漢字ミュージアム

ここ「漢検 漢字博物館・図書館」は「漢字ミュージアム」とも呼ばれているところ。
甲骨文字の展示もあり、私は初めて実物の甲骨文字を見た。写真撮影禁止なので、ポスターの写真を撮った。思ったより小さく、何を使って骨に刻んだのだろうか?とおもう。

さてパネル展示は「カタカナ・ひらがな」にすすむ。

1、カタカナ・ひらがながみられました。

漢字だけを使って、工夫して日本語を書いていた日本人は、9世紀頃に独自の文字を作り出しました。それがカタカナとひらがなです。ともに、漢字を簡単にして作り出した日本語専用の文字で、はじめは「これは漢字の画を省略したもの」「これはカタカタ」「これはひらがな」と区別できるものではありませんでしたが、それぞれ独自に発展して、漢字とは異なる、ひとまとまりの文字として使われるようになりました。

2,漢字を「はぶく」ことから
       カタカナが生まれました。

9世紀前半頃から、漢文で書かれたお経を日本語として読むための漢字や符号が、紙の余白や漢字の四隅に書かれるようになります。お経の行と行との間の狭いスペースに、なるべく早く書くために、漢字の偏や旁(つくり)を省きました。こうして筆画をはぶいて書いた字を、「省画仮名(しょうかくがな)」「略体仮名」と呼びます。この省画仮名が、現在のカタカナのもとになりました。

カタカタは漢字の一部を取り出して作られました。

カタカナが芽生えた9世紀前半には、漢字の偏や旁をあまり省略せずに書き込んでいました。
それが、漢字やひらがなと見分けがつくようにと次第に形が変化していき、いっそう簡単なものになっていきました。
主に、下記はじめの一、二画目を使ったり(「ア 阿」、「イ 伊」など)、終わりの数画を使ったり(「エ 江」、「ヌ 奴」など)して、漢字の一部だけを取り出すことで、省略しました。

カタカナは、漢文を読む時の補助記号として生まれたものでした。つまり、あくまで漢字が主で、そこにカタカタでその漢字のよみがなや助詞(「て・に・を・は」など)、助動詞(「む・たり」など)、活用語尾(書くの「く」など)を補ったものです。
漢文訓読のときには、カタカナ以外にも、日本語として漢文を読む時の順番を示す「返り点」や、漢字の周りなどに点を打つことで読み方を表す「ヲコト点」と呼ばれる記号が用いられました。

平安時代末期〜鎌倉時代にかけてカタカナがたくさん使われだしました。

ひらがなとは違って、カタカナはひとまとまりの文字として独立してからも、多くの場合、漢字と交ぜて使われました。
それは、カタカナが漢文を読むために記号から生まれたものだからです。
漢字とカタカナを交ぜた、「漢字カタカタ交じり文」は、鎌倉時代を通じて、主に学問や仏教関係の書物を書く時に用いられ、日本語の散文(和歌や漢詩以外の文章)を書く時の文章様式として、広く使われました。
(左は今昔物語集から。助詞や助動詞をカタカナと小文字で2行に分けて書いている)

3,漢字を「くずす」ことから
      ひらがなが生まれました。

万葉仮名として使われている漢字を、早く楽に書くため、形をくずして書くようになりました。これがひらがなの起源です。 漢字の形をくずすということ自体は、奈良時代からなされていたのですが、くずされた文字を「ひらがな」という、漢字とは別の文字だと意識して人々が使い始めたのは、9世紀末頃だと考えられています。

万葉仮名を、早く書くためにくずしたものを「草仮名(そうかな)」といいます。
ひらがなは、この草仮名をさらにくずして、漢字とは別の文字として使ったものです。
草仮名とひらがなとは、はっきりと区別できるものではありませんが、『源氏物語』や『宇津保物語(うつぼー)』の記述から考えると、平安時代の人は「さう=草仮名」と、「かんな・かな=ひらがな」とを使い分けていたようです。
貞観(じょうがん)9年(867)に、讃岐国の戸籍帳に書かれたメモには、万葉仮名からひらがなに変化する途中の草仮名が使われています。
・・・・・略・・・・・

日本独特の文化「国風文化(こくふうぶんか)」が盛んになり、文学にもひらがながつかわれるようになりました。

 10世紀になると中国文化の永享が薄くなり、日本独自の文化が盛んになりました。これを「国風文化」といいます。この時代には、ひらがなを使って多くの優れた文学作品が書かれました。ひらがなは細やかな感情を表すのに適しているので、日本独自の優れた作品を記すことができたとも言われています。 漢字を使って日本語を書くと、どうしてもことばが硬くなり細やかな思いや感情が表現できません。この時代から、文学に使われる文字も、日本独自のものとなりました。

