アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 15

三日目 マーク・トウェインと「赤毛のアン」

マーク・トウェインの屋敷はとてもユニークな建造物だった。
内部の写真撮影が禁止されていたので、ここでは紹介できない。
温室や伝声管や、凝った壁紙など楽しい作りになっていた。
本がたくさんあり、松本先生の話によると、
マーク・トウェインは独学で勉強して、蔵書にはテニスンの詩集や当時の有名な作家たちの本を取り揃えていたと言う。

なんと「赤毛のアン」も読んでいて、マーク・トウェインはモンゴメリーに絶賛の手紙を送っている。それには、アンのことを次のように言っている。

the dearest and most moving and most delightful child since the immortal Alice
 
直訳すると、
「かの不滅のアリス以来、最も愛らしく最も感動的で最もゆかいな子」
とでもいう意味だろうか。この言葉は「赤毛のアン」のキャッチコピーとして使われるようになったほどだという。(ウィキペディアより)
ここでも「赤毛のアン」と「マーク・トウェイン」のつながりが出てきた。

屋根のあるところに、馬車がやってきて、右側の入口に人が入っていくようになっている。奥に見えている建物はなんと、馬屋。何頭飼育していたのかは聞いていない。

同じ敷地内にある、マーク・トウェインの資料館。これも地下もある大きなもの。

マーク・トウェインは新型の輪転機の開発に援助をし、その事業が失敗したため、この屋敷を売ることになった。そのあと海外での講演や作家活動でその借金は返すことはできたそうだ。上の写真の左側にある黒い機械がその輪転機らしい。

このレゴで作られた人物が、マーク・トウェイン。右側にショップが見える。

ショップには本を始め、マーク・トウェインにかかわる様々なグッズがあった。ここでも「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィン」の本があったのに、日本で買えるからと買わなかった。残念なことをした。

受付のあるロビーの壁には、マーク・トウェインが言ったという警句がいくつか書かれていた。 マーク・トウェインはユーモアのある警句でアメリカ人の好みだそうだ。 写真は、「TRAVEL  IS  FATAL  TO  PREJUDICE 」と書かれている。
「旅は偏見にとって致命的」、つまり「旅をすることによって、自分の偏見をなくしていくことができる」という意味らしい。
原文はもう少し長く、「Travel is fatal to prejudice, bigotry, and narrow-mindedness.」
「旅は偏見、頑固、偏狭をなくさせる」と言う意味だそうだ。なかなか含蓄のある言葉だ。

受付付近に、マーク・トウェインの作品の登場人物の群像があった。
トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンがマーク・トウェインの近くにいる。

日本に帰ってきてから「トム・ソーヤーの冒険」を読み直してみた。子どものころに読んでいたのか(自分でも自信がない)大まかな筋は、わかっていた。時代背景などを考えながら読むと、とてもおもしろかった。今でも、十分に少年向きの本になると思う。

でもこの本の訳者あとがきを読むと、マーク・トウェインはこの「トム・ソーヤの冒険」を子ども向けに書いたのではないらしい。
翻訳者の土屋京子さんは次のように書いている。

「アメリカの友人たちに、「トム・ソーヤーの原文って難しいんだね」という話をしたら、「アメリカじゃマーク・トウェインなんてインテリが読むものよ」という答えが返ってきたり、「中学の時に読んだけど、あちこち辞書で調べながらよんだっけ」という答えが返ってきたり。アメリカ人にとっても、マーク・トウェインは難しいらしい」

「今回、翻訳者としてThe Adventures of Tom Sawyer の原文と向き合ってみたら、「痛快ないたずら小僧の物語」だけでない側面が見えてきた。主人公トム・ソーヤーは12歳かそこらの少年であるが、その冒険を語るマーク・トウェインの筆致は完全に大人に向けたもので、読み手の知性を試すがごとき格調高い文章なのである」

なるほど、では「ハックルベリー・フィンの冒険」はどんな本なのだろう。私は「トム・ソーヤの冒険」は読んでいたが、「ハックルベリー・フィンの冒険」は実は読んでいなかった。

 

