千利休屋敷跡

「さかい利晶の杜」1周年

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左の写真は千利休屋敷跡。

「さかい利晶の杜」のすぐそばにある。

「さかい利晶の杜」ができる前の様子が、読売新聞に書かれていた。(2014年10月5日)

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幹線道路から外れた一角に、その屋敷跡はある。
堺市の阪堺電軌・宿院停留場近くに広がる敷地。豊臣秀吉に茶頭として仕え、わび茶を大成した千利休が、かつて暮らしていたとされる。

 「茶道の流派を超えた、聖地のようなところですね」と京都市上京区の茶道資料館の橘倫子学芸員は話す。屋敷での詳しい暮らしぶりは伝わっていないが、柵で囲まれたスペースには、茶の湯に使ったという「椿の井」と呼ばれる井戸があり、今も水が湧き出る。

 ただ、住宅街に溶け込むひっそりとしたたたずまいに、通り過ぎる人も多い。

  •   NPO法人・堺観光ボランティア協会の川上浩理事長(68)は「案内をして『利休がいたのと同じ空間に今、立たれているんですよ』と話すと、驚いて感動されることもあります」と言うが、「ガイドが一緒じゃないと中には入れませんし、一人でぶらりと来ても楽しめないですよね」と笑う。

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そんな場所が今、変わろうとしている。屋敷跡の西側に来春、市の文化観光施設がオープンするからだ。
 利休の茶の湯と、与謝野晶子をテーマにした「さかい利晶のもり」。3階建てで、京都にある国宝の茶室「待庵」も再現する。待庵は昨年公開された映画「利休にたずねよ」にも登場。亭主と客が対峙たいじする様子が描かれた。そんな、「緊張感の中で生まれるコミュニケーション」を感じてもらおうという仕掛けだ。

  • 建設が進む「さかい利晶の杜」。堺観光への期待もかかる

 屋敷跡も、所有する茶道裏千家淡交会総本部が一般公開する計画があるという。堺の歴史に詳しい太成学院大非常勤講師の中井正弘さん(73)は「和・敬・清・寂を重んじた利休の生き方や、心の持ちようは今の人たちにも響くはず」と期待する。

・・・・(略)・・・・
 
  ◆千利休屋敷跡

 井戸の屋根は、京都・大徳寺山門の古い部材を用いて建てられたとされる。江戸後期には、酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が利休をしのんで建てた「懐旧庵」があったという。

 利休は1522年に、堺の豪商の長男として誕生。17歳から茶の湯を学び、のちに武野紹鴎に師事して佗茶を大成した。(以下略)

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「幹線道路から外れた一角」「ひっそりしたたたずまい」と書かれていた場所は、今はすっかり様相が変わっている。
屋敷の塀も復元され、前の道路も立派な敷石がひかれた道路になっている。
「さかい利晶の杜」のすぐ隣りにあるので、「さかい利晶の杜」を訪れた後は、「千利休屋敷跡」を見学しようという流れになっていると思った。 

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私が訪れた時は、ボランティアさんの方が、丁寧に説明してくれた。

堺観光ガイドには次のような説明がある。

「千利休は大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。
屋敷跡には椿の井戸が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。平成27年のリニューアル後は、敷地内も見学できるようになりました。」

http://www.sakai-tcb.or.jp/spot/spot.php?id=92

ボランティアの方に聞いてみると、以前は金網のフェンスで中は見ることができるが、今のようには入れなかったという。それが「さかい利晶の杜」の建設と共に整備されたそうだ。

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千利休屋敷跡で、井戸や井戸からの水を引いた手洗い場をみると、まわりの空間が千利休がいた時代に戻されていくような感じになる。
静けさの中に歴史を感じるところ。こういった歴史を感じさせる空間と場所は現代には必要だと思った。

利晶の杜1周年

 

「さかい利晶の杜」のホームページを久々に見てみると、開館1周年の文字が。
早いものだ。でも、「さかい利晶の杜」はしっかりと堺市民の心に根付いたと思う。
さて、次は機会を見て茶の湯体験をしてみたいものだ。

 

 

 

ポルトガル紀行 20

 

ポルトガル6日目
       モラエスの家

リスボン地図1

この地図はガイドさんからもらったもの。 ガイド仲間の人が作った手書き地図。
縮尺等はわからないが、市内の雰囲気がわかるので、ガイドブックと合わせてみると、わからない場所でもなんとか行けそうな感じがしてくる。
グルベンキアン美術館そばの地下鉄に乗る。前日買ったフリーチケットがここでは力を発揮する。大阪の地下鉄やJRのように入り口にある自動読取機にタッチする。読み取り時間は日本のものと少し違う感じ。
行き先は下の地図にある「モラエスの実家」。

リスボンの地図2

モラエスという人は、徳島に行った時に知った歴史上の人物。 私のこのブログの「水準点めぐり7」と「三角点を探る旅 その14」で紹介した人物で「日本ポルトガル総領事」だった人。下の写真は徳島市立新町小学校のそばにあるモラエス像。

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小学校のそばに像があったり、眉山の頂上にモラエス記念館があるなど、徳島とモラエスの深い関係をこの時に知った。リスボンに家が残っているとわかったので、是非見たいと思った。

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司馬遼太郎さんの「南蛮のみち2」には、モラエスのことが書かれていたので、それほど有名な人なのかとあらためて思った。(本の写真は徳島の眉山にあった記念館での写真)。

