 km)に及ぶ。ケトル (地形)英語版と呼ばれる堆積氷河が溶けた後にできた穴の有名な例で、10,000~12,000年前の氷河によって作られたとされる。
作家で超越論主義者で哲学者のヘンリー・デイヴィッド・ソローが、1845年の夏から2年間に渡りこの池の北側の岸辺に居住した。 彼の経験の叙述は、『ウォールデン 森の生活』に記録されている。その区画の土地は、彼の友人で師でもあったラルフ・ワルド・エマーソンの所有地で、彼がソローにそこで実験的に暮らして見ることを示唆した。コンコード博物館には、ソローの小屋にあったベッド、椅子、そして書き物机が展示されている・・・・後略・・・・。

エマーソン(1803年〜1882年)やルイーザ・メイ・オルコットの父エイモス・オルコット(1799〜1888)はソロー(1817年〜1862年)がこの小屋を建てる時にさまざまに協力しているそうだ。

左の本がソローがこの小屋での体験を元にした本、「ウォールデン 森の生活」(小学館 今泉吉晴訳)。
私はこの旅行に行く前に、読んでみようかなと思って岩波文庫を手にとったが、だめだった。
ツアーのメンバーで、この「森の生活」を読みました、という人がいてびっくりした。すごいなあと思った。
日本に帰ってきてから、もう少し読みやすい訳の本はないかとさがして見つけたのが左の本。
でも全部は読み切れそうもない・・。
(上の地図はこの本からの引用)

この翻訳した本の解説を読んでいると、ロビン・ウィリアムズ主演の映画「いまを生きる」で、ソローの「森の生活」が引用されていると書かれていた。さっそくDVDを借りて、見ることにした。

映画の原題は「Dead Poets Society」
1989年の映画で、私は一度見ているが、ソローのことはまったく知らなかった。あらためて見直すと、だれにもおすすめできる、ほんとうにいい映画だ。
Dead Poets Society というのは、学生たちの作った秘密のクラブ。映画では「死せる詩人の会」と訳されている。

この会のはじまりに、冒頭に読まれる一節が「森の生活」からの引用なのだ。

I went to the woods, because I wanted to live deliberately.
I wanted to live deep and suck out all the marrow of life.
To put to rout all that was not life, and not when I had come to die, discover that I had not lived

映画の字幕では次のように翻訳されている。

“私が森へ引きこもった理由-- それは思慮深く生き、 生きることの真髄を心ゆくまで味わうため。 生活でないものはことごとくふるい捨てよう。 そして我が身が息絶えるそのときに、 我が人生に悔いなしと言うために”

上に紹介した本「ウォールデン 森の生活」の、どこにあるのか探してみた。
「第2章 どこで、なんのために暮らしたのか」の後半、本でいうと115ベージあたりだった。原文はもう少し分量がある。インターネットで検索してみた。

 ”I went to the woods because I wished to live deliberately, to front only the essential facts of life, and see if I could not learn what it had to teach, and not, when I came to die, discover that I had not lived. I did not wish to live what was not life, living is so dear; nor did I wish to practice resignation, unless it was quite necessary, I wanted to live deep and suck out all the marrow of life, to live so sturdily and Spartan-like as to put to rout all that was not life, to cut a broad swath and shave close, to drive life into a corner, and reduce it to its lowest terms, and, if it proved to be mean, why then to get the whole and genuine meanness of it, and publish its meanness to the world; or if it were sublime, to know it by experience, and be able to five a true account of it in my next excursion. For most men, it appears to me, are in a srange uncertainty about it, whether it is of the devil or of God, and have somewhat hastily concluded that it is the bhief end of man here to ‘glorify God and enjoy him forever’”
Henry David Thoreau

