6月号のSimple English の「英語で味わう日本文学」は梶井基次郎作の「檸檬」だった。
檸檬ーなんとも難しい漢字。私は高校の文学史の授業で「檸檬・梶井基次郎」と丸暗記していた。今回「檸檬」を読み返して、「えーっ、覚えていた話と全く違う、、」とぼやいてしまった。私は梶井基次郎作は覚えていたが、小説の内容は全然別の話として記憶していたのだ。
檸檬やら蜜柑やら林檎やら、果物が登場する小説をミックスしておぼえていたようだ。
梶井基次郎の「檸檬」を読み直そうと、図書館で調べていたら、左の本を発見した。
この本は「今読みたい 日本文学」というテーマで、宮沢賢治、夏目漱石、芥川龍之介、中島敦、梶井基次郎、志賀直哉、横光利一、太宰治の代表作の中から選ばれている。それぞれに林修さんの解説がついていて、私の勉強になると思って借りることにした。
ここには梶井基次郎の「檸檬」と「桜の樹の下には」が収められている。
林修さんの解説を読むと、
「『檸檬』という作品に、初めて出会ったのは高校の現代文の授業だったという人は多いでしょう。僕もその一人です。その時の感想は、
『すごい!なんかよくわからないが、すごい!』
興奮した僕は、その日のうちに図書館に行って、彼の他の作品もむさぼり読みました。」
と書かれている。
私は林さんのように興奮して、図書館に行って他の作品も読もう、という気にはならなかった。そこが林修さんと私の決定的な違いだろう。いいのか、悪いのか、人の感性とはこれほど違っているのだ。
私の印象に残る表現はここ。英語で見ると、
I looked at it. The lemon seemed to take the variety of colors into its slim body. The atmosphere became crystal clear. It felt like the dusty air of Maruzen was frozen around the lemon.
I looked at it for a while.
Suddenly, I had a second idea. The strange idea scared me.
“I will leave the lemon and the tower of books as it is.
And then, I will go outside like nothing happened.”
The thought ticklede me.
” Maybe I should go out. Yes, I will.”
And I walked right out of there.
The feeling made me smile in the town.
I was an evil monster. I had left a shining golden bomb on
the Maruzen bookshelf.
The bomb was going to go off in ten minutes among the art books.
How funny it would be.
原文はこうなっている。
・・・・そして軽く躍り上がる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまっていて、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
ーそれをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外に出る。ー
私は変にくすぐったい気持ちがした。「出ていこうかなあ。そうだ出ていこう」そして私はすたすた出ていった。
変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
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黄金色に輝く檸檬、そしてそれが爆弾のイメージにつながっていく。私の頭の中にもそのイメージは鮮明になる。
その「檸檬」のイメージが、別のエッセイにもでてきたのでびっくりした。
新潮社のフリーペーパーで「波」という雑誌がある。
わりと有名な月間のフリーペーパーで、大きな書店においてあるが、早くになくなる(と私は思う)。その6月号だ。
たくさんのエッセイや評論、対談がのっているが、今の私のおすすめはプレディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトでちよっとブルー」。
福岡県出身の女性で、イギリス人の男性と結婚、中学に通う男の子のおかあさん。
ご主人は長距離トラックの運転手で、プレディみかこさんは保育士さん。
息子さんの中学校での音楽部の春のコンサートの場面でこんな様子が書かれていた。
「鮮やかなオレンジとグリーンのロング丈のワンピースを着て、黄色いターパンを頭に巻いた女性と、その周囲に立っている子どもたち。去年、息子のクラスに転入してきたアフリカ系の少女の家族だ。 黄色いターバンの母親の脇には、中折れのストローハットをかぶったダンディな黒人の中年男性が目の覚めるようなブルーのシャツを着ている。
それでなくとも黒人の少ない学校だから目立っているのだが、彼らのカラフルなファッションはそこだけ別世界のようだ。陰気な色彩の列の中で、そこだけ原色に輝いていた。梶井基次郎が丸善の店先に置いてきた檸檬の色ってこんな感じだったんだろうかとふとおもった。」
そして少女が歌う『ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム』は、爆弾のように聴衆の心に響いた、という内容の文章が続いていく。この歌の説明をプレディみかこさんの文章から引用すると、
「確かに彼女の歌こそソウルだった。また拍手が巻き起こり、それが静まるのを待って副校長が言葉をつづけた。『この曲を作ったのはサム・クックですが、彼にインスピレーションを与えたのはボブ・ディランでありました。ボブ・ディランの『風に吹かれて』というプロテスト・ソングを聞いたサム・クックが、それに大いに触発され、自分もこのような歌を書くべきなのだ、書いてもいいのだ、と思って作った曲が「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」です。そのことを我々は覚えておくべきだと思います。
副校長は一度も「黒人」「白人」という言葉を使わなかった。けれども、白人のボブ・ディランが人種差別に抗議する曲を作り、それに黒人のサム・クックが触発されたという、人種の垣根を超えたインスピレーションについて語っているのは明らかだった。」
you tube で A change is Gonna Come を検索するといくつもの紹介がある。知らなかった、こういう歌があることを。
機会があれば「波」6月号を是非読んでほしい。
プレディみかこさんは、梶井基次郎の「檸檬」の文章とイメージをしっかりともっているに違いない。私にはとうていかなわない。
それが文章を読む、ということなのかも知れない。