女流文学作品の文字として
ひらがなが盛んに使われるようになりました。

平安時代中期には、女性たちがひらがなを使って、盛んに物語や随筆、日記といった文学作品を書きはじめました。
女流文学があまりにも有名なので、女性しかひらがなを使わなかったと思いがちですが、実は男性もひらがなを使っていました。
ひらがなのことを「女手(おんなで)」と呼ぶのは、女性はひらがなしか書かなかったからとも、また、ひらがなそのものではなく、ひらがなを数字続けて(連綿させて)書いたものを「女手(おんなて)」と呼ぶのだ、ともいわれています。
(上の写真は池田本とよばれ、「桐壷」の冒頭の部分。)

*ここのパネルの記述は少しことば足らずだと私は思う。
平安時代の女性がひらがなしか使えなかった、女性が漢字を使うことは(男性が、当時の社会が)よしとしない雰囲気があったのではないか、と私は思うからだ。
女性は漢字を使わなかったのか? そうではないと思う。上の源氏物語は漢字かな交じり文で書かれている。紫式部が源氏物語をひらがなだけで書いたのか、漢字かな交じりで書いたのか、はたまた万葉仮名だけで書いたのか、私にはわからない。写真のような写本を見ると、漢字かな交じりで書いたのではないかと私は思う。

パネルはさらに変化する日本の文字について知らせてくれるが、少し時代を飛ぶことにする。

 

 

 

 

日本語表記の歴史 4

カタカナの誕生

漢字が日本列島に伝わったのは西暦300年〜400年ぐらいと推測されている。

604年 十七条の憲法
652年 最も古いと思われる万葉仮名を難波宮跡から発見
712年 古事記 太安万侶
717年 遣唐使 吉備真備
783年 万葉集 大伴家持
804年 空海が遣唐使として中国へ

漢字が伝来して数百年のあいだ、漢字をそのまま中国語読みすることからはじまり、音仮名、訓仮名へと利用の仕方が発展してきた。
平安時代になってから、漢文を読む工夫から「カタカナ」が作られ、使われるようになったと言われている。

奈良時代の人たちは漢文を読むために工夫を重ねた。 私達が漢文の勉強で習った「✓」や「一」「二」などの「返り点」を想像すれば良いとおもう。
日本語で使う「こと」「を」など補うために、「ヲコト点」というものを漢字の四隅に打って、それがわかるように工夫された。
さらに日本語の活用や活用語尾をあらわすのには、「ヲコト点」という記号だけではたらず、万葉仮名をつかうようになった。 しかし万葉仮名では字数が多すぎて書ききれない。そこから万葉仮名の一部を用いて済ませてはどうか、そういう方法があみだされたようだ。

上の写真は「成実論」(828年)といわれる仏教論書で使わている「カタカナ」の一例である。

 

カタカナを使って漢文を読むことがすすみ、漢字を書くときにカタカナも使った文書が発見されるようになる。

つまり文章全体を「漢字とカタカナ混じりで書く」という形態がでてきたのである。これが「漢字カタカナ混じり文」の誕生である。

左の「平家物語」も「漢字カタカタ混じり文」で書かれている。漢字と「カタカナ」の相性は言いようで、この書き方は公文書などに引き継がれれいく。

 

 

 

824年 「東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゅもんこう)」 
      カタカタが使われた最も古い例と言われている。
828年 「成実論」 ヲコト点、カタカナが使われている。
835年  空海亡くなる
851年 「金剛般若経讃述」書き込みにカタカナが使われている宣命書きがある。

800年代、9世紀を通じてこの方式が広がり、宗派や僧侶によって違っていた「カタカナ」の字体表記も統一化の方向へをすすんでいったと考えられている。
しかし「万葉仮名」のくずし方、取り出し方は時代や人によってさまざまだった。

「あいうえお」などをあらわす「カタカナ」や「ひらかな」にはいろいろな書き方があったようだ。
その状態は明治になるまで続き、1900年の「小学校令施行規則」によって、現在使っている形に統一された。

カタカナがどの漢字から変化してつくられていったかについても諸説ある。

上の写真は「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ(岩崎書店)」から引用したもの。

この写真は「光村の国語 広がる! 漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!(光村教育図書)」からの引用。
この2つの表を見比べると、
カタカナの「二」の元字として「二」と「仁」、「マ」の元字としては「末」と「万」、「ン」の元字などに違いがあり、「カタカナ」の元になったという漢字も、このように諸説いろいろあることがよくわかる。

