帝塚山古墳群

南海高野線の帝塚山駅周辺にはかつては古墳がいくつもあったそうだ。
現在その姿をとどめているのは、帝塚山駅の直ぐ側にある「帝塚山古墳」である。
その古墳群を見学するツアーがあったので参加した。

住吉東駅の東側からでて、少し歩くと「弁天塚古墳」の跡地がある。 実は古墳の上に神社が建っているのである。

ここは東大禅寺。お寺なのに正面に鳥居がある。
明治時代の廃仏毀釈で、神社とお寺とははっきりと区別されたが、それ以前は神仏混合の時代だったので、江戸時代はあたり前のことだった。
もらった資料によるとここは「前方後円墳で全長65メートル、後円部の高さは4.3メートル、となっているが形状がかなり変形している。発掘がなされていないので詳細は不明」となっている。
西暦4世紀から6世紀ぐらいに古墳ができたと考えられている。

弁天塚古墳から少し東に歩いていくと、大阪市立万領保育所がある。そこのフェンスに写真のような掲示がある。

掲示板には次のようにかかれている。

大阪市顕彰史跡第206号
二本松古墳
(住吉区万台東3・4丁目)
6世紀後半の古墳で、円墳と推定される。明治時代の土採りのよって墳丘は削平されたが、その際に石室や石棺が発見された。かつての地名が住吉村字二本松であったことから二本松古墳とよばれている。
大阪市教育委員会

発掘時の資料や出土品は東京国立博物館に保管されているともらった資料に書かれている。ボランティアのガイドさんが「どうして東京にあるのでしょうね」とぼやいていた。私もその気持はわかる。

大阪急性期総合医療センターをすぎ、万代池をこえると大阪女子大学の記念碑がある。 その周辺に万代古墳があった。今はマンションになっている。
資料には次のように書かれている。

「平成16年(2004年)に発掘された古墳で、周辺の敷地より一段高い土地で、マンション建設の際に発見された。墳丘部は削られてほとんどないが全長約32メートル、後円部の直径は約29メートルであるが前方部約6メートルしかない帆立貝型の前方後円墳であった。周濠からは円筒埴輪、人物埴輪や衣笠埴輪(きぬがさはにわー日傘を模したもの)、盾形埴輪、朝顔埴輪などが出土し、埴輪としては比較的新しいタイプのもので、その形から5世紀末から6世紀の古墳であることがわかった。帝塚山古墳の周辺にはこのような小さな古墳があったと考えられます。」

南海高野線「帝塚山駅」西出口から目の前に「帝塚山古墳」がある。
ここは「財団法人住吉村常磐会」が管理している。普段は施錠されていてはいることができない。今回のツアーのような機会がないと古墳の中には入れないので、このツアーを心待ちしていた。

古墳の中にある立て札には次のようなことが書かれていた。
「・・・・所有者 財団法人 住吉村常磐会 この古墳は西南面の前方後円墳で上町台地南部の西縁に立地している。墳丘の前後長径88メートル前方部幅39メートル後円部径49メートルその高さは前方部8メートル強後円部9メートルを測る。・・・・略・・・墳丘には埴輪円筒の樹立があり往時南北両側には周濠の一部である溜池が存したことを土地の古老は記憶している。墳丘の形態その他すべて中期古墳の特徴を備えている。 後円部頂上には明治31年11月陸軍大演習の際明治天皇の登臨があったのでその記念碑が立てられている。 ・・・・略・・・この古墳の被葬者については大伴金村とする所説があるが古典によれば附近には住吉宅と呼ばれる大伴氏の居邸がありこの豪族の根拠していたことは明らかであるからこれに関係する墳墓であるかも分からない。大阪古代における歴史と文化とを徴するために欠くべからざる史跡である。             
      昭和39年3月31日    
            文化財保護委員会
            大阪市教育委員会」

もらった資料には、 「・・・後円部を北へ向ける前方後円墳で、全長約120メートル(注・大仙古墳の約四分の一)・・・略・・・出土した円筒埴輪から4世紀末から5世紀初頭の古墳と推定されます。前方後円墳として原型を止める大阪市唯一のものです。上町台地の南端部に当たり、古墳が築かれた当時は西側近くまで海が迫っていたので、海からもよく眺めたものと思われます。大伴金村の墓という説もありますが、6世紀前半に活躍した金村とは時代が合わず、被災者は不明です。」

古墳の上にあった木はすべて伐採されている。 昨年、一昨年の台風の時に切ったそうだ。 古墳を取り囲むように高級住宅が建っている。 春には「花びらが家に吹き込んできて困る」、秋冬には「枯れ葉が家の中に入ってくる」という不平や抗議が管理者の住吉村常磐会に寄せらてくるそうだ。よく似た話は昔からあちこちで聞いたことがある。離れて愛でるのはいいが、直接自分たちに迷惑がかかってくると不平を言う。
自然との共生は言葉だけになっているように私は感じてしまう。

この帝塚山古墳の見学は春と秋に行われているそうだ。春にも来てみたいと思った。

私が参加したツアーの企画は「特定非営利活動法人すみよし歴史案内人の会」がされている。ホームページもあるので詳しい活動内容については、HPを見ていただきたい。「まち歩き」の紹介や参加申込もここからできる。

 

黒姫山古墳

ここは「黒姫山古墳」
堀に沿って歩くことができる、自然な形で残されている古墳だ。

写真にある道路拡張があったが、この古墳は破壊からまぬがれた。

解説があったので、読んでみると、
「黒姫山古墳は、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に位置する堺市美原区黒山に所在する前方後円墳です。5世紀の中頃の築造と考えられ、平地に立地し、前方部を西に向けています。全長114m,後円部径64m、高さ11m,前方部幅65m,高さ11,6mの二段築成で、幅15〜20mの壕をめぐらせています。・・・・」
とある。

全国一の鉄製の甲冑の出土量

「古墳は、戦後すぐに発掘調査が行われ、24領の鉄製の甲冑(よろいかぶと)が前方部の石室で発見されました。この数は、日本にある古墳からの出土量としては、全国一です。第2位の野中古墳が11領なので、それと比べても2倍以上の鎧兜が出土したことになります。・・・略
黒姫山古墳に埋葬された人物は、強力な軍事力を持っていたと考えられます。また、鉄が朝鮮半島から入ってきていたとかんがえられるため、外交的な力をも持っていた人物と考えられます。これらのことから、この古墳に埋葬されているのは、当時この地域で勢力を持っていたとされる豪族、丹比(たじひ)氏の首長と考えられています。」

これは石室の復元模型。この石室の中に鎧いや甲が埋葬されていたらしい。

両側には埴輪が復元され並べられている。

この黒姫山古墳から歩いて数分のところに、出土品をメインにした「みはら歴史博物館」がある。しずかな博物館でゆっくりと見学することができた。もちろん無料で。

黒姫山古墳と「みはら歴史博物館」のあいだにあるのが、以前紹介した「桜珈琲」。
博物館の受付の人の話によると、黒姫山古墳を見学する人が車で来たとき、その車を桜珈琲の駐車場に停めることができるという条件で、堺市が桜珈琲に建築を許した、という経過があるそうだ。
なるほど、黒姫山古墳が丁寧に保存され、その博物館もあるというのは、堺市の歴史にかける意気込みなのだろう。