鶉野飛行場跡と紫電改8

これは実物大模型、レプリカである。  

「実物大模型は全長9.37メートル、翼幅11.99メートル。巨大防空壕や爆弾庫、敵機を迎え撃つ対空機銃座など鶉野飛行場跡周辺の戦争遺跡を整備して平和学習などに活用を目指す加西市が、こうした遺跡群のシンボルとして約1500万円かけて製作、2019年6月から一般公開してきた。(ラジオ関西トピックス ラジトピより引用)」

上の記事は加西市のホームページからの引用。

紫電改が収められている備蓄倉庫に操縦席の実物大模型が置かれていた。 私も体験してみた。
「狭い」
頭部をささえるところは木製だったのに驚いた。そして
私が予想していたよりも狭かった。
現在の若者では座れないのではないかと思うくらいだった。

紫電改の性能は、
最高速度644km
実用上昇限度 11250m
航続距離 1715km
操縦席の前には計器がいっぱい並んでいる。
鶉野飛行場では約30時間の訓練で実戦に参加していったそうだ。そんな短い時間で戦闘機を操縦できるものであろうか。当時の兵士の過酷な訓練と巨大な圧力を感じた。

施設の人が詳しく説明してくれた。
左の写真は紫電改の20ミリ機銃の弾。実物大と言っていた。戦闘機の弾丸を見るのは初めてだ。
紫電改の展示場の中の資料販売で、写真のような漫画が販売されていた。
紫電改の漫画といえば、ちばてつやさんの「紫電改のタカ」が私の頭にあったが、現在連載中の漫画というのでびっくりした。ここで第1巻だけ買って帰ったが、家に帰ったから第5巻を買った。表紙が紫電改の操縦席である。そこには紫電改の弱点ということを説明する場面があった。

「紫電改の航続力は発動機全開では増幅(機体の下につけた燃料タンク)なしで30分、、、20ミリ機銃も各200発の弾丸打ちっぱなしでは24秒でしまいだ。」
「俺達の守護神紫電改は30分しか戦えんのか…」

紫電改は20ミリ機銃を4挺もっている。内側が各200発、外側が各250発で計900発。一斉射撃すると30秒ほどで撃ち尽くすということだろう。また紫電改の積んでいた2000馬力のエンジンは、ゼロ戦に比べて馬力はあっても燃費が悪かったそうだ。

漫画の表紙絵にあるようなメーターや計器が所狭しと並んでいる操縦席に座ってみて、
「戦争がない世界になってほしい」とつくづく思った。

紫電改が展示されている備蓄倉庫の後方に新しい施設が建設されている。
加西市がすすめている「地域活性化拠点施設 sora かさい」である。
そこには備蓄倉庫にある紫電改やこの飛行場で訓練に使われていた「九七式艦上攻撃機」実物大模型が展示され、さまざまな歴史資料や動画で飛行場について多面的に紹介されるそうだ。

上の写真は鶉野平和祈念の碑苑

加西市のホームページに次のように紹介されている。

※平和祈念の碑苑は移設されました。 平成11年10月、地元の関係者、旧軍関係者、有志等により、「平和祈念の碑」が建立され、地域の平和と安寧を静かに見守り続けています。
令和3年8月、鶉野飛行場滑走路跡の北端に位置するsoraかさいと備蓄倉庫の間のエントランス広場に移設されました。
(写真も加西市のホームページより引用)

ボランティアガイドさんが、「いろんな考え方があると思いますが、戦争でなくなった人たちに手をあわせてください」とおっしゃった。
私も思わず手をあわせた。
「地球上に戦争のない時代はなかった。」という言葉をずっと昔に聞いた。
今も世界の各地で起こっている戦火。
歴史に学び、想像力をたくましくし、創造の力で平和な世界を築き上げたい。
あたりまえだけど、そんなことを考えさせられた鶉野飛行場跡見学ツアーだった。

 

 

 

 

鶉野飛行場跡と紫電改7

畑の中に戦闘機の姿が。近寄ってみよう。

ここは飛行機を敵の目から隠す無蓋掩体壕(むがいえんたいごう)。今の言葉でいうとシェルター、覆いのないシェルターというところか。
鶉野飛行場では紫電などの戦闘機がこの無蓋掩体壕によって、攻撃の目から隠されていたそうだ。
写真の飛行機はアメリカ海軍機のSNJ と呼ばれていたもの。海上自衛隊が引き継ぎ、航空自衛隊ではT-6 ともよばれた練習機。鹿児島県鹿屋航空基地史料館から貸与されているそうだ。

無蓋掩体壕のそばに、96式25ミリ対空機銃が置かれていた。
説明によると、有効射高は3000m前後、
最大発射速度230発/分、実用発射速度130発/分。
5名の要員によって操縦されていたそうだ。
写真の機銃は実物ではなく、映画「男たちの大和」の撮影に使われた実物大の模型。
東映太秦撮影所に保管されているものを借用しているそうだ。
鶉野飛行場跡にあった機銃座にも、このような対空機銃が設置されていたのだろう。弾倉は15発入りの箱型弾倉。上の写真の黒いカートリッジみたいに見えるもの。
25ミリ弾がなくなったらカートリッジ毎取り替えるそうだ。1分間に130発打つためにはこの弾倉が9箱はいる。弾がなくなったらこの弾倉を外して新しい弾倉を差し込む。休む間もない作業だ。素晴らしい性能の武器でも最後は人の手にたよる。兵士も使い捨てのように思える。

