桃介橋(ももすけばし)

左の写真は「桃介橋(ももすけばし)」で国指定重要文化財である。
もらったパンフレットによると、「桃介橋は、約1Km下流に計画された読書(よみかき)発電所の建設資材を輸送するため、大正11年(1922年)に架けられました。
全長が247m、3基の石造の橋脚に支えられた4径間の吊り橋で、木製補剛トラスを持つ吊り橋としては国内最大級です。・・・・
 当初の橋は、クリ・マツとスギ材を使って建造され、その中央には資材運搬用のトロッコの鉄製レールが敷かれていました。・・」

左の写真の中央に、トロッコ用のレールが復元されているのがわかる。
パンフレットには、
「・・・復元された桃介橋は、地元産のサワラとヒノキ材製で、かつて鉄製のレールが敷かれていた部分にはアメリカ大陸産の茶褐色の硬木、ボンゴシ材がはめ込まれている。・・・」

桃介橋の近くに置かれている掲示板には、桃介橋の概要が紹介されていて
「近代化遺産とは、幕末から戦前にかけて日本の近代化に大きな役割を担った産業遺産をいう。
桃介橋の復元にあたり安全性確保のため、木構造部の継手金具の一部に改良を加えてあります。」とある。日常的に使われている橋だからこそ、安全性確保が図られているのだろう。

なぜこの端を桃介橋というのか。それは福沢桃介が建てたからである。
パンフレットには、
「・・・福沢諭吉という有力な義父の支援により、桃介は日本の大学卒業後にアメリカに留学することができました。アメリカでは2年半にわたり、英語を学びながらペンシルバニア鉄道の見習いとして働きました。21歳のときに帰国すると、北海道炭礦鉄道で働きましたが、肺結核を患い入院生活を送ることになりました。しかし、療養中に始めた株式投資で巨額の利益を得ることとなります。・・・・その後、名古屋電灯株式会社の取締役を経て、大正3年(1914年)に名古屋電灯株式会社の代表取締役に就任しました。その当時、木曽川の勾配と力強い水流を見た桃介は「一河川一会社主義」という概念を思いつきます。・・・桃介は、読書発電所(大正12年(1923年)竣工)、柿基水路橋(大正12年(1923年)竣工)、大井ダム・発電所(大正13年(1924年)竣工)などの複数の事業を監督・・・」とある。

左の写真は桃介橋の下流にある読書発電所(よみかきはつでんしょ)である。

読書(よみかき)とは、なんとも珍しい名前。由来は?
ウィキペディアによると、
「与川村(がわむら)、三留野村(どのむら)、柿其村(かきぞれむら」の頭文字をとった。」とある。
1874年(明治7年)9月7日に三村が合併して読書村となったそうだ。

読書発電所はパンフレットによると「大正10年(1921年)11月から大正12年(1923年)12月にかけて大同電力株式会社によって、当時最大出力4万700kwの水路式発電所として建設されました。読書発電所は、当時の水路式発電所では出力日本一を誇る、金字塔とも言うべき存在のものでした。(読書発電所以降はダム式発電所が多くなりました)」とある。
現在の読書発電所は、写真の地上式発電所と1960年に完成した読書ダムによる地下式発電所の2つによって発電されている。

バスの窓より桃介橋の全様をみる。 流れる川は木曽川。
白く輝く石が多い。この石は花崗岩。上流から流れてきた新しい石は真っ白。
古くから川に残っている石は茶色がかってきている。
こうしてみると、最近の大雨でたくさんの花崗岩が流れてきたのかなあと思う。
花崗岩は火成岩のひとつで、木曽川の花崗岩はマグマがゆっくりと冷えて固まったものと言われている。
8000万年くらい前は深い深海あり、200万年前にはじまった造山運動によって隆起し大地となったそうだ。
あらためて木曽川の石を見ると、真っ白な花崗岩は何千万年前の海の底深くにあったのかと思うと、感慨深くなる。