巨大古墳 黒姫山古墳

巨大古墳の時代を黒姫山古墳から知る

9月16日金曜日、堺市立みはら歴史博物館で、「シリーズ講座みはら学のすすめⅡ 第1回 巨大古墳の時代を黒姫山古墳から知る」という学習会があった。
講師は鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也さん。
橋本さんは堺市美原区の生まれの人。この黒姫山古墳についての本も書いている人。
上の写真はGoogleマップからの引用。下に黒暇山古墳。上に堺市立みはら歴史博物館がある。
黒姫山古墳は、堺市のホームページによると、「全長114メートル、前方部幅65メートル、前方部高さ11,6メートル、後円部径64メートル、後円部高さ11メートルの二段築成の前方後円墳」とある。百舌鳥古墳群と比べても大きな古墳であることがわかる。

上の写真は当日配られた資料からの引用。 1948年1月18日の朝日新聞大阪地方版に載せられた記事。
橋本達也さんの書かれた「巨大古墳の時代を解く鍵」(新泉社)という本によると、

「・・・この古墳はもともとクロマツでおおわれており、そのため戦時中に松根油(しょうこんゆ)を採ろうとして墳丘が掘り返された。結果、前方部墳丘で石室が露出するに至った。そして、1954年5月5日、古墳の南東にある集落でこの石室から持ち出された鉄製甲冑があることに、周辺を踏査で訪れていた森浩一氏が気づいた。・・・」

そして1947年12月22日から大阪府の調査がおこなわれ、前方部石室から調査を開始し、埴輪列、墳丘調査が行われた。1948年12月23日から翌49年1月7日までの第2次調査で墳頂の上段埴輪列、後円部墳頂の方形埴輪区画などの調査がされている。

戦後の黒姫山の写真が上。当日の資料よりの引用。畑の真ん中に古墳があることがよく分かる。 戦時中は古墳の松が切り倒せれたことからわかるように、出入り自由だったのだろう。 江戸時代後期には石室が暴かれ、装飾品などのものはすべて取り去られていたようだ。

現在は付近に高速道路が走り、その建設のための調査も進められた。1990年には周辺が整備され史跡公園になっている。

左は黒姫山古墳周辺を歩いている時に見える埴輪列。
古墳が作られた当時は、現在のような木々もなく、古墳の周辺に置かれた埴輪列がよく見えたのだろう。
昭和28年の古墳の写真からわかるように、周辺には何も大きなものはなく、田畑がただ取り囲んでいるだけである。
遠くからこの古墳がよく見えたことが想像される。また千早赤阪村に近いことから、城塞などに使われたことも想像されている。

みはら歴史博物館には、黒姫山古墳から発掘された埴輪や甲冑が展示されている。 甲冑24セットは日本最大のもので、5世紀中葉から後葉のものといわれている。

橋本達也さんの話によると、
 黒姫山古墳自体は5世紀、古墳時代中期のものといわれている。 古市古墳群、百舌鳥古墳群、大仙陵古墳と同時代のもの。
甲冑が埋められた時期は5世紀後葉とみられ、古墳が作られてから数十年後に甲冑は埋められたと考えられている。
この甲冑は軍事に直結する装備ではなく、儀礼的なものではないかということだ。

古墳の多くは宮内庁の管轄にあり、古墳の調査発掘はなかなかできない。そんななかで、黒姫山古墳のもつ情報は大変大きい。
橋本達也さんは「黒姫山古墳の情報は、断片的な巨大古墳の情報をつなぐ鍵、巨大前方後円墳の実像を理解する上での基準資料」と言っている。

美原の地にはたくさんの歴史資料があるようだ。このような「みはら学」通して知ることはたいへん面白そうだ。