古墳は人の手で造られた。4

二枚の写真は「知られざる古墳ライフ」からの引用。
解説には「全国的にはほかの動物埴輪と比べて馬の埴輪は圧倒的に数多く出土しており、群馬県では馬形埴輪が動物埴輪の9割以上を占めています」とある。
馬形埴輪がたくさん出土するということは何を意味するのか。
私は専門家の人の話を聞くことにした。
一人目は堺市博物館の学芸員さん(お名前をお聞きしていなかった)
もう一人は「よみうり天満橋文化サンターの2020年度古墳講座を担当されている元読売新聞編集委員の坪井恒彦さん。

古墳時代の馬は貴重品だった。

お二人の話は共通していた。

1,古墳時代に馬が朝鮮半島から入ってきた。
  これは馬だけが入ってきたのではない。馬を育てる人も一緒にやってきた。
  そうでなかったら馬を育て繁殖させることはできなかった。
  人と馬と一緒に朝鮮半島からやってきたのだ。

2,馬の数はまだまだ少なく、とても貴重品だった。それらは当時の支配者が
  所有し、非常に大切なものだから埴輪になって古墳に埋められたのだ。
(つまり埴輪になって古墳に入れられたのは、私はそれだけ一般的に馬が飼われていたのだと考えていたが違っていた。貴重だったから権威の象徴として埴輪になって古墳に埋められていたのだった。)

3,馬は騎馬として用いられた。戦争の道具として使うために、海をこえてきた。(馬形埴輪には上の写真のように騎馬姿の埴輪がある。人の労働を手助けさせるために他国から運んできたのではなかった。)

これらにはこの時代特有の歴史的背景があった。
「海を渡った交流の証し」から諫早直人さんの「馬・馬具からみた百舌鳥・古市古墳群」から引用する。

「・・・ここで注目したいのは、400年の広開土王(こうかいどおう)の南征と、475年に百済の都であった漢城(ハンソン・現代のソウル)が高句麗の攻撃によって陥落するという記録です。百済や伽耶を救援するという名目のもと、倭もこういった朝鮮半島情勢に関与していったと考えられています。
そのような物騒な時代背景が騎馬の導入を促進させたことは間違いありません。
・・・船さえあれば馬が来るかと言うとそんな単純な話ではありません。日本列島に馬を運ぶリスクやコストを考えますと、まずは日本列島に住んでいる人が馬を必要としたかどうかということが重要です。そのうえで、どのような対価を支払ったのかはわかりませんけれども、馬を持っていた側、日本列島に馬を与えた側がなぜそれを与えたのか、その見返りや意図はなにか、そういったことについても考えて見る必要があります。
 日本列島に馬がやってきた五世紀という時代は、高句麗が南下し、その版図を最も広げた時代です。朝鮮半島は地続きですから、それは非常に緊張した時代であったわけです。そのような緊張関係が海を超えて倭にも波及するのですが、そのような緊張関係は、朝鮮半島南部各地の諸王権と日本列島の倭王権との間にかつてないレベルの互恵的な関係を形成したのではないか、というのが今日のところの私の結論です。そのような互恵的な関係のもと、あくまで倭側の必要性によって、倭が主体的に騎馬文化を導入したのではないかと考えています。・・・・・・・・・・・・・・・・
その利用方法が基本的に騎馬であることは冒頭に申しました。その用途は一つに限定できるものではありませんが、要するに情報戦などを含めた戦争の道具です。先程述べた朝鮮半島の国際状況もあわせて考えますと、おおよそ高句麗の南征を画期として馬を本格的に受容し始め、百済の王都、漢城(ハンソン)が陥落する前後には日本列島の広範な地域に普及・定着していく、そのように考えることができるのではないかと思っています。今、私達は馬をともすれば、「在来」の動物、昔からずっと日本人と一緒にいた動物のように錯覚してしまうわけですが、その起点は百舌鳥・古市古墳群の時代にありました。」

古墳を造るのに馬はつかわなかった。

騎馬が目的で輸入された馬は現在の馬と比べて小さく、大きな物を運ぶ力もなかった。しかも大切な戦争の道具としての馬を石や材木を運ぶために使うことはできなかったろう。
そして巨大な古墳づくりは仏教の伝来、640年の薄葬令(はくそうれいー身分によってお墓の規模を規定する法令)などの社会の変化によって終焉をむかえる。

では馬や牛はいつごろから建設などの場面に登場するのだろう。
私がネットなどで調べたところ前期難波宮遺跡(大阪城のそばにある。地下鉄谷町線「谷町4丁目」と「森ノ宮」の間)に、203点におよぶ獣骨が発見されたそうだ。

「・・・・整地層とその下面から203点に及ぶ多量と獣骨が出土し、その内訳は牛83点、馬31点、牛または馬78点、その他は不明であった。通常、古代の遺跡から出土する獣骨には馬が多く、牛はかなり少数派であるのに対し、ここでは逆に、ほぼ8対3の比率で牛が多数を占めている。難波宮造営に際しては馬はもとより牛が多く集められたものと考えられる。」「難波宮下層遺跡でも古墳時代後期から牛馬が存在したが、先述のように、難波宮の造営ではかなり多数の牛馬が使役されたことが明確になった。」(大阪の部落史通信・36号)

難波宮の造営は7世紀、652年から。大仙古墳(仁徳天皇陵)がおおよそ450年ごろの造営と言われているので、2世紀、200年の時間をかけて、騎馬のための馬からそれ以外に多くの使用形態がうまれてきたのだろう。

古墳時代には馬や牛は古墳を作るために働かされることはなかった、その歴史的背景や時代背景がわかった。これで一段落したが、ではピラミッドでは? また新しい疑問が湧いてきたが、これは来年のことにしよう。