大仙古墳で古墳体験4

長塚古墳

昼食をとって長塚古墳に行く。 ここの古墳はJRの線路沿いにあるので、そばを歩くことはあるが、金網があるので「ああ、ここは古墳なんだなあ」と思いながら通り過ぎるだけだった。ここが世界遺産の古墳だとは思わなかった。

この長塚古墳は民家に取り囲まれている古墳。
掲示板の地図を拡大したのが左の写真。
写真のように前方後円墳だ。
古墳に登ってみると、みごとに前方後円墳だということが実感できる。後円部の高いところから方円部をみると、くびれと斜面がよく分かる。
掲示板によると、
墳丘の長さは106.4m
後円部径は59.4m
後円部高は9.2m
前方部幅は75.2m
前方部高は10.6m
時代は5世紀中頃から後半

もらった古墳カードをみると、民家に囲まれていることがよく分かる。
古墳カードの裏面に書かれた記事によると「地中レーダーの成果から、後円部中央に石で築かれた埋葬施設の存在が推定されています」ということだ。
古墳の説明をされた人の話によると、「石で築かれた施設ということは、だれか人が埋葬されたと推定されます。その他の陪塚では石の施設ではなく木製のものではなかったかと思われます。そうするとこの長塚古墳は副葬品を収めた陪塚ではないと考えられますが、それはこれからの調査と研究にまかされています。」というような説明があった。陪塚でもそれぞれの歴史と特徴があることがわかった

仁徳天皇陵が建設されたのは5世紀初期から半ばと言われている。
今回回った古墳を時代順に並べると、寺山南古墳が5世紀初頭、旗塚古墳・収塚古墳が5世紀中頃、長塚古墳が5世紀中頃から後半となる。

考古学的には、履中天皇陵→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳ーいわゆる仁徳天皇陵の南側にある古墳。世界遺産の一部)の順になるそうだが、宮内庁の見解とは異なる。

さて、大仙公園には今日回った古墳以外にもたくさんの小さな古墳がある。
長塚古墳の近くにあった古墳を紹介する。

鳶塚古墳(とびづかこふん)。5世紀後半といわれている。家形埴輪、盾形埴輪が発見されている。

原山古墳。5世紀後半と推定されている。副葬品として鉄製の矢じり73本と、鉄製の斧(おの)、土師器高坏(はじきたかつき)が発見されている。

上の写真は堺市博物館にあった建設当時を予想して描かれたものをコピーしている。
当時の海岸線は、今のJR阪和線ぐらいにあり、大変海が近かったそうだ。
宋の国からやってきた使節が船上からこの古墳群を見たのだろうと言われている。
日本、当時の大和国の力と権威を見せるためにこの古墳群が造られたという説が有力である、という説明があった。
5世紀、今から1600年以上前。トラックも起重機もない時代、人力に頼るしかない時代にこんな大規模な対外的な政策が取られていたのだなあと考えてしまう。
残念なのは正確な記録が残っていないということだ。だれが埋葬されているのかも特定できない。陪塚もそう。しかし中国では正確にそれらが文字として残っているので、それと比べて推定するしかないそうだ。
日本の残念なところかもしれない。文書保管と改ざん、今もあるなあ。

大阪にはまだまだ私の知らない古墳がある。機会を見つけて古墳探訪をしてみたい。

 

 

 

 

大仙古墳で古墳体験3

収塚古墳(おさめづかこふん)

次は長塚古墳をめざす。
線路沿いにある古墳だが、人気抜群のようで予約カードが配られていた。
私がもらったのは、13時15分のカード。
なんとお昼を食べてから来てください、という感じ。
それではと収塚古墳に足を伸ばす。地図でわかるように百舌鳥駅の直ぐ側にある。

なんとここも長蛇の列。
係の人が申し訳無さそうに、「30人で15分で回しています。回転を早めますのでもう少しお待ち下さい、、、」と言っている。

古墳に登る前に係の人から、この古墳で発見された埴輪の説明があった。
盗掘やら破壊、開発などで完全なものはなかなか発見されにくいようだ。
表面に模様が入っているのがよく分かる。

ビジターセンターでもらった古墳カード。ここで用意したカードはなくなったので、ビジターセンターでもらってくださいということだった。予想したよりも参加者が多かったということだ。
カードの裏面に書かれていた解説を一部引用する。
「後円部径42m、前方部幅27m。周囲に馬蹄形の壕を持つ帆立貝形前方後円墳です。・・・壕から出土した円筒埴輪や須恵器の特徴から仁徳天皇陵古墳の築造よりわずかに遅れて築かれており、陪塚の一つと考えられています。」

下の写真はポスターにあった収塚古墳の部分をコピーしたもの。

古墳を再現したらこうなる、というのをタイルの色を変えて舗装してあったのだ。
古墳に登るために並んでいた広場のようなところが、この古墳の方円部だったのだ。
古墳に登ってみると、残念ながら木々が生い茂っているため仁徳天皇陵を見ることはできなかった。案内の人が「木を切って見えるようにするにしても、これから議論が必要です。まだまだ古墳の整備は完成していないのです」と言っていた。

陪塚(ばいちょう、ばいづか)とは?

仁徳天皇陵のまわりにはこんなにもたくさんの陪塚と呼ばれる古墳がある。 この地図の外にもある。 (この資料は「世界遺産暫定一覧表記載資産状況報告書」よりの引用。https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/isanbukai/sekaitokubetsu/3_01/gijishidai/pdf/shiryo_4_2_9.pdf

古墳の説明をされた人によると、
「陪塚、ばいづか、ばいちょう、と読み方がありますが、宮内庁が指定している古墳を『ばいちょう』、それ以外を『ばいづか』と呼んでいるようです。」
同じ漢字でも読み方が違う。これも歴史的な背景があるようだが私にはそれ以上のことがわからなかった。
知らなかったことがたくさんあることを教えてくれる古墳めぐりだ。
さあ次は長塚古墳だ。