2017年寿初春大歌舞伎

松竹座の「寿初春大歌舞伎」に行った。中村橋之助さんが中村芝翫になるという襲名披露があるので、昨年から楽しみにしていた。
お正月、元日からいいお天気が続いていたのに、この日は生憎のお天気。雨足も強い。
でも難波高島屋から、道頓堀までの人は多い。1月の三連休を楽しもうという人が多いのだろう。相変わらず外国人客も多そうに見える。

この初春大歌舞伎では、橋之助さんだけではなく、橋之助さんを含めて4人の襲名披露があった。それも橋之助一家揃っての襲名披露なので、普段以上に華やかな雰囲気の松竹座だった。

これは祝幕の写真。舞台前の時間だったので、遠慮しながらiPhoneのシャッターを押すが、あちこちで同じような姿が見られた。係の人も通っていたが、特に咎める様子もなく、襲名披露なので黙認なのかもしれない。
祝幕にあるように、
中村橋之助あらため、中村芝翫(八代目)
中村国生あたらめ、中村橋之助(四代目)
中村宗生あらため、中村福之助(三代目)
中村宜夫あらため、中村歌之助(四代目)
という豪華な襲名披露公演で、成駒屋にとっても大きなイベントにちがいない。

左の写真は松竹座ロビーに展示されていたもの。
一番年下の四代目中村歌之助さんは、現在15歳で中学三年生。写真からすっかり成長しているのがよくわかる。
お母さんの三田寛子さんの苦労が想像されるが、歓びも大きなものがあるに違いないと、他人事ながらエールをおくりたい気分。

私の見た演目は、夜の部なので、まずは舞踊の「鶴亀」。
人間国宝の坂田藤十郎さんが女帝、そして鶴に扮した橋之助さん、亀に扮した福之助さん、そして従者の歌之助さんの舞の舞台。
若々しい舞踊が、初春の風を吹き込むような演目だった。

そして一番期待していた「口上」。
舞台には坂田藤十郎さんを中心にして16人の役者さんの姿が並ぶ。
上手から、片岡仁左衛門さん、中村東蔵さん、坂東彌十郎さん、片岡進之介さん、片岡孝太郎さん、中村鴈治郎さん、片岡秀太郎さん、坂田藤十郎さん、中村芝翫さん、中村橋之助さん、中村福之助さん、中村歌之助さん、中村児太郎さん、中村魁春さん、片岡我當さん、中村梅花さんの姿が並ぶ。
これだけの人数が並ぶと華やかさの上に豪華さがある。
中村芝翫さんの決意の口上の後の若い3人の青年の口上は爽やかである。これからたいへんだろ〜なあ、と思いながら、人材というのは環境によって育ち、創られていくものなんだと胸に響く。

「勧進帳』は、武蔵坊弁慶を中村芝翫さん、源義経を中村魁春さん、そして富樫左衛門を片岡仁左衛門さんという顔合わせだった。
「勧進帳」は何回か見たが、見るたびに新しい発見がある。それだけに各時代の名優たちが工夫をこらしてきたからだろう。長いセリフ、立ち回り、舞など歌舞伎の醍醐味がそこに凝縮されているからだろう。
静の片岡仁左衛門さんの富樫、動の中村芝翫さんの弁慶。年始の演目としては見ごたえのあるものだった。飛び六方で花道を去る芝翫弁慶に「ご苦労様」と、拍手に力が入った。

最後の「雁のたより」は、「上方和事の味わいがあふれている」といわれている作品。鴈治郎さんのセリフと所作が大阪らしさを出しているように思えた。それにしても鴈治郎さんは先代にそっくりになってきている。声などもそう。これも芸の伝統なのかもしれない。
話の筋は少々ややこしいものだったが、番付を読んでいたので納得。
第2場での、鴈治郎さんの髪結いと、お客の中村芝翫さんとの軽妙なやり取りも、歌舞伎ならではのもの。毎日アドリブなんだろうなあと思いながら、弁慶とは全くちがった柔和な中村芝翫さんに笑いと拍手がわく。
主人公の髪結いが家老の甥で、傾城だったお部屋様がなんと許嫁だったという、なんとも夢物語のようなお話で、最後に「めでたしめでたし」となるので、これもお正月の演目としてはニッコリ笑えるものになっていた。

ロビーには、襲名に関係する写真や展示があり、いつもの歌舞伎とは一味違うはなやいだ雰囲気があった。 片岡仁左衛門さんの奥さまの博江さんが、幕間のたびに廊下やロビーでご贔屓筋らしい人と談笑している姿があった。三田寛子さんの姿は?と探してみたが見当たらなかった。これもお正月の歌舞伎見物の楽しみの一つ。
歌舞伎が終わってもまだ雨が降り続いていた。雨降って地固まる、今年が良い年でありますように。

 

 

 

