アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 26

番外編

25回の連載で書けなかったことをここで書いておこうと思う。

アメリカの郵便ポスト

アメリカの郵便ポストは青い。国によってポストの色は違うのだ。

文学史年表

こんな機会だからと年表を作ってみた。
画面では読みにくいが、クリックすると拡大する(はず)。
エマソン、ホーソン、ソロー、ルイーザ・メイ・オルコット、マーク・トウェイン、ロングフェロー、ハリエット・ビーチャ・ストウ、ジーン・ウェブスター、ルーシー・モンゴメリーの9人だ。
全員が江戸時代、明治時代の人たちだ。また南北戦争を経験している。
1862年の奴隷解放宣言後に生まれたのは、ジーン・ウェブスターとルーシー・モンゴメリーだけ。
ルイーザ・メイ・オルコットの少女時代にエマソン、ホーソン、ソローが大人だったこともわかる。

南北戦争の前後に、今回のツアーに関係する人たちが作品を書いている。
ロングフェローの「ポール・リビアの騎行」と南北戦争が重なっているのは、そういう時代背景があったのかと考えさせられる。

ルイーザ・メイ・オルコットの書いた「若草物語」を、ジーン・ウェブスターやルーシー・モンゴメリーが 少女時代に読んだことが想像できる。また「若草物語」に「アンクル・トムの小屋」が登場するのもうなずける。

ジーン・ウェブスターが「あしながおじさん」を書く前に世界旅行をし、日本にも立ち寄ったのは、明治時代だったこともこの年表から確かだ。
まだまだ私の知らないことが読み取れるのかもしれないが、私の力ではここまで。

旅の後で読んだ本

たまたま図書館で目に入った本。この本の著者のパトリシア・マキサックさんのあとがきを紹介する。

「この物語の中のできごとは、テネシー州ナッシュビルで育ったわたしの子供時代にほんとうにあったことです。
 ナッシュビルには、1950年代のたいていの南部の町と同じように、人種差別法がありました。ホテル、レストラン、教会、遊園地には、ジム・クロー法という法律によって人種を差別する看板が出され、アフリカ系アメリカ人を排除していました。さらに、バスがわれたり、公園にある水飲み場も別などという侮辱に耐えねばなりませんでした。しかし、1950年代の後半、ナッシュビル公共図書館運営委員会は、すべての図書館は人種に関係なく、だれでも使えることを議決しました。街の中心にある図書館は、ジム・クロー法の看板をとりはずし、黒人でも敬意をもって迎えられる場所となりました。
 たいていのアフリカ系アメリカ人の親たちは、子どもが人種差別を受けても対処できる年齢になるまでは、共同体の外に1人で出ていく危険を許さなかったものです。わたしの場合には、12歳になってやっと、1人で図書館に行かせてくれました。本書のパトリシアとおなじょうに、そのころのわたしはどんな状況でも乗り越えられるだけの愛と自尊心を身につけていました。図書館へ行く途中で、わたしはあらゆる形の人種偏見や差別に向かい合わなければなりませんでした。でも、図書館は、どんな苦労をしてでも訪れる価値のある、たいせつな場所でした。・・・・後略」

ボストンで見た公共図書館、ハーバード大学の図書館、ヴァッサー大学での図書館、どの図書館も市民に開放されていて、建物自体も魅力ある図書館。図書館の果たしてきた役割の素晴らしさに気付かされる。
それにしてもジム・クロー法は1964年まで存続していたと言う。奴隷解放宣言は1862年に出されている。100年以上も実質的な人種差別は続いていたのだ。
法律的な差別がなくなって60年ほどしかたっていない。アメリカの取り組みはまだまだ始まったばかりだし、それは全世界に共通なことであることに気づいた本だった。

これはアメリカのネイティブアメリカン本人が書いた本。

原題は The Absolutely True Daily of a   Part-Time Indian

訳者あとがきから紹介すると、
「これは、北米先住民のスポーケン族の保留地で生まれ育ち、生き抜いていくためにさまざまな冒険をせざるをえなかった少年の、ホントにホントで、ちょっぴりフィクションの自伝的物語です。(ちなみに後のホーンブック賞を受けたときのスピーチでは、78パーセントが事実だとアレクシーは言っています。)

