奈良市内散策 3

猿沢の池・浄教寺・西照寺

影向の松の見学から猿沢の池に戻ってきた。

 猿沢の池から興福寺までの階段。地図では52段と書かれている。下の写真は地図の「六道の辻」付近。52段の最上部から右の方に木がかたまって植えられている。ここは「左府の森」と言われていたところらしい。保元の乱に破れた左大臣藤原頼長が都から逃れてこの場所で休憩したところと言われている。

 地図を見て分かるように、猿沢の池の南に川が流れている。観光地図を見ると、猿沢池の周囲半分ほどに川が描かれている。
この川は卒川(いさがわ)という川で、春日山を源とし、かつては田畑を潤していたらしい。

 猿沢の池と三条通りが交差するあたりで暗渠になっている。
私は何回も猿沢の池に来たことがあるが、川が流れていたことには全く気が付かなかった。

 上の写真は「卒川地蔵尊」とよばれ、川が氾濫したときに流されてきた仏様とか河川工事のときに発見された石仏を集めてお祀りしているところだそうだ。橋の上から「卒川地蔵尊」をながめると、なんとも不思議な気持ちになった。

 ここは暗渠に入るところ。卒川は三条通にあるスターバックスのそばから暗渠の中に入っていったが、どこに出てくるのか少し歩いて調べて見たいと思った。

猿沢の池からJR奈良栄方面に向かって歩く。

ここは浄教寺(じょうきょうじ)。奈良公園からJR奈良駅へ三条通りを歩いていると右手に見えてくる。山門などが登録有形文化財に指定されている。
写真のソテツは奈良市指定文化財で、周囲6.5mで1本の幹から25本もの幹が出ている珍しいもの。

    写真の立て札には、「『日本の美と心の発見』講演 アーネスト・F・フェノロサ 明治21年6月5日 」と書かれている。
アーネスト・F・フェノロサといえば「日本美術を救ったアメリカ人」として知られている人。日本古来の文化財が軽視されていた明治時代にその価値を認め、保護に努めたアメリカの哲学者である。
ここ浄教寺での講演内容の一部が、史料センターのパンフレットに紹介されていた。

 奈良ノ諸君ニ告グ(抜粋)

 今日奈良ニ存在セル古物ハ
 独リ奈良一地方ノ宝ノミナラズ
 実ニ日本全国ノ宝ナリ。
 否、日本全国ノ宝ノミナラズ
 世界ニ於テ復得ベカラザルノ至宝ナリ。
 故ニ余ハ信ズ
 古物ヲ保存護持スルノ大任ハ
 即チ奈良諸君ノ宜シク盡(ツ)クスベキ義務ニシテ
 又奈良諸君ノ大ナル栄誉ナリト

この講演の通訳は岡倉天心だったそうだ。


浄教寺を出て、JR奈良駅に向かって歩く。
開化天皇陵と伝えられている陵を過ぎ、右に曲がると西照寺(さいしょうじ)に近づく。天皇陵に隣接して建っているお寺だ。

お寺に置かれていたパンフレットによると、
「西照寺は、西大寺の叡尊上人(1201〜1290)が下三条の地に開祖した禅松寺という草庵がはじまりで、その後、弘治2年(1556)興福寺別当より西照寺の寺号を賜り当寺中興の祖、英誉良阿上人が浄土宗に改め現在地に講堂を建立した。 江戸時代は幕府の帰依も深い寺院であったが、明治以後寺地は狭まり昔日の面影はなくなった。現在の本堂は昭和29年(1954)前住職、授誉見誠和尚が再建したものである。」

中に入ってみると、こじんまりとしたお寺だった。
ここには「徳川家康公墓碑」と「百萬供養塔」がある。家康とこのお寺との関係は詳らかではないそうだ。

 右が徳川家康公墓碑、左が百萬供養塔である。百萬とはどういう人物かというとパンフレットから抜粋すると以下のようである、
「当寺門前の通りは現在行き止まりになっているが以前は東の林少路町に通じ百萬ヶ辻子町と呼ばれ、百萬親子が住んでいたという。この石塔もはじめは百萬屋敷跡にあったが、いつの頃からか当寺境内に安置されるようになった。百萬とは春日大社の巫女で、一男児があった。ある日、西大寺の念仏会に親子で詣でたがあまりの混雜に我が子十萬を見失った。・::必死に十萬を求め歩き、京都嵯峨の清凉寺の念仏会でついに我が子にめぐりあい、奈良に戻り親子睦まじく暮らし・・・・。この話は観阿弥が能楽に仕立て有名になった。・・・」ということだ。
徳川家康や観阿弥と関係があるお寺があるとは知らなかった。
このあと近鉄奈良駅の方にもどり、漢國(かんごう)神社に向かう。