大雨で流れてきた巨大鯉

2日の大雨で、私の家の近くにある用水路も大量の水が流れた。
一日開けての3日、なんと巨大な鯉が流れ込んでいた。
この用水路はため池に向かっていると思うのだが、水の流れが弱まり、水量も減ってきているのでここで進まなくなったらしい。
この用水路はもともとは狭山池から出発し、広い地域に張り巡らされ、ため池があちこちに作られて水が移動しながら田畑を潤していると想像される。

私が犬の散歩でこの付近を歩いていると、近くの人が何やら騒いでいる。 用水路を見るとなんと巨大な鯉が。 話を聞いてみると、昔は大雨の後よく鯉が流れ込んできていたということだ。 その人達は網がないのでタオルで鯉を挟んで、ポリ容器に入れて池に放そうと考えたのだが、鯉はさわると飛び跳ねて捕まえることができない。
 近くの家の別の人が来て、警察に電話をしたという。
しかし警察は鯉の回収にはきてくれず、町内におまかせのような対応だったと、怒っていた。
 どうしょうもできず、それぞれが町会の役員に電話することにした。
この用水路もたぶん水利組合に関係するから、勝手なことはできないだろうと考えたからだ。
 私も知り合いの旧の町会の役員に電話をした。その人も困ったという対応だったが、とにかく水利組合や現在の町会長に連絡を取ってもらうことにした。

やきもきしながら鯉の様子を見ていると、「町会長に電話をしたら、仕事の帰りだから、すぐそちらに行くという返事が来た」と携帯に連絡が入った。
まもなく町会長さんが車に農作業の道具や肥料を積んだままの姿で駆けつけてくれた。町会長さんが用水路に入り鯉をつかもうとすると鯉は大暴れ。
私も少し手伝いをたのまれ、肥料の入っていた大きなビニールの袋を手渡した。
暴れていた鯉も、頭がビニールの袋に入ると大人しくなってしまったのにまたびっくり。
鯉は丸くなってビニールの袋に完全に入ってしまった。
「〇〇池に放すわ」といいながら町会長さんは笑いながら車を運転して去っていった。
私の家の近くにはため池が多くあり、それを用水路でつないでいる。大雨でどこかのため池の鯉が用水路に溢れ出し、私の家の近くの用水路まで流れ込んできたと思われる。放っておいたら野良猫やカラス、イタチの犠牲になることは目に見えていたから近所の人たちもどうすればいいのか困っていたのが現実。
町会が(しかも町会長が)動いてくれて本当に良かった、というのが私の実感。
いやー私もここに30年は住んでいるがこんなことは初めて。
間に入って町会長に連絡をしてれた私の知り合いにお礼の電話を入れ、
「天変地異は鯉にまで影響を与えたなあ、それにしても町会はいい仕事をしたなあ」と独り言を言って一件落着。

 

 

河内鋳物師の里

堺市立みはら歴史博物館の企画で、「河内鋳物師の里をめぐる」というフィールドワークがあった。
参加者は美原区役所に集合して、6階の展望スベースから美原市の全貌を見ながら講師の泉谷先生の話を聞くことから「里めぐり」ははじまった。

左の写真は展望スペースに合った航空写真。美原市内が一枚の画面に収まっている。写真はその一部。10年近く前の写真なので現在とは大きく変わっている。以前は田んぼと溜池が多かったことがよく分かる。

さて今回のフィールドワークのテーマである「河内鋳物師」とはどういう意味なのだろう。講師の泉谷先生の話によると「中世に活躍した鋳造技術者集団のことで、河内国を本貫地か住地としていた鋳物師のことを指す」そうだ。
慶長(1596〜1615 安土桃山時代〜江戸時代)以前に鋳造された梵鐘(つりがねのこと)で現存する81のうち50が河内鋳物師の作品とされる。梵鐘(つりがねのこと)の他にも、仏具から生活用品まで広く制作していたそうだ。
今回はその河内鋳物師が活躍したであろう地をいくつか見て回ることのようだ。

