大阪城の歴史を歩く1

秀吉が建設した初期の大坂城下町跡をあるく

「よみうり天満橋文化センター」の主催で、「大阪城の歴史を歩く」という講座があった。
大阪にいながら大坂の歴史をきちんと学習していない私にとって大変魅力的なテーマだったので参加することにした。

秀吉が大阪城を作り、周りに広げていった城下町。ビルが建ち並んでいる現在からはとても想像できない。ガイドの松尾さんは大阪城天守閣の館長であったり、この周辺の発掘調査にも関わった人だからとても具体的なお話を聞くことができた。

上の図は江戸時代の天満橋付近。大川にかかっている橋、右から天満橋、中央に天神橋、左側に難波橋・中之島があるのがわかる。

現在の写真と比べてみると、私達の出発地点の京阪シティモール(旧松坂屋)は川底だったことがわかる。上の写真からわかるように大川がこの付近で大きく蛇行し、川の流れは上町台地を大きくえぐるように流れていた。

京阪モールから南へ移動し、上町台地側に移動したところから大川方面を望むと、急斜面が実感できる。
左の写真の中央奥に大川が流れている。
上町台地の端に来ているわけだ。
天満橋・天神橋付近は平安時代から大川河口の港町で、渡辺津(わたなべのつ)として知られていた。また京からの船が着き、熊野詣に向かう熊野古道の起点でもあったそうだ。

当日の資料「秀吉が建設した城下町」(松尾信裕)によると、
「天正11年(1583),秀吉は大坂に城を築くと同時に城下町も建設。城に近い場所に武家地を置き、その周辺に町人地を置く。
武家地の範囲は北が京街道、東が猫間川、南が内安堂寺通り、西が谷町筋。武家地は大名に広大な屋敷地を宛てがうために、広大な方格地割が作られている。今でも公的施設がある一体。今でもおよそ250m四方の地割がのこる。」

ここは府立労働センター(エル・おおさか)の東玄関側。
秀吉が大阪城を築いた頃の武家屋敷の跡。
左の石は当時の道の端。右側の正方形の石はここに屋敷の入口の門があったことを示している。桃山時代からこの道は道路として使われていたことがわかる。

エル・おおさかの中に入ると、このビルを建てる時に発掘調査をしているがそこで見つかったものの一部が展示されている。 皿や茶碗などの食器や日常品が並べられている。右の木簡には「たい四百さい入」とか「大ひらめ百十八」など書かれていて、武家屋敷ができる前は魚市場や商家があり、水上交通の拠点として繁栄していたことを物語っている。
このビルが建てられた1987年ごろは自社ビルや公的施設のビルが多く建てられ、その時に発掘調査がよく行われたそうだ。そうしてその時に発見されたものをビル内で展示することがある種のステータス、ブームとしてあったそうだが、現在は費用もかさむためそのようなことはなくなっていったいう。

場所は違うが上の写真は「扶桑道修町ビル」。そのビルの玄関ホールにも同じような展示ケースがある。この付近は大坂冬の陣、夏の陣(1614年15年)で焼け野原になったが、その当時のものが発掘されている。色もデザインも華やかのもので、当時の生活が豊かだったことが想像される。

高麗橋、淀屋橋方面の地割は「奥行き20間の短冊形地割」。その屋敷の典型は次の図のようになっている。

三棟だが一番奥は蔵があり、中庭がある。その具体的な姿がこれ。

ここは緒方洪庵の適塾跡。
適塾は見学に来たことがあるが、この立て方が典型的な町家の建て方とは知らなかった。
正面に入口を持ってきて、商売ができるようになっている。
大阪城周辺の町家はこの緒方洪庵の適塾のような町家がズラッと並んでいたのだろう。

ビルとビルの隙間。右の写真には小さなお店がその隙間にはまっているが、ここは大麻市の管理地。そのお店のシャッター前にマンホールの蓋が並んでいるが、ここに下水管が走っているということ。上の写真の右も左もビルの裏側画を背にしているように見える。これは秀吉の町づくりでつくられた背割下水(太閤下水)が今も生きているということだ。この隙間に下水管が走っている。この周辺はすべてそのように作られている。
駆け足で私のフィールドワークを紹介する感じになってしまったが、充実したフィールドワークだった。豊臣秀吉が作った城下町は今も生きているということだろうか。