顔見世興行 in 先斗町歌舞練場

京都の顔見世興行に行ってきた。

顔見世興行をウィキペディアで調べてみると、次のような解説があった。

「顔見世(かおみせ)は、歌舞伎で、1年に1回、役者の交代のあと、新規の顔ぶれで行う最初の興行のことである。江戸時代、劇場の役者の雇用契約は満1箇年であり、11月から翌年10月までが1期間であった。したがって役者の顔ぶれは11月に変わり、その一座を観客にみせ、発表するのが顔見世であった。
歌舞伎興行において最も重要な年中行事とされる。
現在も11月(歌舞伎座)か12月(10月(御園座)のところもある)に全国の劇場(芝居小屋)で行われるが、なかでも京都南座の12月顔見世公演は、最も歴史が古いことで有名で、劇場正面には役者の名前が勘亭流で書かれた「まねき」と呼ばれる木の看板が掲げられ、京都の年末の風物詩となっている。(まねきが掲げられるのは、南座と御園座で、歌舞伎座は掲げられない。)」

その南座が工事のため、今回は場所が変わった。

「先斗町歌舞練場」である。私はここは今まで一回も行ったことのないところ。
京阪三条まで行き、三条大橋を渡ってすぐのところだった。

顔見世といえば「まねき」、とウィキペディアにも書いてあったが、本来は下の写真のように役者の名前を書いた木の看板がずらりと並ぶ。(番付からコピーしたもの)

ところが今回は場所が変わったので、下の写真のような「まねき」となった。

さて演目は三部構成になっていた。 私が見たのは最終の午後5時45分開演のもの。「引窓」と「京鹿子娘道成寺」の二つだった。

「引窓」は番付によると、「寛延2年(1794年)に竹田出雲、三好松洛、並木千柳が合作した9段の世話物双蝶々曲輪日記」の8段目です。十五夜の前日の田舎家を舞台に、実と義理の親子が繰り広げる人情劇で、引窓が効果的に使われています」とある。

二階からのぞいた姿が、月の光で一階にある手水鉢に写る。天井の引窓をしめて闇にして、その姿が写らなくする。あるいは引窓を開いて満月の月明かりが差し込むのを夜明けを見立てるなどの効果をねらっている。と言う仕掛けになっているが、現代の明るい舞台では、その事を知っていないとわかりにくい人も多いと思う。

歌舞伎は江戸時代の生活がタイムマシンのように凝縮されていると、故中尾健二先生(大阪教育大)が言われていたが、この引窓もその一つだろう。

片岡仁左衛門さん、片岡孝太郎さん、坂東彌十郎さんの演技が、しみじみとした親子の情愛をかもしだしていた。
今の時代から見たら、犯人を見逃すわけだから、ちょっとまってその脚本、となるかもしれない。が、時は江戸時代。江戸時代の身分制度が生み出す圧力と義理人情がこういった作品を生み出したのかもしれない。

二つ目は「京鹿子娘道成寺」。

番付には「宝暦3年(1753年)に初世中村富次郎が初演した長唄舞踊です。能「道成寺」を素材にしていますが、小唄をつなぎ合わせた組曲で、満開の桜のもと、桜の着物を着た美しい女方が、様々な女心を衣装を変えて踊る華麗さが見どころです。雀右衛門の襲名披露狂言です。」とある。

1時間近くを踊り続けるのだからその体力も気力も大変のものと思う。
鞠をつく踊りでは、膝を曲げて子ども仕草で踊るわけだが、まわりのお客さんから「あれはしんどいわ〜」という声が出る。

番付にもあるように、この演目は五代目中村雀右衛門さんの襲名披露をかねている。

襲名披露の口上は、お昼の部にあった。口上を見ることはできなかったが、さぞかし華やかなものだっただろうと想像する。

番付に南座からの「口上」がのっていた。

 乍憚ら(はばかりながら)口上

行く水の流れは絶えず鴨の川。四条上がって先斗町。歌舞練場に場所を移し。今年も引き継ぐ芝居の伝統。酉年吉例顔見世の、幕開き飾るは源の。旧恩忘れぬ実盛が。心気を砕き物語る。母様の敵と挑む太郎吉に。再会約す手孕村。契りし婿を尋ね来て。戸無瀬が走れば小浪もと。心も逸る東海道。願うは白無垢新枕。此処で出会うが百年目。梅、松、桜の兄弟が。引き合う車意趣遺恨。心の表と裏腹に。拗ねて甘えた伊左衛門。夕霧洩らす衷情と。勘当解けた歓びに。春も其処まで郭文章。花の吉原仲ノ町。今評判の江戸の華。傘の謂れを朗々と。今より語って三升傘。浜の真砂は尽きるとも。尽きぬ親子の情愛に。真心厚き十次兵衛が。縄は切っても切れぬ縁。生けるを放す放生会。供養の鐘に怨みあり。請われて踊る白拍子が。顕す蛇体の本性を。歌舞伎の花と押し戻す。目出度う退散祝い幕。
 東西の名優花形打ち揃い。雀右衛門の庵看板(まねき)も新しく。當狂言家の芸。集めて贈る華舞台。御見物衆の満足と。相変わらずのご贔屓を。力と頼み本年も。得たりや大入り満員と。何卒賑々しく御光来の程。偏にお願い申し上げまする。
                           南座 敬白
平成28年師走