訳者のさくまゆみこさんは、面白くて食事も忘れて一気に読んだ、というようなことも書いている。ホントかな?よくそういう本の宣伝があるが?と疑り深く読み始めた。ホントに一気に読んでしまった。電車のなか、喫茶店の待ち時間、ずっと読み続けてしまった。たしかにこの本はおもしろい。
ネイティブアメリカンの現実については、私は全く知らなかった。自分の世界を切り開くアーノルドの語りと行動は魅力的で、読む人が元気になってくる本だ。
少数民族の現実とそこで「がんばる」若者。闘う人間の姿と闘うことができるようになった現代のアメリカ、そのことが共感できるようになった現在の世界に、未来への希望を感じる本だった。

見のがした絵

左はメトロポリタン美術館にある「デラウェア川を渡るワシントン」(エマヌエル・ロッツェ作)。
見るのを忘れていた絵。

忘れていたと言っても、実際は、あまりにも見るものが多く、時間がないというなかで、日本に帰ってから、この絵はメトロポリタン美術館にあったのか、と気づいた絵。(絵はウィキペディアより)
ボストン美術館で見たワシントンの絵と、同じテーマの絵だ。

1776年12月25日、ワシントンが軍隊を率いてデラウェア川を渡る場面が、モチーフとなっている。このデラウェア川を渡ったり、トレントの戦いに勝利するきっかけをつくったワシントンの決断は有名なのだろう。

この戦いのことが頭にひっかかっていたのは、「マジック・ツリーハウス」の22巻、Revolulionary  War  on  Wednesday  (日本語版では11巻「戦場にひびく歌声」の中の第2話「託された手紙」)を読んでいたからだ。

左の写真がペーパーバック版の表紙。メトロポリタン美術館の絵を参考にしてこの表紙が書かれていることがよくわかる。主人公のアニーとジャックがワシントンのそばにいる兵士たちに置きかわっているが、全体の構図はそのままだ。
アメリカに行ったらこの絵が見ることができるかも、と本を読んでいる時は思っていたが、どこにあるのかまでは調べていなかった。もう少し事前に調べていれば、いつもそう思う。

ブログを書きながら、あれも見ておくべきだった、これも聞いておくべきだったと後悔するのも、旅の楽しみだろう。
来年は「ハイジ」と「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台スイス方面へ。
「ハイジ」の本を買って、勉強しょう。これもいつも思うこと、、、。
若草物語とあしながおじさんの旅もこのへんで中締め。

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 10

二日目  ボストン美術館

ボストン美術館は、1870年設立という歴史のあるもの。さらに所蔵品は50万点を数える。岡倉天心、モース、フェノロサなど日本と関係の深い美術館である。
私たちは団体入り口から入った。入り口には上から3枚目の写真にあるようなディスプレイが、私たちを出迎えた。にじんでいるので読みにくいが、こう書いてある。

                                        PLEASE

ENJOY   RELAX   STEAL(☓)  DANCE   TOUCH
       FLIRT   SMOKE(☓)  WONDER   FEEL
      MUSE   EAT(☓)  SING   LISTEN   TALK
ASK   TOUCH  NEON (☓)   LOOK   COMMUNICATE
TOUCH  EACH OTHER   USE CAMERA   FLASH(☓)

これも作品の一つらしい。ダンスもいいよ、さわっても、でも盗みはだめ、タバコや飲食も・・・・ へぇー、なんとも芸術的な作品。美術館の入り口にぴったり。
フラッシュはだめだけれど、カメラを使っていいのはうれしい。

団体入口付近。ミュージアムショップやかんたんな飲み物コーナーがある。天井も高く、ゆったりと私たちを出迎えてくれる。
現地ガイドさんの案内で、有名な絵画や彫刻などの展示を案内してもらう。美術の教科書で見たような作品がいっぱいあり、このブログでは全部が紹介しきれない。
記憶に残ったいくつかを紹介する。

この絵はトマス・サリーが描いた「デラウェアを渡る」。これは1776年12月25日にワシントンが約2400人の兵士を率いて流氷の浮かぶデラウェア川を渡ったところを絵にした歴史画。この渡河によってワシントン軍は勝利を手にした。

ボストン美術館のご利用ガイドには、「時間の限られている方は、当館のハイライト12作品を御覧ください」と書かれている。この「デラウェアを渡る」はその12作品のうちの一つである。

