日本語表記の歴史 2

日本語表記の歴史を考えるために、年表で古代にさかのぼってみよう。

年表を書こうとエクセルでやってみたが、2000年以上もの長いものをどんなふうに収めたらいいかと考える難しい。 そんなとき前回紹介した「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史」を見つけた。 そこにあったのが上にある、らせん式の年表。これは役に立ちそう。

日本語の歴史と簡単に言っても、厳密に考えなくてははらないようだ。

縄文時代は今から1万年以上前からはじまるらしい。
縄文時代、弥生時代とすすむなかで、その当時の人達は会話をして意思疎通をはかり、生活を高めてきたことは想像できる。
ただ文字が残っていないので、想像するしかない。

たとえ文字があったとしても、現在に残っていないと、「あった」と証明できない。
石や木などに刻まれた文字があれば残るかもしれないが、そういった文字らしいものはない、というのが現在の定説になっている。

漢字が中国より伝わる。

年表に記入したが、「17条の憲法」が書かれたのが604年。
「古事記」が書かれたのが712年。
「魏志倭人伝」が載っている「後漢書」が書かれたのが西暦400年代。「魏志倭人伝」が日本のことであるなら、その記述は西暦280年代の記事が元になっているという説がある。そうすると日本への漢字の伝来は、西暦200年代後半にはあったのだろうと推測される。しかしそれはまだまだ本格的なものではなく、本格的な漢字の伝来と日本での活用が始まったのは、西暦300年代後半から400年代前半だろうと言われている。

「古事記」「日本書紀」とも、上の写真のように漢字で書かれている。
「17条の憲法」の原本や写本は存在しない。「日本書紀」に全文が引用されているのが初出と言われている。「日本書紀」に引用されている「17条の憲法」はもちろん全文が漢字で書かれている。(「日本書紀」「古事記」の写真は「日本語の歴史1」より引用)

変体漢文・和化漢文

左の写真は日本現存最古の「古事記」の写本。
「大須真福寺宝生院」に蔵される「真福寺本古事記」と呼ばれるもの。
応安四年から五年(1372年)に書写されたもの。

「古事記」は漢字で書かれているが、古典中国語文ではない。

このことを知って私はおどろいた。見たところ全部漢字だから、てっきり漢文(中国語)で書かれていると思っていた。
 漢字で書かれているが、日本語の語順で漢字を配列したり、正規の漢文にはない敬語が使われていたり、内容として日本語の歌謡を含んでいるものだそうだ。漢字を使って日本語の文を書こうとしていることが明らかであるそうだ。
日本語の文体の一種として考えてよく、「変態漢文」とか「和化漢文」言われるもので、平安時代の公家の日記や記録に使われているそうだ。

江戸時代の幕府の公用文にも使われているという。へーっ、そうだったのか、平安時代の貴族の日記はこの変体漢文・和化漢文で書かれていたものだったのか。全く知らなかった。
ちなみに「日本書紀」は、「古典中国語」の部分と「変態漢文」の部分があるので、作成に中国人が協力していたことが推測されるそうだ。

上の「古事記」の写真は左の本「図説 日本語の歴史」から引用した。
この本には、実際の日本語の表記の実物写真がたくさん載っており、書かれたそのままを写真で見ることができて、当時の雰囲気が伝わってくるような気がする。

 

 

 

三角点を探る旅 その 11

壱岐・対馬編その7

魏志倭人伝壱岐2 魏志倭人伝は対馬の次に壱岐について記述している。

「又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。
一大國に至る。官を亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里なる可し。竹木叢林多く、三千許りの家有り。田地有り、田を耕せども猶食するに足らず、亦、南北に市糴す。」

意味は、「また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤りか?。壱岐国と考えられている。)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴(米の交易のこと、対馬と同じ)している。 」

この時代の壱岐と違って今は長崎県で第2位の平野面積を誇っている。

IMG_3730米の生産量も多い。9月初めなのにもう稲が実っている。刈り取りをしているところもあった。ガイドさんによると壱岐でもコンバインを使っての収穫も増えてきているそうだが、天日掛け干しの昔ながらの農法がバスの窓から見ることができ、のどかな秋の風景だった。
さてここは、「原の辻遺跡、一支国王都復元公園」。

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原の辻遺跡は紀元前1、2世紀にさかのぼると言われている。弥生時代である。集落の周りに環濠をつくり、大陸との交易がなされていたとは。
権(けん)というのは、竿秤(さおばかり)のおもりのこと。中国製のものであり、これまでは日本では7世紀頃のものが一番古いと言われていたが、それをくつがえす発見だった。魏志倭人伝にいうようにここで「市」があり、竿秤でものを計っていたのだ。余談だが、権力という言葉はこの「権」から来ているとも言われている。
原の辻遺跡は魏志倭人伝にいう「一支国(壱岐国)」の王都だったと特定されている。

