久々に繁昌亭の寄席に行く。
6時半開演。4月も中旬を過ぎると、午後6時を過ぎてもまだ明るい。
以前お茶を楽しんだ「繁昌亭のごまの和田萬」「ごまカフェ」「ペンションLee」はもうない。そこはたこ焼き屋さんに変わっていた。繁昌亭は繁盛してても、周りのお店は知らぬ間にかわっていく。前回来た時に夕食を食べたレストランも改装中だった。
桂米左さんは、大阪市の小中高を卒業、つまり大阪市出身の落語家だ。
ほぼ満員で、ふだんから桂米左さんの落語にきている人が多いような雰囲気の会場だった。
入り口でもらったパンフレットを読んで、ふーんとうなる。
「本日はお忙しい中、桂米左独演会にお越し下さいまして有り難うございます。
さて今日(4月19日のこと)は師匠米朝の月命日でございます。昨年3月19日に他界してから早いもので、一年と一ヶ月。この間に米朝追善と銘打ち、各地で会が催されました。また二月には松竹座で米朝十八番の内「地獄八景亡者戯」が芝居で上演されました。・・ちなみに米左は「はてなの茶碗」の茶金さんの役・・・。どの公演も大入りで亡くなってからでもお客さんを呼ぶ師匠に、改めて畏敬の念を抱きました。・・・・(以下略)・・・・」
そうか、桂米朝さんが亡くなってもう一年が経つのか、時間の経つのは早いものだと月並みなことを思っていると、桂米左さんの落語のまくらのなかで、桂枝雀さんが亡くなったのは4月19日、という話があった。なんとも縁を感じる日に繁昌亭にきたものだ、と思う。
桂そうばさんの演目は「手水廻し(ちょうずまわし)」。
大坂は昔、朝に顔を洗うことを「手水をつかう」「手水を廻す」と言ったそうだ。
手水ーちょうず、という言葉も落語の世界でしか聞かない言葉になってきたようだ。
話の中身は、大阪からずっと「離れた村に泊まった大阪の商人が、朝に顔を洗いたいと思って「手水を廻して」と言った言葉がもとになっての大騒動。
そうばさんは福岡出身の人で、桂ざこばさんを師匠にする人。
最初に、関西の言葉はわかりにくかった、という話があったが、そうばさん自身の語り口はとても良くわかるものだった。
桂歌之助さんは「壺算」。
それぞれの家に水をためておく壺があったころの時代の話。
水道が当たり前のように各家庭にある現代では、設定そのものが未経験の話。
歌之助さんは、頭のなかで計算しながら、でもわからない納得出来ない、そういう壺屋さんの番頭さんが困っている姿を大熱演。見ている私たちは大いに楽しんだ。
桂米左さんによる独演会三つの演目、どれも米朝さんにゆかりのもの。桂米朝一門の独演会は三つの話をすることになっているそうだ。
天狗裁き
これは私の好きな演目の一つ。
話がどんどん大ききなるところと、おかみさん、友達、大家さん、お奉行、そして天狗が「して、その夢は?」とたずねていくタイミングと言い回しが笑いをもりあげる。盛り上げ方が話し手によって少しづつちがってくるのが落語の面白さ。
私も舞台やテープで「天狗裁き」を見たりきいたりしたことがあるが、さげがわかっていながら、そのさげをまっている自分がいておもしろかった。
「おまえさん、どんな夢をみていたんだい?」
桂米左さんのおかみさんは、私の期待通りだった。
この「天狗裁き』は近年、東京でも米朝流の演り方になっているという。さすが桂米朝師匠。
百年目
「百年目」はパンフレットによると、「師匠が一番難しいと言っていた『百年目』をお聴き頂きます。初演の時はこのネタに見事にやられました・・・(略)・・・師匠の足元にも及ばぬ『百年目』ですが少しでも近づけるように頑張ります」とある。
そんなに難しいものなのかなあと思いながら、
ネットで調べてみると、ウィキペディアにはこうあった。
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百年目』(ひゃくねんめ)は、落語の演目。元々は上方落語の演目で、のちに東京に移植された。一説には東西とも同じ原話があり偶然に作られたという。3代目桂米朝、2代目桂小文治、2代目桂小南、6代目三遊亭圓生ら大看板が得意とした。
『鴻池の犬』『菊江の仏壇』などと同じ、船場の商家を舞台にした大ネタである。かなりの技量と体力が演じ手に求められ、米朝も独演会でしくじった事がある。大旦那、番頭、丁稚、手代、幇間、芸者など多くの登場人物を描きわけ、さらに踊りの素養があらねばならない。力の配分が難しい噺である。米朝の大旦那は圓生演じる大旦那より一回り大きい。
「ここであったが百年目」という言葉からきている「百年目」という言い回しも、今の時代では使うこともなくなっていると思う。話が始まる前から、桂米左さん自身が「この話のさげは百年目という言葉です」と少し解説を加えていた。
ウィキペディアにあった「米朝も独演会で・・・」というところが気になったので、ネットで調べてみると「桂米朝最後の大舞台」という番組に関係があるようだ。
長いセリフが、立て板に水のように流れ、しかも言い直しはほとんどない。さすが桂米朝さんの弟子だと思う。何百回と同じ話を繰り返して、練習したんだろうなあと思った。
かわり目
うどんも買わずに追い返したことを知った酔っぱらいのおかみさんが、「それはうどん屋さんがかわいそう」とお詫びに言って呼びもどそうとすると、うどん屋は言う。
「あ~っ、やめときます。そろそろちょうしのかわり目だから」
私は左隣の妻に「何のかわり目?」と聞いていた。
「何の調子?」
「一本目のお銚子が空になって、二本目のお銚子になるから、そうしたらまたうどんのお湯で熱燗にさせられる、っていうことよ」
そう桂そうばさんの「手水廻し」で出てくる宿屋の主人になっていた。

桂米左さんたちが入り口に立って、出て行くお客さんたちにお礼の挨拶をしている。いっしょに写真を取ることをねだっている人もいる。
繁昌亭のような小さな小屋のよさがここにはある。
多くの人が義援金を入れていた。
私も楽しい時間をすごさせてもらったことへのお礼も含めて、わずかだがポケットに入っていた小銭を全部入れた。
「へえーっ、そう?」
「視線があったとか、舞台の上から客席の顔はわかるのかなあ、って話していたよ」
人の一生のなかで、人と人とのつながりがあること、長い時間を乗り越えてつながっていたり、新しくつながったりと、伝統の技が育む影響力とその効果を実感するような場だった。