なぜ「ゑ」は使われなくなったの 1

図書館で「堺市立図書館だより ゆずりは」という機関紙がおかれていた。
そのなかに左の記事「なぜ『ゑ』は使われなくなったの?」があった。
大変興味を引く記事なので、その記事に紹介されている参考図書をもとに勉強することにした。そういえば最近『ゑ』というひらがなを見ることないことに気づいた。私の祖母は「としゑ」さんだったので、年賀状には小学校の時から書いていたが、それ以外に使うことはなかった。
「ゆずりは」に紹介されていた「日本国語大辞典」を調べることにした。この本は禁帯出なので、南図書館に行くことにした。
「日本国語大辞典」には次のように書かれていた。「ゑ」の部分を抜粋する。

「・・・このかなは、現代かなづかいではもちいられない。現代標準語の音韻では、『え』と同じく、e にあたり、発音上『え』との区別がない。
 外来語を表すとき、we, ve に「ヱ・ヱに濁点(私のパソコンでは表記できない)」を当てたことがある。『ヱルテル・ヱに濁点ルレエヌ」など。
 『ゑ』はもとw の子音をもった we を表した。鎌倉時代などには語頭以外の「へ」が、子音を有声化することによってこれに混ずるようになり、これらの「ゑ・へ」がさらに「え」の発音との区別を失って、「え・ゑ・へ」の間にかなづかいの問題を生じた。室町時代末にはこれらの発音は je に統一されたようであるが、 we が Je に併合された経過は明らかでない。現代かなづかいでは、すべて「え」におきかえられることになった。歴史的かなづかいで「ゑい・ゑひ」「ゑう・ゑふ」と書かれたものは、現代かなづかいでは「えい」「よう」と書く。現代の方言の中で、奄美、沖縄の方言には、「え」と「ゑ」の区別の反映が見られる。
 平安時代には、「化」「華」「源」のような漢字の音は、「くゑ」「ぐゑん」と書かれた。
 「ゑ」の字形は、「恵」の草体から出たもの、「ヱ」の字形は、「慧」の中画という見方もあるが、「恵」の草体で、末筆の形を固めたものを思われる。・・・・」

*「日本国語大辞典」には万葉仮名、カタカナの字形が紹介されているが、「ひらがな」の部分だけを紹介した。

現在使われている「50音図」はいつごろ作られたのだろう。 岩波新書「百年前の日本語ー書きことばが揺れた時代」(今野真二著)を見てみよう。(P129〜130)
「仮名」に関係する部分を抜き出すと、

「二、1900年のできごと
小学校令施行規則
 さてそれでは、改めて明治期の日本語に話題を戻して、この時期の仮名字体についてみていくことにしよう。この時期に、仮名字体に関して、決定的といってよいようなことがあった。
 明治33(1900)年8月21日に、文部省令第14号としてだされた「小学校令施行規則」の第1章「教科及編成」の第1節「教則」の第16條には
小学校ニ於テ教授二用フル仮名及其ノ字体ハ第1号表二、・・・省略・・・」。ここでは仮名に関わる第1号表を話題としたい。『改正小学校令』(明治41年、修文館刊)から第1号表を図31として次に掲げる。

 「ヤ行が『やいゆえよ」、ワ行が「わゐうゑを」となっており、「ん」が平仮名の中に含められている。
またガ・ザ・ダ・バの濁音行4行、半濁音であるパ行が平仮名・片仮名ともに独立した行としてたてられている、など興味深い点があるが、今は仮名の字体に話題を絞る。
 この「第1号表」に掲げられた、平仮名・片仮名の字体は現在使用しているものと同じものである。
 明治33年以降、『第1号表』の仮名字体が小学校で教えられ、次第に標準的な仮名字体として定着していくことになる。
・・・略・・・・

ひろまる統一規則(P130〜131)
 しかし、「第1号表」が図31のような形で示されたことはある程度の根拠、実績があったと見るのが自然であろう。つまり教育の場に限らず、一般的に見ても、明治33年頃には、「第1号表」に載せられている仮名字体に収斂しつつあったと想像することができる。すなわち、仮名字体の統一は徐々にではあっても、確実に進んでいったものと思われる。・・・略・・・」

 

この本によると、
ヤ行が『やいゆえよ」、ワ行が「わゐうゑを」
となっている50音図は明治33(1999)にだされた「小学校令施行規則」に端を発することがわかった。
つまり明治33年から小学校では「ゑ」の字体が教科書でつかわれていたのである。
それがいつの時点で、消えていったのだろう。
もう少し本を調べてみることにしよう。