ゴチックにしたところが、映画に利用されている。今泉吉晴さんの訳は、

「私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、実は本当には生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。私はあきらめたくはありません。私は深く生き、暮らしの真髄を吸いつくしたいと熱望しました。スパルタ人のように頑強に、暮らしといえない全てを追い払い、広々となぎ払い、根元まで切り尽くし、暮らしを隅に追い詰め、根源までこそぎ落として、それでも暮らしが良くないとわかったら、良くないさまを世界に説明しょうと思いました。暮らしが良いとわかったら、暮らしの経験を重ねてよく知り、本当の暮らしの話を次の旅の記録に書こう思いました。というのは、私の目にはほとんどの人は、暮らしのあり方を考えない、不思議で曖昧な暮らしをしながら、神のもの、悪魔のものと少し性急に結論を下すだけだからです。しかし人生の大きな目的が、「神を尊敬し、永久に称える」ことだと言葉だけ信じているからです。」

岩波文庫の飯田実さんの訳を見ると、

「私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬ時になって、自分が生きていなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生はいきたくなかった。生きるということはそんなにも大切なのだから。また、よほどのことがない限り、あきらめるのもいやだった。私は深く生きて、人生の真髄をことごとく吸いつくし、人生と言えないものはすべて壊滅させるほどたくましく、スパルタ人のように生き、幅広く、しかも根元まで草を刈り取って、生活を隅まで追い込み、最低の限界まできりつめてみて、もし人生がつまらないものであることがわかったら、かまうことはない、その真のつまらなさをそっくり手に入れて、世間に公表してやろうと考えたのである。また、もし人生が厳粛なものであるとしたら、身を持ってそれを体験し、次の旅行記にありのままを書き記すつもりだった。それというのも、たいていのひとは人生が悪魔のものか神のものか不思議なほど確信が持てないらしく、「神を褒め称え、永遠に受け入れる」ことが地上の人間の主目的だと、いくぶん性急に結論をくだしてきたように思われてならないからである。」

二つの訳文と原文を見比べながら読んでも、私にとってはなかなか難しい。でもアメリカやヨーロッパの映画では、ソローのエッセイの一部が引用されたり、テニスンやシェークスピアなどの詩が暗唱される場面などを見ることがある。
ヨーロッパやアメリカの学問や教養ということにおいて、詩や物語、文学は偉大な力を持っているんだ、と思う。

ソローの小屋には子ども連れのアメリカ人が見学にきていた。もう夏休みなんだなあ。アイスクリームをたべている女の子たちを見て、自給自足の生活を志したソローはどんなことを言うだろう・・・、「いまを生きている」からそれでいいのかなあ、なんてことを考えながら、撮った写真を見る。

「ボストン美術館」に行く時間を気にする現地ガイドさんたちだが、松本先生は折角の機会だからウォルデン池に行きたい、ということで私たちは急ぎ足でウォルデン池に向かう。
池から駐車場までの坂道を中高生の男女が水着姿で走って上がってくる。
えーっ?! まさか水泳?
そのまさかの水遊びの人たちの姿が、目に飛び込んできた。

う~ん、完全に避暑地の風景ですね。
池に手をつけてみる。7月の池?湖? ヒャッとするような水温ではなかった。
わりと手前にコースロープのような綱がはってある。氷河によってできた池だから急に深くなってくるのだろう。アメリカの人たちは日光浴が好きなようだ。

池の周りは写真のように、散歩にぴったりの小径があった。この道を行くと、ソローが実際に建てて生活した小屋跡があるそうだ。

岩波文庫の「森の生活」の後書きに、ソローと若草物語の著者であるルイーザ・メイ・オルコットの関係が書いてあった。それによると、ソローがハーバード大学を卒業した後、1838年からコンコードで兄のジョンと共に私塾を開いている。町の有力者の子ども達も多く入学し、ルイーザ・メイ・オルコットもここで学んでいるという。ルイーザ・メイ・オルコットは1832年生まれだから、6才の時からの交流があったのだ。

さてこの日の最後の見学場所。「ボストン美術館」に向かう。