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 8

二日目 ボストン市内観光その7       

オーチャードハウスと若草物語

上の写真は絵葉書から(写真撮影が禁止されているので)。
柱に付けられた白い半円のテーブル。オルコットのお父さんのブロンソンが作ってくれたもの。ここで、オルコットは「若草物語」を執筆したという。案内してくれたガイドさんの説明では、家族の生活を支えるために作品を書きつづけ、時間を短縮するために、右手だけでなく左手もつかって書き続けたそうだ。

上の写真は岩波少年文庫の「若草物語」。2013年の発行だから新しい翻訳。
この本のカバーにルイザ・メイ・オルコットについての解説がある。

「アメリカ、ペンシルベニア州に生まれ、「文学の街」として知られるマサチューセッツ州のコンコードで育つ。父は先進的な幼児教育をしたり、「理想郷」の建設を志したりした教育者・思想家。ルイザは、苦しい家計を助けるために、10代から教師などをして働き、そのかたわら小説や脚本を書いた。1854年、「花物語」が出版され、小説家としてデビュー。1868年に出版した自伝的な「若草物語」は、たちまち大評判になり、以後、児童文学の古典として今も、世界中で読み継がれている。」

「若草物語」の原題は「LITTLE WOMEN」。
これは姉妹のお父さんが「幼くても、ひとりの人間として、自分に責任を持って生きるように」と言う願いから、娘達に目標として与えた言葉からきている、ということはよく知られている。
では日本語訳の「若草物語」はどこからきたのだろうか。

岩波少年文庫の「若草物語」の訳者あとがきで、海都洋子さんは次のように言っている。

「1906年、原作が書かれてから38年目に、「アルカット著、北田秋圃抄訳・画」として、「小婦人(しょうふじん)」という署名で、日本に初めて紹介された・・・それから100年以上、日本だけでも、この物語は何十回も訳し直され読み続けられてきました。書名も「四少女」「四人の姉妹」などいくつかあります。いちばん有名な「若草物語」になったのは、
1933年にアメリカで映画化されて翌年日本で公開される際につけられたタイトルが、あまりにもぴったりだったので、以後、この「若草物語」が多く使われるようになったのだと言われています。」(白黒写真がその映画の一場面。インターネットより引用している)

このツアーの目的の一つ、「あしながおじさん」とどこでつながっているのだろう?

松本先生の名古屋での講座での様子を紹介した時にもふれたが、「あしながおじさん」の主人公のジュディは熱心に「若草物語」を読んでいるのである。岩波少年文庫の「あしながおじさん」から、その部分を抜き出してみると、

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・・・・・あたしは、「マザーグース」も、「ディヴィド・カパフィールド」も、「アイヴァンホー」も、「シンデレラ」も、「青ひげ」も、「ロビンソン・クルーソー」も、「ジェイン・エア」も、「不思議の国のアリス」も、ラドヤード・キプリングの作品すら一字も読んだことがなかったんです。・・・・・・・略・・・・・ 
 でも今、あたしはその全部を知っていますし、そのほかのことだってたくさん知っています。それでも、みんなに追いつくには、まだまだ時間が必要なのはおわかりでしょう。・・・・略・・・読んで、読んで読みまくるんです。一冊じゃたりません。いっぺんに四冊読んでいます。今読んでいるのはテニソンの詩集と「虚栄の市」とキプリングの「高原の平和」と、それから、どうか笑わないでくださいね。「若草物語」です。こないだ、この大学で「若草物語」を読まずに大きくなった女の子は、あたしだけだということを発見しました。だれにもいっていません。(そんなことがばれたら、変わり者のレッテルを貼られてしまうこと、まちがいなし。)あたしはこっそり出かけて、先月のお小遣いで、その本を1ドル12セントで買ってきました。これからは、誰かがライムのピクルスの話(若草物語に出てくる話)をしても、あたしはすぐになんのことかわかります。・・・・・

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「あしながおじさん」が出版されたのが1912年。今から約100年前。100年前の女子大生が読む本がどんなものかよくわかる。そのなかで、「若草物語」は読んでいて当たり前ということも、よくわかる。そして「あしながおじさん」の作者、ジーン・ウェブスターが「若草物語」を読んでいたことも類推される。当時の必読の本だったのだ。

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では「赤毛のアン」と「若草物語」の関係は?