 

 

 

漢字ミュージアム

ここ「漢検 漢字博物館・図書館」は「漢字ミュージアム」とも呼ばれているところ。
甲骨文字の展示もあり、私は初めて実物の甲骨文字を見た。写真撮影禁止なので、ポスターの写真を撮った。思ったより小さく、何を使って骨に刻んだのだろうか?とおもう。

さてパネル展示は「カタカナ・ひらがな」にすすむ。

1、カタカナ・ひらがながみられました。

漢字だけを使って、工夫して日本語を書いていた日本人は、9世紀頃に独自の文字を作り出しました。それがカタカナとひらがなです。ともに、漢字を簡単にして作り出した日本語専用の文字で、はじめは「これは漢字の画を省略したもの」「これはカタカタ」「これはひらがな」と区別できるものではありませんでしたが、それぞれ独自に発展して、漢字とは異なる、ひとまとまりの文字として使われるようになりました。

2,漢字を「はぶく」ことから
       カタカナが生まれました。

9世紀前半頃から、漢文で書かれたお経を日本語として読むための漢字や符号が、紙の余白や漢字の四隅に書かれるようになります。お経の行と行との間の狭いスペースに、なるべく早く書くために、漢字の偏や旁(つくり)を省きました。こうして筆画をはぶいて書いた字を、「省画仮名(しょうかくがな)」「略体仮名」と呼びます。この省画仮名が、現在のカタカナのもとになりました。

カタカタは漢字の一部を取り出して作られました。

カタカナが芽生えた9世紀前半には、漢字の偏や旁をあまり省略せずに書き込んでいました。
それが、漢字やひらがなと見分けがつくようにと次第に形が変化していき、いっそう簡単なものになっていきました。
主に、下記はじめの一、二画目を使ったり(「ア 阿」、「イ 伊」など)、終わりの数画を使ったり(「エ 江」、「ヌ 奴」など)して、漢字の一部だけを取り出すことで、省略しました。

カタカナは、漢文を読む時の補助記号として生まれたものでした。つまり、あくまで漢字が主で、そこにカタカタでその漢字のよみがなや助詞(「て・に・を・は」など)、助動詞(「む・たり」など)、活用語尾(書くの「く」など)を補ったものです。
漢文訓読のときには、カタカナ以外にも、日本語として漢文を読む時の順番を示す「返り点」や、漢字の周りなどに点を打つことで読み方を表す「ヲコト点」と呼ばれる記号が用いられました。

平安時代末期〜鎌倉時代にかけてカタカナがたくさん使われだしました。

ひらがなとは違って、カタカナはひとまとまりの文字として独立してからも、多くの場合、漢字と交ぜて使われました。
それは、カタカナが漢文を読むために記号から生まれたものだからです。
漢字とカタカナを交ぜた、「漢字カタカタ交じり文」は、鎌倉時代を通じて、主に学問や仏教関係の書物を書く時に用いられ、日本語の散文(和歌や漢詩以外の文章)を書く時の文章様式として、広く使われました。
(左は今昔物語集から。助詞や助動詞をカタカナと小文字で2行に分けて書いている)

3,漢字を「くずす」ことから
      ひらがなが生まれました。

万葉仮名として使われている漢字を、早く楽に書くため、形をくずして書くようになりました。これがひらがなの起源です。 漢字の形をくずすということ自体は、奈良時代からなされていたのですが、くずされた文字を「ひらがな」という、漢字とは別の文字だと意識して人々が使い始めたのは、9世紀末頃だと考えられています。

万葉仮名を、早く書くためにくずしたものを「草仮名(そうかな)」といいます。
ひらがなは、この草仮名をさらにくずして、漢字とは別の文字として使ったものです。
草仮名とひらがなとは、はっきりと区別できるものではありませんが、『源氏物語』や『宇津保物語(うつぼー)』の記述から考えると、平安時代の人は「さう=草仮名」と、「かんな・かな=ひらがな」とを使い分けていたようです。
貞観(じょうがん)9年(867)に、讃岐国の戸籍帳に書かれたメモには、万葉仮名からひらがなに変化する途中の草仮名が使われています。
・・・・・略・・・・・