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「ポルトガル海軍は、作家も生んだのである。
 二十一歳て海軍兵学校を卒業したモラエスは、植民地勤務が長く、健康を害したり、海上勤務にもどったり、たまたま戦闘にも参加したりして若い時代をすごし、三十五歳のとき(明治二十七年)はじめて日本に来航した。 1897年、現役海軍中佐として広東(カントン)総領事をつとめていたとき、日本文化の紹介書である”Dai-Nippon”(「大日本」)をリスボンで刊行し、一躍文名があらわれた。この本は明治の日本人の心についてのべた面映ゆいほどの賛美の書であった。
 私は、モラエスの作品は『おヨネと小春』(花野富蔵訳・昭和十一年・昭森社)をもっているにすぎない。しかしこの一冊で、恋か冒険をする以外にない「哀愁病」(モラエス自身のこと)にかかっていた作家の心がややうかがえるような気もする。壮年のころのモラエスは愛の病者だったし、晩年、愛する者をうしなったモラエスは、かれ自身の序文のことばを次はぎに使うとすれば、「夢と追慕」に生きた。よく知られているように、モラエスは晩年のすべてを徳島で送った。 徳島に流寓したのは、そこが、愛人だった小春、夫人だったおヨネという、亡きひとびとの故郷だったからである。
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 モラエスの死も、あっけなかった。かれは徳島市伊賀町三丁目の茅屋にひとり住んでいたが、昭和四年(1929)七月、ブランデーを多量に飲み、縁側から土間の三和土に転落し、頭を打ったままそのまま逝った。七十五歳であった。

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 海の人であったモラエスは、マカオ駐在の海軍少佐時代、航海家として十六世紀的な大事業をやっている。マカオの港に半ば朽ちて放置されていた旧式木造砲艦「テージョ」号を、本国の命令でリスボンまで回航したことである。成功は万に一つといわれていたが、かれは荒天を避け、水漏れをふせぎ、腐ってしまった機関をなだめつつ、港から港へ這うようにして動かしつづけ、ついにテージョ川の河口のベレンの塔の見える錨地まで連れもどした。」

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こうして「南蛮のみち2」を読んでいくと、テージョ川とベレンの塔は、リスボン、いやポルトガルと日本の関係からは、切り離すことのできない場所のようだ。

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さて、私たちはそのモラレスの家をめざして、地下鉄をおりてケーブルカーを探すことになった。上の地図のように坂道電車が走っているはず、あった。

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写真左上が坂道電車のなか。
お客さんが来ないので運転手さんに英語でモラエスの家はこの上にあるのかと聞く。地図を見せるといろいろと説明してくれているが、よくわからない。ちなみに運転手さんは女性。
写真右の運転席の左に黄色い面が見える機械が、チケットをピタッとあてる機械。

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ケーブルカーは全面落書き?だらけ。

これも芸術のパフォーマンスなのかよくわからない。
坂道電車を降りて、モラエスの家をさがすがよくわからない。ガイドさんの手書きの地図やガイドブックの写真と照らし合わせながら、街角の家並みと比べて歩きまわること20〜30分。
わからない。
ケーブルカーの駅にもどってやり直してみよう。地図をよく見ると、ケーブルカーの駅のすぐそばに階段の絵がかいてある。階段を降りればいいのかもしれない、と思って周りを見ると、なんと駅の左側に階段があった。これだな。

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家の壁にも沢山の落書き?アート? あった、日本語が書いてある。

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「葡国海軍士官にして作家たりし
 ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス
 (1854−1925)が生まれ育ちたる  
 はこの家なり
 長き歳月を愛する日本に過ごしたるかれは
 祖国に思いを馳せつつかの地に死せり       
             日本国 宇留野清華書」

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ガラス戸の向こうを覗いてみると階段らしきものが見える。 二階がモラエスの住居だったようだが、ガイドさんもいないので外から眺めるだけ。
雨のせいか、人通りは全く無い。
日本人の観光客も私たち以外には、だれも姿を見なかった。
外国で亡くなった有名人の実家、外側と碑のようなパネルが残っているだけでも意義があるのかもしれない。
モラエスさんの像や碑は日本では、徳島と神戸にある。
ポルトガルでは、リスボンのジェロニモス修道院のそばにある海洋博物館にモラエスさんが使った机などが展示されているそうだ。時間がなかったので、そこに行くことはできなかった。

さて、雨も本降り。まだまだ市内観光をしたいので、旧市街の幅の狭い坂道を下っていくことにした。
狭い道の両側には、野菜を売っている店や食べ物やさんの店がある。
商品の仕入にこんな急な坂道を毎日昇ったり降りたりするのも大変だなあと思いながら歩く。
かなり年配の女性が杖を付きながら坂道を登ってくる。
生活道路なのだ。
傘を持ってすべらないように緊張して歩いていたので、写真も取っていなかった。
あとで地図を見なおしてみると、「アマリア・ロドリゲスの生まれたとされる家」というのがあった。ああ、もう少し丁寧に地図と町を見ておくのだった。
旅行はいつも日本に帰ってきてから後悔することが多い。

さて坂道をくだってたどりついたところが「ロッシオ広場」。

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リスボン市内の真ん中にある広場。 中央に立つ像は「ドン・ペドロ四世」。のちに初代のブラジルの国王になった人。ブラジルもポルトガルの植民地だったのだとあらためて思う。 「ロッシオ」(あるいは「ロシオ」)というのは、ポルトガル語で「公共の広場」という意味だそうだ。

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広場に面して立派な劇場がある。「ドナ・マリア二世国立劇場」。
小学生の子どもたちが歩いている。社会見学?集団下校?
妻があとで「障害を持っている子には一人おとながついていたね」と言う。私は写真を撮っていながら気が付かなかった。

さて、これからおみやげものを中心に町を歩くことにする。
しかし、雨がやまないなあ。