「赤毛のアン」は1908年の出版。
左がその初版本の復刻版。カナダで買ってきたもの。
「赤毛のアン」が出版された時、カナダ、アメリカ、イギリス、オーストラリアの新聞雑誌に60をこえる書評が載ったそうだ。そのなかでもロンドンの政治・文芸の論評誌「ザ・スペクテイター」の「赤毛のアンはオルコットの直系の子孫」という書評に大いに喜んだと言われている。
「赤毛のアン」の作者モンゴメリーも少女時代にオルコットの書いた「若草物語」を愛読していたことが、モンゴメリーの日記からわかるそうだ。

それほど「若草物語」の影響は大きいのだろう。

左の写真は売店で買った冊子「オーチャードハウス 『若草物語』の家ー『若草物語』とオルコット家の人々」からとったもの。
ルイザ・メイ・オルコットの執筆しているところ。
一番最初の絵葉書にあった半円のテーブルはまだない。書き物机で原稿を書いている。

ルイザは1888年3月1日に病床の父親を見舞いに行っている。父親は3月4日に亡くなり、ルイザはその2日後に、父親の後を追うように亡くなっている。
彼女は南北戦争中に病院で看護師として働いていた。その時に水銀中毒になり、その後もその後遺症で健康状態は悪かったと言う。満55才でこの世を去っている。

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「若草物語」のオーチャードハウスの見学の後、私たちはソローに関係する場所を訪れるために移動する。

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 2

二日目 ボストン市内観光その1

朝食のレストラン。1階のロビー横、エレベーターからすぐのところにあり、レストランのそばにはスターバックスがあった。
日本のホテルのモーニングのようにバライティな食品が並んでいるのではなく、パンやシリアルなどの基本的なものが多かった。また野菜も少なく、コンチネンタルブレックファーストとでもいうものだろうか。

今日はこのツアーの中でも一番ハードな日。時差ボケの頭で、身体はついていっても、頭の働きがついていかない。

6時半ごろから朝食を食べ、8時にバスに乗る。バスに乗って市内観光をしながら、
ロングフェロー邸、ハーバード大学に行く。昼食の後、若草物語の舞台であるコンコードへの移動。そしてボストンに戻ってきてボストン美術館の見学ともりだくさん。

このビルが、1907年、モンゴメリーさんが32才の時、「赤毛のアン」の原稿を持ってきた「L・C・ペイジ社」。この会社が出版を引き受けたことにより、「赤毛のアン』は世界的に有名になった。バスの中から撮影する。ボストン・コモン(アメリカ最古の都市公園)のそば。

上の写真は旧州議事堂。1713年に完成したもの。ここのバルコニーで「独立宣言」が高々と読み上げられた。1776年7月18日のこと。今は高層ビルに囲まれているがその美しさは歴史を表している。

バスに乗ってやってきたのが、ロングフェロー邸。
この屋敷にロングフェローは、1837年から1882年まで住んだそうだ。
また、ロングフェローが住む前に、ジョージ・ワシントンが1775年から1776年のあいだの住まいにしていたという、歴史的な建物。国立史跡に指定されている。国立公園直属のバークレンジャーさんが案内してくれた。

 

上の写真の左端に写っているのが、バークレンジャーさん。お名前をわすれてしまった・・・。 レンジャーという名前のように、西部劇のテレビに出てくるような制服姿。笑顔の素敵な、アメリカ女性(だと思う)。
見学は正門からではなく、裏側にあるビジターセンターより入った。

屋敷の入り口の庭にある立て札には

House Built by Major John Vassall
        Headquartered of
             General
    George Washington
        1775 = 1776
—————————————-
             Home of 
    Henry Wadsworth
        Longgellow
  1837 – 1882

