大阪城の歴史を歩く2

今回のフィールドワークは、パンフによると
「今でも痕跡がわかる、大坂冬の陣に際し豊臣方が築いた大坂城総構(そうがまえ)の空堀(からほり)跡を訪ねます」
というもの。

そもそもここで言う大坂城(左のパンフにある『大阪城』と言う言葉も)は、豊臣秀吉が築いた「大坂城」のこと。
現在私達が見ている大坂城は(左のパンフの写真の大阪城のこと)、江戸時代に徳川が作ったもので、豊臣秀吉が築いた大坂城とは全く別物である。

講師の松尾さんは「埋め殺された大坂城」と表現されていた。
図にあるように、完全に壊された天守閣や堀や城壁は、高さ11mぐらいの土の層によって埋められている。その新しく作られた地盤の上に現在の大阪城、天守閣、堀、石垣などが全く新しく作られている。また天守閣の位置も豊臣秀吉が築いたものとは全くちがっている。

さて、フィールドワークのテーマである「大阪城総構(そうがまえ)」とはどういうことなのだろう。

上の写真は、下記のホームページからの引用。

超入門! お城セミナー第88回【歴史】城下町はどうやって敵から守られていたの?

ttps://shirobito.jp/article/1056

上記のイラストを見てわかるように、城下町ごと城を守る構造物のことである。

当日もらった講師の松尾さんの資料によると、
「大阪城が築かれている上町台地は、泉北から続く丘陵の北端部。
北と東西が急激に低くなっている。
北は大川、西は大阪湾の海岸低地、東は河内平野があり幅の狭い高台。
文禄3年(1594)総構えの建設。北は大川を利用、西は東横堀川を掘り、東は猫間川を改修し、南に空堀を掘り大阪城の防御ラインとする。」
上の図は当日の資料より。(豊臣期の上町台地の推定地形図)

上の地形図の右側に猫間川が流れている。右(西)にほぼ直角に曲がっている付近が環状線玉造駅北側。
私達は空堀の埋め立てた部分を歩き、三光神社に向かった。

ウィキペディアによると
「・・・鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出丸である「真田丸」が置かれ、大坂の陣ときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。」
講師の松尾先生の資料によると、「『摂津名所図会』(1798年)の説明には、真田の抜け穴の記載はない」そうだ。
三光神社にある陸軍墓地は工事のため見学することはできなかった。
三光神社から真田山小学校はけっこう高い場所に建っている。真田山小学校の入り口は急な階段が続き、子どもたちや親御さんにとっても大変だなあと思う。それくらいにここは高台だったのだ。

上の左の写真は、右側に真田山小学校、正面に真田山スボーツセンターが見える。
右側の写真が「真田丸」についての顕彰碑。この顕彰碑の後ろは大阪明星学苑のグランド。ここに「真田丸」があったことは多くの学者の意見が一致しているそうだ。

明星学園から長堀通、大阪女学院を見たところ。
正面の学校風の建物が大阪女学院。その前に横断歩道らしき白線が見えるのが長堀通。急な急斜面になっているのがわかる。長堀通が空堀の跡なのだ。

上の地図に青い線で東西に書かれているのが空堀の跡。丸く舌のような形が真田丸の跡地と推定されている。

左の写真は清水谷公園付近の交差点。
正面まっすぐの道が空堀のあったところ。
木々の緑が見えているのが清水谷公園。
この辺は地形に沿って空掘がつくられたそうだ。舗装され道路になって空掘の跡が残っている。地形図はうそをつかないという話を聞いたことがある。

 

上本町3丁目。「空堀ど〜り商店街」が見えてきた。
どうして「空堀」にしたのだろう。資料によると「上町台地は上町筋と谷町筋の間の上汐町通りが最も高く、東西方向の断面図がカマボコ状の台地。堀の底が同じ高さにならないため、水を貯めることができなかった。(だから)空堀となる。・・・上町
筋より西側は人工的に掘削した堀が続く。横矢を効かせるために屈曲が多い。上町筋から東側は清水谷の地形を利用しているため屈曲が少なく、横矢を効かせる場所がない。真田丸は、横矢もなく屈曲の少ない東側を防御するために築かれた。・・・・」
なるほど、空堀になった理由、真田丸が必要だったわけがわかる。

今も残っている空堀の底にあたる部分に入っていく。
左はその斜面がわかると思う。右は底に当たる部分。右側の石垣の高さに地面があり住宅が建っている。かなりの段差があることがわかる。
「空堀まちなみ井戸端新聞」が掲示板に貼られていた。「空堀のまちなみの歴史」を共有する取り組みが行われているようだ。

私達は上町中学校の前を通り(上町中学校も空堀の跡地に建てられたようだ。商店街より一段低い場所に建っていた)、桃園幼稚園がそばにある公園まで足を伸ばす。ここが解散地点となった。講師の松尾さんから大坂城と堀の歴史を振り返る話を聞く。
大阪城総構えの工事は文禄3年(1594年)に始まり、慶長3年(1598年)に秀吉の死去。
慶長19年(1614年)に「方広寺鐘銘問題」が起き、大阪冬の陣につながる。
12月20日に講和成立。堀の埋め立てが始まる。
慶長20年(1615年)大坂夏の陣。この時には大坂城の堀は機能しておらず籠城ができないため、城外での野戦となった。5月7日大阪城落城。豊臣家滅亡。
豊臣家の滅亡、大阪城の落城は、大阪惣構と空堀と大きくつながっていたことがよくわかった。豊臣秀吉の築いた城下町の町割りは、今も大阪市の地形として残っているのだなあと感慨深かった。