*今回のブログにはこの2冊の本を引用しながら説明をしてみた。

 

 

日本語表記の歴史 1

ある時、友人から「ハングルには日本語の『ん』にはないようだ」ということを聞いた。私はハングルには詳しくはないので、ハングルというよりも「日本語の『ん』はいつ頃からあるのだろう?」という疑問が先にわいてきた。

図書館で調べてみると、日本語の歴史に関してたくさんの本があることにびっくりした。左の本がそのうちの一つ。
山口謠司(やまぐち ようじ)さんの本が多く見つかった。

・日本人が忘れてしまった日本語の謎 (日文選書)
・「ひらがな」の誕生 (KADOKAWA )
・日本語の奇跡ー「あいうえと」と「いろは」の発明 (新潮社)
・日本語にとってカタカナとは何か (河出書房新書)
・てんてんー日本語究極の謎にせまる (角川選書)
・んー日本語最後の謎に挑む (新潮社)

こんなにまとまって日本語の歴史について本を読んだことはなかった。

これらの本を読んで、空海(弘法大師)の果たした役割がよくわかる。また漢字が伝わるまで、現在日本とよばれているところに住んでいた人たちが、自分たちの考えや気持ちを伝えるための文字がなかったこと、そして伝わってきた漢字を使いながら現在の日本語へと発展させていった、時間をかけたすごい努力に感心した。

左の本の「仮名の発生」という章が大変興味を引いた。

私達は(私だけかもしれないが)、「いつ、どこで、だれが」ひらがな・カタカナを発明したのだろう?と簡単に思いがちで、クイズの答えのように「はい、西暦〇〇年、〇〇県のどこそこの〇〇という人が作ったんですよ!」と回答があるだろうと思う。

ところがそんな命題は成立しないと強調されるのが左の本の著者の今野真二さん。

「誰が作ったのかという問いそのものが、仮に誰という答えを得たとしても、それが正解であると証明できない問いであることはいうまでもなく、また答えの推測もできないような問いであることは明らかなことだ。いったいどういうことがわかれば答えられるのだろうか。この問いは修辞的な問いとしてしかなりたたないのではないだろうか。・・・略・・・言語は一定の社会集団に共有されて使われる。だから言語に関して誰かが何かを決めるということはまず考えない。この語は誰が作ったのか、この漢字は誰が作ったかは、いずれの問いにも何らかの条件下でなければ問い自体が有効ではないし、もちろん答えを得ることは難しい。」

こんな調子で私の安易な考えを蹴飛ばしていく。

カタカナが漢字の一部からできていることは、小学校のときにならった。ほとんどの人がそうだと思う。
でもそれがどうしてわかるのか。どんな証拠があるのか。
そんな当たり前と思っていたことを丁寧にこの本は説明している。

「ウ冠の漢字はたくさんあるのに、なぜ『宇』とわかるのかといえば、『干』(宇という字のウ冠の下の文字のこと)という字形の片仮名の「ウ」があるからだ。これでもわかりにくい言い方かもしれない。
片仮名の「ウ」が書かれていることが予想される箇所に「干」と書いてあることがあるので、「干」もカタカタの「ウ」であることがわかる、ということだ。
「干」は単独でも「ウ」という発音をもっているが、「漢字の部分を採ったもの」が片仮名だから、「干」は部分でならなければならない。となると、「宇」から採られた、ということになる。
片仮名の「ウ」は、10世紀から12世紀頃までは、いかにも「宇」から採りました、という漢字で、3画目は短く書かれている。しかし室町以降は3画目が長くなっていることが指摘されている。」

上の「宇」から「ウ」までの字形の変化をみると、その事がよく分かる。(この字形の変化は、「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史① 古代から平安時代 書き残された古代の日本語(筑摩書房)」から引用した。

このような「ひらがな、カタカナの五十音図」と「元の漢字」の表は、国語の教科書などにものっていたような気がするが、一つ一つ元の漢字を特定していく調査と証拠がためのために、何人もの研究者の努力があったとは、今まで気が付かなかった。

いわゆる「五十音図」とよばれるものは、平安時代に遡ることができるそうだが、私の小学校の教室に貼ってあったあの「五十音図」の歴史は新しいそうだ。「カタカタの五十音図」は明治30年(1900年)の文部省小学校令から、「ひらがなの50音図」は戦後になってから、昭和22年(1947年)からだとは知らなかった。
時代をさかのぼってもう少し調べてみたい。