南木曽町博物館

ここは南木曽町博物館(なぎそまちはくぶつかん)。もらったパンフレットには、
「妻籠宿脇本陣は屋号を『奥谷』といい、代々林家が勤めてきました。木曽五木の禁制が解かれて明治10年(1877)に総檜造りで建て替えられたのが現在の建物です。昭和42年には妻籠宿保存の中核として公開され、平成13年には国の重要文化財に指定されました。裏の土蔵には、脇本陣関係の民俗資料や藤村文学関係資料などが豊富に展示されています。」とある。
脇本陣や裏の資料館などを合わせて「博物館」としての機能を果たしているようだ。

ここで記されている「木曽五木」とは、江戸時代に尾張藩より伐採が禁止されていた「ヒノキ、アスナロ(アスヒ)、コウヤマキ、ネズコ(クロベ)、サワラ」の五種類のこと。厳しい政策で「木一本、首一つ」とまで言われていたそうだ。

山から切り出した材木は、写真のようにして川まで運んでいたそうだ。
トラックやクレーンなどのなかった時代、大変な苦労だったことが想像される。

私がびっくりしたのは、縄文時代の石器などがこの南木曽で発見されていたことだ。
縄文時代の生活として「・・・ヒノキが育ち、またドングリ・クリ・クルミ・トチなど豊富な木の実を育む、現在より温暖で湿潤な気候であったと推定されます。また、魚類をはじめ鹿や猪などの獣類が豊富な、人々にとっても良好な生活環境だったのです。・・・」と説明が書かれていた。
縄文時代からこの地に人が住んでいたとは、予想もしなかったことだ。広い地域に人々は住んでいたのだと、あらためて日本の歴史に思いを馳せてしまった。

ここには島崎藤村の直筆の手紙が展示されていた。友人の求めに応じて書かれた文章のようだ。 保存状態も良く、島崎藤村の字もたいへんきれいな文字だったことがよく分かる。 島崎藤村はここ「妻籠」の隣りにある「馬籠宿」で生まれている。

 このツアーの添乗員さんが、移動のときに島崎藤村の「夜明け前」の最初の部分を読んでくれた。 私はこの本を読んだことはなく、朗読で聞く「夜明け前」は今私がいる妻籠の町を説明してるかのように聞こえた。

青空文庫より引用する。  

 木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じゅっきょくとうげ)まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋もれた。名高い桟(かけはし)も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降って来た。道の狭いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。・・・・

 これを機会に島崎藤村の文学ん読んでみようか。
そんな気にさせてくれる朗読だった。
 「妻籠宿」に関係するホームページを見ていると、
「島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」さんの嫁ぎ先でもあります」と言う説明があった。
ゆふさんのことも全く知らなかった。やっぱり島崎藤村の本を読むときかな、と思った南木曽町博物館だった。