この地図は加西市のホームページからの引用。 戦時中の基地周辺の地図だ。
地図の下の方に法華口駅があることがわかる。
加西市のホームページには、この鶉野飛行場跡について次のように説明している。

「鶉野飛行場跡(姫路海軍航空隊鶉野飛行場、川西航空機姫路製作所鶉野工場跡)は、第二次世界大戦の戦局が悪化しはじめた頃、優秀なパイロットを養成するため、昭和17年に着工し、昭和18年に完成した旧日本海軍の飛行場跡です。

飛行場の建設に伴い、昭和18年10月には姫路海軍航空隊が開設され、航空整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務等が編成されました。また、飛行場の西南には、川西航空機姫路製作所鶉野工場があり、「紫電」「紫電改」など 500機余りの戦闘機が組み立てられました。

当時の姫路海軍航空隊では、全国から集められた17歳から25歳までの若者ら500余名が30時間の飛行訓練を受け、全国各地の航空隊へと配属されていきました。昭和20年には、教官と練習生による神風特別攻撃隊「白鷺隊」が編成され、終戦までに63名の尊い命が失われました。
今は、飛行場跡は加西市が管理しており、一部は神戸大学大学院農学研究科の敷地として利用されています。」

戦後基地後の処理には多くの人たちが協力し、緊急開拓事業がおこなわれ農地に戻していったが、非常に困難だったそうだ。
この周辺には井戸も少なく、遠くから水を運んでいたとボランティアガイドさんが言っていた。私達が見た来たところには、広い工場用地に使えそうな土地が、空き地として広がっていた。トマトの人工栽培の巨大なビニールハウスが連続して建ち並んでいたのが目についた。

 

 

 

鶉野飛行場跡と紫電改6

公民館で少し遅めの昼食の弁当を食べる。
さあ、鶉野飛行場跡だ。 とにかく広くて長い。 長さ1200m、幅60mの滑走路が当時のまま残っている。(地下鉄の梅田駅から淀屋橋駅までが約1300mといわれている。歩くとかなり長いね)

上の写真は戦争中造られた滑走路のコンクリートの上を歩いているところ。
左の加西市教育委員会が作った資料「加西・鶉野飛行場跡(旧姫路海軍航空基地)」の表紙に滑走路跡の写真が使われている。
この写真の滑走路の両側が少し灰色になっている部分が当時のコンクリートらしい。
真ん中の新しく見える部分は、払い下げられた時に航空ショーをししたが、小型飛行機が発着できるようにと強化補修したコンクリートの部分と説明があった。
しかし1200mのコンクリートは70数年の歴史を感じさせる。私は御堂筋のように完璧に舗装されたものを想像していたが、そうではなかった。
加西市はこの鶉野飛行場跡についての資料をたくさん作って公開している。
子ども用のものもあった。

この鶉野飛行場跡はかつては防衛省が管理していたが、2016年6月に加西市に払い下げられた。
加西市は戦争遺跡を保存し、平和学習のために活用しようとしているようだ。

これは「平和学習プログラム」と題した資料の一部。
体験学習例も紹介し、積極的に戦争体験をアピールし、平和の大切さを感じ取らせようとしているようだ。

これは滑走路跡の横の広場い置かれていたローラー。 滑走路の作成や整備用に使われたらしい。本物である。
こうした本物、実物が手に取れるように、さわれるように、そして自分の足で感じることができる戦争遺跡が保存されていることはたいへん教育的だと思う。
そしてガイドボランティアさんの努力がそれを可能にしているのだろう。

大きなローラーのそばに「広島被爆アオギリ三世」と書かれた標柱のある木が植えられていた。
「鶉野平和祈念の碑苑保存会・加西市」と書かれていた。
この「鶉野平和祈念の碑苑」は、このローラーのある付近に建てらていたのだが、現在は「紫電改」の置かれている備蓄倉庫のそばに移転している。
私達が「紫電改」の見学に備蓄倉庫に行った時に、その記念碑をみることができた。
ここから飛び立った特攻機の乗員たちは、広島や長崎に原爆が投下されて数十万人の市民が犠牲になることは予想もしてなかっただろう。特攻機と原爆、そして平和、考えさせることが多い鶉野飛行場跡だ。

紫電改を見る前にもう一つの戦争遺跡、機銃座を見に行くことのなる。
この滑走路は写真のように自由に入れないようになっている。ロープが張られているところもあった。私達が滑走路跡に到着したとき、加西市の車がやってきて「中を歩いて通ってもかまいません」とガイドボランティアさんに声をかけていた。
加西市の管理下にあるのだなあと実感した。