壱岐国博物館 復元公園から一支国博物館に移動する。この博物館の設計は黒川紀章さん。屋根に芝生があり自然にとけこんでいる。
館内の丁寧な案内と説明で有名なところ。
私も古代にどのようにして方角や距離を知って船で海を渡ったのか聞いてみた。
「舟は目に見えるところに漕いでいく、というのが基本だったと思います。そして、一日で行ける距離だったでしょうね。夜にならないうちに着けるところを繰り返す、というように」
私は「星などを見て方角を調べるということはなかったのでしょうか」
「何よりも、文字のなかった時代ですから、それはどうだったでしょう」
という返事。そうか、舟乗りまでに文字が浸透しているという時代ではなかったんだな。
地図や海図や六分儀もなかった時代、もちろん三角点も水準点もなかった時代に荒海を渡る人々がいたこと、そして人間の飽くなき追求心にあらためて驚く。
この博物館のそばにある三角点にも行きたかったが、バスが待っているのでここも残念。

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 この二冊の本はとてもよくできている。対馬の民俗資料館で「何も知らない素人の私が読んでも分かる本はありますか」と聞いたとき、この本を紹介され「この本を読んで長崎をもっと好きになってください」と言われた。

ここで対馬編を読み、一支国博物館で壱岐編を買ったが本当に長崎が、というよりも壱岐・対馬が好きになった。
二泊三日の観光旅行も充実した中身だったが、次回はもう少しゆとりを持って見たいものを見て回る旅をしたいものだ。

 

 

 

三角点を探る旅 その 6

壱岐・対馬(いき・つしま)編その2

魏志倭人伝壱岐1「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。」
これは3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」の一節。その当時の日本の様子が書かれていると言われている。
意味は「はじめて一つ海を渡る。一千余あ る。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方 四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食 べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。」
市糴(してき)ということがわかりにくく調べてみると、糴は「米などと買い入れること」で、市(いち→市場のこと)に出かけて米の交易をする意味だとわかった。
こういった記録が残っているところがすごい。

IMG_4498厳原港に近づいて見える風景は、確かに絶海の孤島と感じただろうな、と思える。壱岐に比べると島の周りに切り立った断崖が多い。2000年ぐらい前の人達がどのようにして海をわたったのか不思議だ。地図もなく、もちろん三角点などもない未知の土地の方角や距離をどのようにして計測したのだろうか。

 

対馬三等三角点 対馬には住吉神社が1座、和多都美(海神)−わだつみ−神社が4座ある。
ツアーのコースによると豊玉姫伝説のある和多都美神社に行くことになっていた。そのあと近くの烏帽子岳からリアス式海岸の浅茅湾を眺めるというので、それを楽しみにしていた。この烏帽子岳の山頂に三等三角点があるからだ。
豊玉姫と山幸彦(彦火火出見命−ヒコホホデミノミコト)の間に生まれた子どもの子が神武天皇といわれ、日本の建国神話と大きく関わっているのがよくわかる。また、海幸彦・山幸彦神話の発祥の地が対馬とも言われている。

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和多都美神社には鳥居が5つあり、二つは海の中にある。この日は満潮の時に重なり、三つの鳥居が海の中にあり幻想的だった。海と関係の深い神社だとわかる。安芸の宮島のように海からの参拝があるのだろう。
三角の珍しい三柱鳥居がある。3本の柱に囲まれて、海水の中に「磯良恵比寿(いそらえびす)」と呼ばれる「安曇磯良の墓(あづみいそらのはか)」(伝承)が見えた。

さて、お目当ての烏帽子岳は雨と霧で浅茅湾はチラッとしか見えず。展望台付近に携帯電話のアンテナらしき施設があるが三角点はわからず。山の中の三角点は探しにくい上に、雨と霧では無理。あきらめて展望台をおりる。

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忘れてはならない朝鮮通信使

IMG_3383対馬といえば、朝鮮通信使を忘れてはいけない。万松院(初代対馬藩主の菩提寺)の見学の後、歴史民俗資料館へ行く。左は資料館前にあった朝鮮通信使の碑の写真。そばにはこんな説明があった。
「江戸時代の朝鮮通信使 朝鮮通信使は、慶長12年(1607)から、文化8年(1811)までの間に、12回来日した。それは、日本と李氏朝鮮との間の、善隣友好の誼(よしみ)を通わす国家外交の施設であり、一大文化使節であった。
時に、正使以下500名にも及ぶ一行の来日は、壮麗な絵巻を成し、洗練された学問、芸術と、絢爛とした異文化の香りを伝えるものであった。この朝鮮通信使の有形、無形の行跡は、現在も各地に色濃く遺り、近世、日本が鎖国の時代にも、ことばと慣習を異にしながら、誠心の心による伉礼を交した隣国と、その人々へのさらなる尊崇の情念を拡げさせる。世紀を超えて、今、新しい東アジア国際社会の構築の時に鑑み、朝鮮通信使の恒久的に有する史的意義への思いを深くするものである」(注・伉礼→対等の礼)

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上の左の写真は対馬藩お船江跡で現在の船のドッグのようなもの。朝鮮通信使の船もここに停泊したり修理をするときに使ったようだ(見学の時は干潮時だった)。右の写真はお昼を食べたお店に飾ってあった「朝鮮通信使の行列の絵図」。華やかだったことが想像される。
さて、対馬での三角点の旅はここまで。次は壱岐の三角点を探そう。