と書かれている。1759年にイングランド出身のヘンリー・ヴァッサルー(Major と書かれているので大佐、中佐、少佐?)が建てたもの
独立戦争中にジョージ・ワシントンが司令部として使い、ここに滞在している。
独立戦争後、この家の持ち主は、クレーギー家にうつった。
1830年、ロングフェローは、この家の2室を借りて下宿する。その部屋の一つがワシントンが司令部として使った部屋と言われている。その部屋が下の写真。

上の写真が正門。2階の右側の部屋が、ワシントン時代に司令部として使われ、ロングフェローの下宿部屋になったそうだ
上の右側の写真は、正門のドアを開けたところにある玄関口と二階に上る階段。
ワシントンはこの階段を心配そうな顔をして昇ったり、降りたりしていたと伝えられている。

ロングフェローと言う名前は聞いたことはあるがどんな作品を書いたのかというと、私は恥ずかしながら全く知らなかった。
左がロングフェローの胸像。イギリスのウェストミンスター寺院にアメリカの詩人としてはじめてその胸像が置かれているそうだ。それぐらい有名な詩人なのだ。

日本に帰ってから、図書館でロングフェローの代表作と言われている「エヴァンジェリン」を借りてきた。
ツアーのバスの中で、松本先生の解説があったが、アメリカ独立前の悲恋の話。1847年の作品である。この文庫本の解説には、
「エヴァンジェリンは、18世紀の半ばから末葉にかけて、イギリスとフランスが新大陸の植民地に、勢力を争った時代の物語である。アカディーAcadieの國と云うのは、今のノヴァ・スコシア Nova Scotia であった。フランス系の移民村の、日光と仰がれたエヴァンジェリンは、結婚の間際に、生き別れとなった其夫を跡を尋ねて、廣い今の合衆国のあちらこちらを漂(さす)らったのであった・・・」

エヴァンジェリンと恋人ギャプリエルが再会した時は、ギャブリエルは死をむかえる直前であった。
この悲恋の物語は大きな反響を起こし、全世界に知られるようになった。この作品によってロングフェローの名声が確立されたともいわれている。私はこの本のほとんどを声に出して読んだ。そのほうが実感できるとおもって。
イギリス軍が村を焼き払い、家族をバラバラにしたという歴史的実話をもとにしている。あらためてアメリカ独立の背景を考えさせれる、インパクトのある哀詩である。文学の世界は、文学の中に閉じこもるのではなく、外の世界に大きな影響力を発揮するという実例だと思った。

「赤毛のアン」とロングフェローとはどういう関係があるのだろう。 松本侑子さん訳の「赤毛のアン」の注にこうここれている。

第31章 (1)小川と河が出会うところ(P361) ‥‥アメリカの詩人、ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩『乙女』の一節から引用したもの。小川と河の合流点とは、何なのか。そしてモンゴメリは、なぜこの一節を第31章のタイトルに引用したのか。  『乙女』の詩では、「小川と河が出会うところ」という一節の次には、「女らしさと少女らしさがかけ抜けていく!」と続いている。つまり合流点とは、少女と女性の合流点である。本章(8)参照。

これを読んであらためて31章を読むと、章の題名に「小川と河」と書かれているが、本文には「小川」も「河」も出てこない。何かを象徴していることが想像できるが、それに答えたのが松本先生の解釈だ。

松本侑子さんのホームページに、「モンゴメリーについてのデジタルライブラリー」がリンクされている。そこにはこの詩の全文がのっているが、上の注に関係のある部分を引用すると、

Where the brook and river meet,
 Womanhood an childhood fleet !

また、第7巻「虹の谷のアン」(1919年刊行)の題辞にロングフェローの詩「失われし青春」の一説が引用されている。

And the thoughts of youth are long, long thoughts
若き日の想いは、遠い遠い想い(松本侑子訳)

「赤毛のアン」の作者のモンゴメリーさんが、ロングフェローをはじめ沢山の詩や小説を読んでいたことが想像される。また、それほどロングフェローの作品がアメリカで読まれ、愛されていたことも想像できる。ロングフェローについての興味が湧いてきた。

*松本侑子さんの「モンゴメリー デシタルライブラリー」は以下にリンクされている。

http://office-matsumoto.world.coocan.jp/mel01.htm