帝塚山古墳にある三等三角点

三角点を探る旅54

古墳の中にある三角点、こんな珍しくて貴重な三角点がここにあるなんて。
以前に大阪市にある三角点を調べていた時、帝塚山古墳に三角点があることを見つけた。ただ古墳の中だから、勝手に入れるのだろうか?とずっと疑問に思っていた。

たまたま朝日新聞の「ぶらっと関西 歴史散歩」という記事に(2021年7月2日)、「大阪・帝塚山古墳」がとりあげられていた。そこになんと三角点が写っていた。これは見なくては、見る方法はあるんだ、と思いまず下見に行ってみた。
予想通りに門があり、施錠されていた。管理者の名前は書いてあったが連絡先が書かれていない。
インターネットで管理者のホームページを探し、「すみよし歴史案内人の会」にたどり着いたわけだ。あとで新聞を見直してみると、ちゃんとホームページのアドレスが書いてあり、私一人の独り相撲だったことに気づいた。
年に数回、住吉にかかわるフィールドワークが企画されていて、秋に帝塚山古墳を含むツアーが計画されていることを知り、参加したのが前回のプログ。

国土地理院の白い標識はあるが、それは地面に転がっていた。
三角点を守る石も見当たらない。
写真にあるように、「三角点」という文字はうっすらと読める。

三角点の他の面を見るが、文字は全く読めない状態だった。
頂上部の十字もかなりすり減っている。

ボランティアガイドの人も、「これは三頭三角点」と説明されたが、いつ頃設置されたかはわからないということだった。
このフィールドワークの一緒の班だった人がこの付近の人らしく、『子ども時代に古墳の中で遊んだ』とか「学校からこの古墳がよく見えたが、今はマンションなど家が建ち、全く見えない状態になった」とおっしゃっていた。
住宅が立ち並ぶ以前は地域の中でひときわ目立つ存在だったのだろう、この帝塚山古墳は。

遊んでいるときや、学校からの見学の時にこの三角点に気づきましたか?
と聞いてみたら、全く覚えていないということただ。三角点というものはそういうものだとつくづく思う。

国土地理院のホームページを調べてみると、
選点 明治36年5月22日
設置 明治36年7月17日
であることがわかった。
明治の時代では、ここはこの付近でとても見晴らしのいい場所だったのだろう。地図を作るため、測量の基準にはもってこいの場所だったと思う。古墳の中だから破壊される危険性も少ない。
平成16年11月25日にこの三角点が調査されている。
三角点は地震などの大地の変動があった時、データを取るのに活用されていると聞いている。
三角点のそばに国土地理院の標識をたてかけて、帝塚山古墳をあとにする。
春にもう一度来てみて、この三角点がどうなっているか見てみたいものだ。

 

 

 

 

帝塚山古墳群

南海高野線の帝塚山駅周辺にはかつては古墳がいくつもあったそうだ。
現在その姿をとどめているのは、帝塚山駅の直ぐ側にある「帝塚山古墳」である。
その古墳群を見学するツアーがあったので参加した。

住吉東駅の東側からでて、少し歩くと「弁天塚古墳」の跡地がある。 実は古墳の上に神社が建っているのである。

ここは東大禅寺。お寺なのに正面に鳥居がある。
明治時代の廃仏毀釈で、神社とお寺とははっきりと区別されたが、それ以前は神仏混合の時代だったので、江戸時代はあたり前のことだった。
もらった資料によるとここは「前方後円墳で全長65メートル、後円部の高さは4.3メートル、となっているが形状がかなり変形している。発掘がなされていないので詳細は不明」となっている。
西暦4世紀から6世紀ぐらいに古墳ができたと考えられている。

弁天塚古墳から少し東に歩いていくと、大阪市立万領保育所がある。そこのフェンスに写真のような掲示がある。

掲示板には次のようにかかれている。

大阪市顕彰史跡第206号
二本松古墳
(住吉区万台東3・4丁目)
6世紀後半の古墳で、円墳と推定される。明治時代の土採りのよって墳丘は削平されたが、その際に石室や石棺が発見された。かつての地名が住吉村字二本松であったことから二本松古墳とよばれている。
大阪市教育委員会