日本独特の文化「国風文化(こくふうぶんか)」が盛んになり、文学にもひらがながつかわれるようになりました。

 10世紀になると中国文化の永享が薄くなり、日本独自の文化が盛んになりました。これを「国風文化」といいます。この時代には、ひらがなを使って多くの優れた文学作品が書かれました。ひらがなは細やかな感情を表すのに適しているので、日本独自の優れた作品を記すことができたとも言われています。 漢字を使って日本語を書くと、どうしてもことばが硬くなり細やかな思いや感情が表現できません。この時代から、文学に使われる文字も、日本独自のものとなりました。

女流文学作品の文字として
ひらがなが盛んに使われるようになりました。

平安時代中期には、女性たちがひらがなを使って、盛んに物語や随筆、日記といった文学作品を書きはじめました。
女流文学があまりにも有名なので、女性しかひらがなを使わなかったと思いがちですが、実は男性もひらがなを使っていました。
ひらがなのことを「女手(おんなで)」と呼ぶのは、女性はひらがなしか書かなかったからとも、また、ひらがなそのものではなく、ひらがなを数字続けて(連綿させて)書いたものを「女手(おんなて)」と呼ぶのだ、ともいわれています。
(上の写真は池田本とよばれ、「桐壷」の冒頭の部分。)

*ここのパネルの記述は少しことば足らずだと私は思う。
平安時代の女性がひらがなしか使えなかった、女性が漢字を使うことは(男性が、当時の社会が)よしとしない雰囲気があったのではないか、と私は思うからだ。
女性は漢字を使わなかったのか? そうではないと思う。上の源氏物語は漢字かな交じり文で書かれている。紫式部が源氏物語をひらがなだけで書いたのか、漢字かな交じりで書いたのか、はたまた万葉仮名だけで書いたのか、私にはわからない。写真のような写本を見ると、漢字かな交じりで書いたのではないかと私は思う。

パネルはさらに変化する日本の文字について知らせてくれるが、少し時代を飛ぶことにする。

 

 

 

 

日本語表記の歴史 5

「ひらがな」の誕生

「カタカナ」は漢文を読む工夫から出来たことはわかった。
漢文を読むために、日本語の注や読みなどを万葉仮名を利用していたが、漢字の一部を利用する「カタカナ」に発展していったと理解できる。

この当時の筆記用具は筆だったことを忘れてはならない。現在のように鉛筆やボールペン、万年筆はなかった。すべて墨と硯と筆で文字は書かれた。だから漢文の四隅に万葉仮名を使って読みや注釈を書き入れることが面倒だったことは想像できる。

漢字の書体の変化は左の写真のように変化した。
今から2200年ほど前、秦の国がそれまであった書体を「小篆(しょうてん)」という書体に統一し、さらにより書きやすい「隷書(れいしょ)」がつくられた。
「隷書」を早く書くために、「行書」「草書」という書体がつくられた。
私達が普段よく使う「楷書(かいしょ)」は一番あとからできた文字で、「隷書」から別れたものだと言われている。
楷書が一番あとから出来たとは知らなかった。私は「楷書」が「行書」や「草書」に変わっていったものだと思っていたら、そうではなかったのだ。

「草書」は平安時代には使われていたようで、万葉仮名が草書で書かれるようになった。

この「草書」が「ひらがな」の起源だと言われている。

「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ」(岩崎書店)によると、

「平仮名のおこり
『万葉集』の作られた奈良時代の、次の平安時代(「794年〜1191年)になると、漢字はさらに広く使われるようになり、早く書くために『草書体』といって、字形をくずした書き方が行われるようになりました。この草書体から平仮名が生まれました。・・・・・平仮名の字体はたくさんありましたが、1900年(明治33)年に現在の形に統一されました。」とある。

「広がる!漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」(光村教育図書)によると、
「平仮名は万葉仮名の形を崩した文字、片仮名は万葉仮名の一部を取り出した文字です。くずし方や取り出し方は、時代や人によってさまざまでした。そのため、同じ「あ」を表す平仮名・片仮名にもいろいろな書き方がありました。
その状態が明治時代まで続き、1900年に「小学校令施行規則」が出されてようやく、平仮名・片仮名の形はわたしたちが現在使っている形に統一されました。そして、教科書が統一された形の文字でつくられました。・・・」とある。

(平仮名の成り立ち・・「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ」より)

(「広がる!漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」(光村教育図書)より)

2冊の本を比べてみると、平仮名のもとになったという漢字は同じものが紹介されている。しかしそのくずし方は色々とあることがわかる。