鶉野飛行場跡と紫電改4

巨大防空壕跡(自力発電所跡)

 

 

ここは基地内最大のコンクリート製鞄空壕。 自力発電施設として使用された。高温・騒音のため天井を高くし、冷却水槽、換気、吸気に配慮した構造になっているそうだ。 長さ14m50cm、幅5m、高さ5m。
ここは神戸大学の敷地内だが、見学できるようにと交渉されたそうだ。

最後の写真は防空壕への入り口・階段。かなりの急傾斜。
中で特攻隊の隊員たちの手記を中心としたビデオが上映され、戦争当時の様子を考えるきっかけとなるような取り組みがされている。
安全上のため、ヘルメットをかぶっての内部見学となったのには、歴史上の遺跡だと感じさせられた。

基地内には上の写真のようなコンクリート製の防空壕が他にもあった。
この防空壕の前には大きな木が生えていて、なかなか発見されなかったそうだ。
フェンスの中にはかなり大きな木の切り株があった。
防空壕を造るときにはこの木はなかったのだろうという話だ。
戦後80年近く、木が大きく成長する時間に歴史を感じた。

鶉野飛行場跡の歴史について調べてみると、加西市教育委員会発行の「加西・鶉野飛行場跡(旧姫路海軍航空隊基地)」というパンフレットが発行されていたことがわかった。
そこから戦後の動きについて一部引用する。

「終戦後の 1945 年 ( 昭和 20)10 月 23 日、アメリカ軍が元姫路海 軍航空隊基地に進駐し、翌年 5 月まで兵器や弾薬の処理にあたった。
 一方、約 244 万㎡に広がった基地跡では、同年秋から食糧増産 のためや戦災・復員・引揚者などの受入先として、緊急開拓事業が 行われた。当初約 100 世帯が入植したが、飛行場建設時には表土 を切りとったり、ローラーで固めており、非常に開墾が困難であっ た。酸性の強い土質にも悩まされ、約 5 年間のうちには、半分の 約 50 世帯となった。また、同地は戦争中に急遽軍によって買収さ れたところであり、地元の増反の要求にも答えた。入植者や地元民 の努力によって、基地跡地は次第に立派な農地に姿をかえていった。
 敷地の多くは次々と農地に払下げられたが、滑走路一本を含む一 部はアメリカ軍に接収された。1952 年 ( 昭和 27)4 月には警察予 備隊 ( 自衛隊の前身 ) が旧航空隊兵舎に進駐、近隣の人たちに本格 的に演習場になるのではと不安をいだかせた。その後滑走路のみ連 絡不時着用として使われることになり、兵舎 2 棟も同年 11 月には 解体され、再利用のため運ばれていった。
 57 年 ( 昭和 32)9 月には、接収も解除され、滑走路は大蔵省の管 轄となった。防衛庁 ( 当時 ) は全面払下げを希望したが、農林省を 通じて地元が払下げを希望し、結局その北側 1 / 4 が、62 年 ( 昭 和 37) 夏に農林省に払下げられた。また、何度か播磨空港建設用 地にと話はでたが、実現することはなかった。
 一方、1964 年 ( 昭和 39) 頃、県立兵庫農科大学の神戸大学移管 に伴い、滑走路に隣接する兵舎施設跡 40ha に附属農場が建設され ることになった。66 年度に工事着手。当時敷地内には建物基礎、 防空壕などが散在し、これらの頑強なコンクリート構造物は、予算 の都合上完全に撤去できず、一部はそのまま残ることになった。

(ゴチックは引用者によるもので、原文はゴチックではない。このパンフレットには古い地図や写真が多く載せられている。加西市のホームページから、観光→歴史→「鶉野飛行場跡」と検索することができる。)

払い下げられた土地にも戦争の遺跡がのこっている。それが次に訪れた地下にある司令室だ。