発掘時の資料や出土品は東京国立博物館に保管されているともらった資料に書かれている。ボランティアのガイドさんが「どうして東京にあるのでしょうね」とぼやいていた。私もその気持はわかる。

大阪急性期総合医療センターをすぎ、万代池をこえると大阪女子大学の記念碑がある。 その周辺に万代古墳があった。今はマンションになっている。
資料には次のように書かれている。

「平成16年(2004年)に発掘された古墳で、周辺の敷地より一段高い土地で、マンション建設の際に発見された。墳丘部は削られてほとんどないが全長約32メートル、後円部の直径は約29メートルであるが前方部約6メートルしかない帆立貝型の前方後円墳であった。周濠からは円筒埴輪、人物埴輪や衣笠埴輪(きぬがさはにわー日傘を模したもの)、盾形埴輪、朝顔埴輪などが出土し、埴輪としては比較的新しいタイプのもので、その形から5世紀末から6世紀の古墳であることがわかった。帝塚山古墳の周辺にはこのような小さな古墳があったと考えられます。」

南海高野線「帝塚山駅」西出口から目の前に「帝塚山古墳」がある。
ここは「財団法人住吉村常磐会」が管理している。普段は施錠されていてはいることができない。今回のツアーのような機会がないと古墳の中には入れないので、このツアーを心待ちしていた。

古墳の中にある立て札には次のようなことが書かれていた。
「・・・・所有者 財団法人 住吉村常磐会 この古墳は西南面の前方後円墳で上町台地南部の西縁に立地している。墳丘の前後長径88メートル前方部幅39メートル後円部径49メートルその高さは前方部8メートル強後円部9メートルを測る。・・・・略・・・墳丘には埴輪円筒の樹立があり往時南北両側には周濠の一部である溜池が存したことを土地の古老は記憶している。墳丘の形態その他すべて中期古墳の特徴を備えている。 後円部頂上には明治31年11月陸軍大演習の際明治天皇の登臨があったのでその記念碑が立てられている。 ・・・・略・・・この古墳の被葬者については大伴金村とする所説があるが古典によれば附近には住吉宅と呼ばれる大伴氏の居邸がありこの豪族の根拠していたことは明らかであるからこれに関係する墳墓であるかも分からない。大阪古代における歴史と文化とを徴するために欠くべからざる史跡である。             
      昭和39年3月31日    
            文化財保護委員会
            大阪市教育委員会」

もらった資料には、 「・・・後円部を北へ向ける前方後円墳で、全長約120メートル(注・大仙古墳の約四分の一)・・・略・・・出土した円筒埴輪から4世紀末から5世紀初頭の古墳と推定されます。前方後円墳として原型を止める大阪市唯一のものです。上町台地の南端部に当たり、古墳が築かれた当時は西側近くまで海が迫っていたので、海からもよく眺めたものと思われます。大伴金村の墓という説もありますが、6世紀前半に活躍した金村とは時代が合わず、被災者は不明です。」

古墳の上にあった木はすべて伐採されている。 昨年、一昨年の台風の時に切ったそうだ。 古墳を取り囲むように高級住宅が建っている。 春には「花びらが家に吹き込んできて困る」、秋冬には「枯れ葉が家の中に入ってくる」という不平や抗議が管理者の住吉村常磐会に寄せらてくるそうだ。よく似た話は昔からあちこちで聞いたことがある。離れて愛でるのはいいが、直接自分たちに迷惑がかかってくると不平を言う。
自然との共生は言葉だけになっているように私は感じてしまう。

この帝塚山古墳の見学は春と秋に行われているそうだ。春にも来てみたいと思った。

私が参加したツアーの企画は「特定非営利活動法人すみよし歴史案内人の会」がされている。ホームページもあるので詳しい活動内容については、HPを見ていただきたい。「まち歩き」の紹介や参加申込もここからできる。