これも12作品のうちの一つ。ジョン・シンガー・サージェントの「エドワード・D・ポイトの娘たち」(1882年)。この絵の中にある大きな花びんは有田焼。それと同じものがこの絵の前にならべてあるのが憎い。

 

これはひと目見てわかる、ターナーの作品。夕日の美しい作品と思うが、題名は「奴隷船」(1840年)。沈んでいく奴隷船が描かれているのだ。これも12作品のうちの一つ。

ゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(1897−8)。たいへん大きな作品。139.1cm x 374.6cm。迫力と魅力のある絵だ。

左がクロード・モネの「着物をまとうカミーユ・モネ」(1875−76)。
右がルノワールの「ブージヴァルのダンス」(1883年)。

美術の教科書、画集などで見たことがありそうな名画がずらりとならんでいる。それも写真も自由、照明も大変明るい。日本の美術館の展示と大きく違っている。
本物を身近に、ふだんの照明で見ることのできるアメリカの子どもたちは、本当にうらやましい。

「赤毛のアン」を描いたモンゴメリーさんは、原稿をボストンの出版社に持ってきた時に、このボストン美術館を見学している。日本の陶器に大変感動したと日記に書いている、と松本先生の説明があった。どの日本の陶器なのかはわからないし、100年以上も前のことだから展示作品や陳列方法も変わっているだろう。とにかく陶磁器の展示があったことが思い出せるようにと写真を撮る。

 

ここは日本コーナー。展示室の壁が日本風の柱がデザインになっている。
この龍は、金属製の自在置物。以前に大阪歴史博物館で「近大大阪職人図鑑」という特別展示があった時に、竹でできた龍の自在置物があったが、これは金属製。2mぐらいあるおおきなもの。
岡倉天心の日本庭園もあったが写真にとっていない。残念。
事前にもう少しこの美術館についての情報を仕入れていたなら、といつも思う。

マチスの特別展もあり、お腹がいっぱいになってくる。その分、足がつかれ喉も乾いてくる。美術館の真ん中にオープンカフェのようなところがあるので、ここてお茶にすることにした。

テーブル席付近で、係の人に「コーヒーが飲みたい」と言うとカウンター席を指差すのでそちらへ移動する。カウンター席に座るが何のアクションもない。
「うん? 何かまちがったかな」と思い、もう一度入り口に周る。何人かの人が並んで、入り口に置かれているメニューらしきものをとっている。
それを真似して、メニューの用紙を持って、係の案内を待つ。
同じように『コーヒーが飲みたい」というと、やっぱりカウンター席に案内される。
椅子に座っていても、また何のアクションもない。しばらく他のお客さんの様子を見る。
「そうか、待っていてはいけないのだ。こちらがアクションを起こさないとダメなのだ」と気づく。
手をあげてウェイターらしい人を呼ぶ。メニューを指差して、私は普通のコーヒー、妻はカフェラテを注文。これでオーケー。しばらくしてコーヒーとカフェラテがくる。ミルクがテーブルにない。「だから私はカフェラテにしたの」と妻が言う。ああそうか、ミルク入りのコーヒーと言わなくてはならなかったのだ。
ヨーロッパのレストランでは、今まではお店の人から声がかかった。しかしここではちがった。自分が要求しなければ、なにもおきない。自分たちがアメリカにいることを実感した場面だった。アメリカはそういう国なのだ。

ボストン美術館の見学を終え、ホテルに戻って夕食のシーフードレストランに行く。 

 

今日もメインはロブスター。
メニューは、
ニューイングランド風クラムチャウダー。
つづいてハウスサラダ。
メインのロブスターとアムール貝。
デザートにボストンクリームパイとコーヒー

まあロブスターの大きなこと。これだけでお腹がいっぱいになる。
ロブスターは「赤毛のアン」のツアーではおなじみなので、松本先生の指導のもとで、このロブスターを食べやすくちぎる。これぐらいの大きさになるには何年かかるのだろうと思いながら食べきってしまった。ごちそうさまでした。

ぶらぶらと、ツアーのメンバーみんなで歩きながら、ホテルに戻る。
忙しかった1日目がやっと終わる。明日はハートフォードへ移動する。

 