ここは大阪府立美原高等学校。 この学校を建設するときに遺跡が発見された。7世紀から8世紀前半の建物の遺跡である。
当初の計画では道路側に校舎が建てられる予定だったが、急遽そこを運動場として残し、校舎は写真のように奥に移動して建てられた。
ただ時間的な余裕がなく、遺跡(平尾遺跡と呼ばれている)は調査されずに埋め戻されているそうだ。
心配なのはこの美原高校が3年先に廃校予定になるというリストにのったことである。現在の大阪府の考え方では、この土地は民間に売られてしまうだろう。そのとき遺跡調査がなされるのか、なされないのか、注視しなければならないと泉谷先生はおっしゃっていた。

写真は東除川。
美原市の東側にこの東除川、西側には西除川が流れている。
この川はどちらも狭山池につながっている。
狭山池は行基(668〜749)がつくった溜池の一つと伝承されている。
石川や大和川といった河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は水量に乏しく、灌漑に苦労していた。大和川の付替工事まで、80か村、約55000石を灌漑していたと言われている。この狭山池から流れる水は、西除川と東除川によって多くの溜池を作り、この地の灌漑に役立ってきた。今も大小の溜池が美原市に多い。

美原高校から東除川を見ながら南へ進んでいく。
上の写真は菅生神社(すごうじんじゃ)。 延喜式神社名帳に記載のある式内社の一つであるが、中世には菅原道真を祀るようになり、天満宮あるいは天神神社と称するようになったという。
右上の写真が菅生天満宮の本殿。立て札には「堺市指定有形文化財 平成18年4月指定 菅生天満宮本殿」と書かれている。
ここに伝え残されている資料は、京都の北野天満宮や大阪にある大阪天満宮のものとちがっている部分があるらしい。どういう関係でこの地に天満宮ができたのか謎のままだそうだ。

みはら歴史博物館にもどり昼食。
館内の展示品で、河内鋳物師に関係する展示について泉谷先生の説明を聞く。
日本の梵鐘のほとんどは銅製であること、韓国や中国は鉄製が多いこと。
河内鋳物師の一部は廻船鋳物師として近畿各地に活動の場所を広げていたことを聞く。また東大寺の大仏再建にも関係があることも知った。

午後のフィールドワークはまず廣國神社に向かう。この神社周辺は鋳物の発祥地であるという意味が神社由緒の立て札に書かれていた。
あいにくこの神社は神社社殿新築中だった。
神社の境内には上の写真のような古びた石の板が置かれていた。立て札には「黒姫山古墳の天井石の1枚」と書かれている。黒姫山古墳は古くから盗掘が繰り返され、石棺のようなものは全てなく、この天井石は水路の橋に利用されていたそうだ。
うーん、もっと大切にしてほしいと思うばかりだ。

ここは医王山平松寺(へいしょうじ)。
「白河・鳥羽・後白河三天皇の勅願寺と伝えられている」と立て札に書かれている。 本尊は薬師如来坐像。昔から女性や子どもからあつく信仰されているそうだ。 この坐像は半丈六(はんじょうろく 約1.8m )の座高を持つ大型の坐像。年に2回の御開帳だそうた。
「堺市のこの地域における仏教文化のありようを探る上でも貴重なもの」と泉谷先生の話にあった。

最後は大宝山法雲寺、法雲禅寺とも言われている。 ここは禅寺で、数少ない黄檗宗の寺院。京都七福神巡りで、宇治の萬福寺に行ったがそこは本山に当たるお寺。
もともとこの地には真言宗の長安寺があったが、西除川の氾濫で流失し、そのあとに建てられたという。
本堂内には数多くの仏像が並んでおり、その数は3333体になるそうだ。
このお寺には七福神が祀られており、機会があればもう一度訪れてみたいと思った。
かなりハードだったフィールドワーク。
この美原が古くからの歴史と文化が受け継がれてきたこと地であることが実感できた。またお天気もよくフィールドワーク日和に助けられたとも言える。