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 9

二日目 ボストン市内観光その8

ソロー「森の生活」とウォルデン池

私たちがやってきたのは、オーチャードハウスからバスに乗ってすぐのところ。ここにソローの「森の生活ウォルデン」を執筆したウォルデン池がある。
上の写真はソローの像。後ろにあるのは2年間生活をした小屋のレプリカ。
本来の小屋はここではなく、池の北側にあり、私たちの観光時間の関係からそこまではいけなかった。

4畳半ぐらいの大きさの部屋。中には暖炉と机のベットがある。
ここで自給自足の2年間の生活をおくったという。

ウォルデン池についてウィキペディアをみると、次のように書かれていた。

ウォールデン池Walden Pond)は、アメリカマサチューセッツ州にある水深31mのである[。 池は、マサチューセッツ州コンコードにあり、 広さは61エーカー (250,000 m²)、周囲は 1.7マイル (2.7 km)に及ぶ。ケトル (地形)英語版と呼ばれる堆積氷河が溶けた後にできた穴の有名な例で、10,000~12,000年前の氷河によって作られたとされる。
作家で超越論主義者で哲学者のヘンリー・デイヴィッド・ソローが、1845年の夏から2年間に渡りこの池の北側の岸辺に居住した。 彼の経験の叙述は、『ウォールデン 森の生活』に記録されている。その区画の土地は、彼の友人で師でもあったラルフ・ワルド・エマーソンの所有地で、彼がソローにそこで実験的に暮らして見ることを示唆した。コンコード博物館には、ソローの小屋にあったベッド、椅子、そして書き物机が展示されている・・・・後略・・・・。

エマーソン(1803年〜1882年)やルイーザ・メイ・オルコットの父エイモス・オルコット(1799〜1888)はソロー(1817年〜1862年)がこの小屋を建てる時にさまざまに協力しているそうだ。

左の本がソローがこの小屋での体験を元にした本、「ウォールデン 森の生活」(小学館 今泉吉晴訳)。
私はこの旅行に行く前に、読んでみようかなと思って岩波文庫を手にとったが、だめだった。
ツアーのメンバーで、この「森の生活」を読みました、という人がいてびっくりした。すごいなあと思った。
日本に帰ってきてから、もう少し読みやすい訳の本はないかとさがして見つけたのが左の本。
でも全部は読み切れそうもない・・。
(上の地図はこの本からの引用)

この翻訳した本の解説を読んでいると、ロビン・ウィリアムズ主演の映画「いまを生きる」で、ソローの「森の生活」が引用されていると書かれていた。さっそくDVDを借りて、見ることにした。

映画の原題は「Dead Poets Society」
1989年の映画で、私は一度見ているが、ソローのことはまったく知らなかった。あらためて見直すと、だれにもおすすめできる、ほんとうにいい映画だ。
Dead Poets Society というのは、学生たちの作った秘密のクラブ。映画では「死せる詩人の会」と訳されている。

この会のはじまりに、冒頭に読まれる一節が「森の生活」からの引用なのだ。

I went to the woods, because I wanted to live deliberately.
I wanted to live deep and suck out all the marrow of life.
To put to rout all that was not life, and not when I had come to die, discover that I had not lived

映画の字幕では次のように翻訳されている。

“私が森へ引きこもった理由-- それは思慮深く生き、 生きることの真髄を心ゆくまで味わうため。 生活でないものはことごとくふるい捨てよう。 そして我が身が息絶えるそのときに、 我が人生に悔いなしと言うために”

上に紹介した本「ウォールデン 森の生活」の、どこにあるのか探してみた。
「第2章 どこで、なんのために暮らしたのか」の後半、本でいうと115ベージあたりだった。原文はもう少し分量がある。インターネットで検索してみた。

 ”I went to the woods because I wished to live deliberately, to front only the essential facts of life, and see if I could not learn what it had to teach, and not, when I came to die, discover that I had not lived. I did not wish to live what was not life, living is so dear; nor did I wish to practice resignation, unless it was quite necessary, I wanted to live deep and suck out all the marrow of life, to live so sturdily and Spartan-like as to put to rout all that was not life, to cut a broad swath and shave close, to drive life into a corner, and reduce it to its lowest terms, and, if it proved to be mean, why then to get the whole and genuine meanness of it, and publish its meanness to the world; or if it were sublime, to know it by experience, and be able to five a true account of it in my next excursion. For most men, it appears to me, are in a srange uncertainty about it, whether it is of the devil or of God, and have somewhat hastily concluded that it is the bhief end of man here to ‘glorify God and enjoy him forever’”
Henry David Thoreau

ゴチックにしたところが、映画に利用されている。今泉吉晴さんの訳は、

「私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、実は本当には生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。私はあきらめたくはありません。私は深く生き、暮らしの真髄を吸いつくしたいと熱望しました。スパルタ人のように頑強に、暮らしといえない全てを追い払い、広々となぎ払い、根元まで切り尽くし、暮らしを隅に追い詰め、根源までこそぎ落として、それでも暮らしが良くないとわかったら、良くないさまを世界に説明しょうと思いました。暮らしが良いとわかったら、暮らしの経験を重ねてよく知り、本当の暮らしの話を次の旅の記録に書こう思いました。というのは、私の目にはほとんどの人は、暮らしのあり方を考えない、不思議で曖昧な暮らしをしながら、神のもの、悪魔のものと少し性急に結論を下すだけだからです。しかし人生の大きな目的が、「神を尊敬し、永久に称える」ことだと言葉だけ信じているからです。」

岩波文庫の飯田実さんの訳を見ると、

「私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬ時になって、自分が生きていなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生はいきたくなかった。生きるということはそんなにも大切なのだから。また、よほどのことがない限り、あきらめるのもいやだった。私は深く生きて、人生の真髄をことごとく吸いつくし、人生と言えないものはすべて壊滅させるほどたくましく、スパルタ人のように生き、幅広く、しかも根元まで草を刈り取って、生活を隅まで追い込み、最低の限界まできりつめてみて、もし人生がつまらないものであることがわかったら、かまうことはない、その真のつまらなさをそっくり手に入れて、世間に公表してやろうと考えたのである。また、もし人生が厳粛なものであるとしたら、身を持ってそれを体験し、次の旅行記にありのままを書き記すつもりだった。それというのも、たいていのひとは人生が悪魔のものか神のものか不思議なほど確信が持てないらしく、「神を褒め称え、永遠に受け入れる」ことが地上の人間の主目的だと、いくぶん性急に結論をくだしてきたように思われてならないからである。」

二つの訳文と原文を見比べながら読んでも、私にとってはなかなか難しい。でもアメリカやヨーロッパの映画では、ソローのエッセイの一部が引用されたり、テニスンやシェークスピアなどの詩が暗唱される場面などを見ることがある。
ヨーロッパやアメリカの学問や教養ということにおいて、詩や物語、文学は偉大な力を持っているんだ、と思う。

ソローの小屋には子ども連れのアメリカ人が見学にきていた。もう夏休みなんだなあ。アイスクリームをたべている女の子たちを見て、自給自足の生活を志したソローはどんなことを言うだろう・・・、「いまを生きている」からそれでいいのかなあ、なんてことを考えながら、撮った写真を見る。

「ボストン美術館」に行く時間を気にする現地ガイドさんたちだが、松本先生は折角の機会だからウォルデン池に行きたい、ということで私たちは急ぎ足でウォルデン池に向かう。
池から駐車場までの坂道を中高生の男女が水着姿で走って上がってくる。
えーっ?! まさか水泳?
そのまさかの水遊びの人たちの姿が、目に飛び込んできた。

う~ん、完全に避暑地の風景ですね。
池に手をつけてみる。7月の池?湖? ヒャッとするような水温ではなかった。
わりと手前にコースロープのような綱がはってある。氷河によってできた池だから急に深くなってくるのだろう。アメリカの人たちは日光浴が好きなようだ。

池の周りは写真のように、散歩にぴったりの小径があった。この道を行くと、ソローが実際に建てて生活した小屋跡があるそうだ。

岩波文庫の「森の生活」の後書きに、ソローと若草物語の著者であるルイーザ・メイ・オルコットの関係が書いてあった。それによると、ソローがハーバード大学を卒業した後、1838年からコンコードで兄のジョンと共に私塾を開いている。町の有力者の子ども達も多く入学し、ルイーザ・メイ・オルコットもここで学んでいるという。ルイーザ・メイ・オルコットは1832年生まれだから、6才の時からの交流があったのだ。

さてこの日の最後の見学場所。「ボストン美術館」に向かう。