「道成寺」といえば清姫の怨念凄まじく、蛇に姿を変えるのは誰もが知っている話。
ここでこの蛇を退散させるのが、市川海老蔵演ずる大館左馬五郎(おおだてさまごろう)。青竹と長い刀を腰に差し、大音声とともに登場する。まあその姿の勇壮なこと。歌舞伎ならではの装束。市川海老蔵ならではの睨みは、この世の悪を全て追い払ってくれるような迫力だった。海老蔵さん一家の安泰と活躍を祈るとともに、この世の中が平和であることを願わずにはいられない演目だった。

先斗町歌舞練場は初めての場所だったが、なかなか見やすい劇場だった。歌舞伎を見に来ている人も松竹座に比べて和服姿が多く、さすが京都とおもう顔見世興行だった。

 

 

 

 

七月大歌舞伎 in 松竹座

通し狂言 絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)

IMG_7253

「通し狂言 絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」を観劇した。
調べてみると、この歌舞伎は、天王寺の合邦辻閻魔堂で実際に起こった敵打ちをテーマにしているらしい。鶴屋南北は読本『絵本合邦辻』を原作として、左枝大学之助と太平次という極悪人を主人公にして、悪事の限りを尽くさせている歌舞伎になっている。いやー、ホントに何人の人が斬られることか、文化7年5月5日(1810年6月6日)江戸市村座初演、全七幕。というもの。

IMG_7252

ボスターのように片岡仁左衛門が、佐枝大学之助と太平次の二役をやっているのがおもしろい。同じように、うんざりお松と弥十郎妻皐月を中村時蔵、高橋瀬左衛門と弟高橋与十郎(合法役も)を中村歌六が演じている。
沢山の人物が出てくるので、その人間関係を理解するのが大変。舞台を見ているとなんとなくついていけるのだが、事前に内容をもっとしっかり知っておいたら、といつも思う。

買った番付を見ながら、人間関係を書いてみると次のようになった。(クリックすると拡大します)

IMG_20150718_0001
基本的には仇討ちものになると思うが、上の図のように登場する主な人物はほとんど死んでしまう。 この歌舞伎は今でいうR18指定の演劇だと言っていい。よい子の皆さんは絶対に真似をしないでください、とテロップが出そう。

1810年といえば、明治維新の50数年前、江戸時代も末期に近づいているわけだが、いったいどんな時代背景がこんな劇を生みだしたのだろうかと思ってしまう。

IMG_20150716_0001

番付の朝田富次さんの解説によると、「・・・もちろん、隣人に彼らがいては大迷惑だ。芝居の敵役だからこそ安心なのだが、現実の世界と虚構の世界は交錯している。南北が筆をふるったのは19世紀前半、観客は舞台の敵役を見ながら現実の悪を思い合わせ、怖気をふるい、楽しみもし、ときに悪について考えたのではないか。・・・時代も豪華趣味の家斉が将軍のせいか、制度がゆるみ、文化が爛熟した。いまでいう自由はないが、庶民が自分の考えを開陳し、手足を伸ばせる自由を持った時代であったようだ。「絵本合法衢」にみるような悪の華は、建前は勧善懲悪の社会のすき間に咲いたものだろう。すき間に咲いても枯れもしないで現代に華を見せている。すごいことだと思う。」

この歌舞伎自体は幕末までは上演を重ねたが、明治に入ると文明開化の高尚趣味の影響を受けて上演の機会がなくなったそうだ。大正期に二世市川左團次の復活上演を経て、昭和40年(1965年)に芸術座で復活上演され、これを契機に上演の機会に恵まれるようになったそうだ。そうすると最近になって人気になってきた演目と言えそうだ。確かにこの先行き不明な時代の方が「絵本合法衢」にぴったりと合ってきたように思う。

IMG_7244

今回の座席は前から4列目、しかも花道のそば。こんな役者さんに近いところだと、こちらのほうが恥ずかしくなってくる。
こんな間近で仁左衛門さんや秀太郎さん・孝太郎さんを見てもいいの?、足の指まで見える。衣装の細部まで見ることができ、歌舞伎に残る伝統技法の素晴らしさにふれることもできた。

仁左衛門さんが扇に隠して舌をペロッと出すところもはっきりと見える。
「片岡仁左衛門、惡の華、一輪」とポスターに書いてあるが、確かに仁左衛門さんならではの悪の華だったと思う。

「歌舞伎公式総合サイト 歌舞伎美人」に次のような仁左衛門さんの記事があった。

芝居だからこそ楽しめる“悪の華”
           ――『絵本合法衢』
 通し狂言『絵本合法衢』では、仁左衛門は大学之助と太平次の2役を勤めます。テクニックで演じ分けるのではなく、「大学之助は大敵(おおがたき)といわれるほどの人物ではないけれど、国を乗っ取ろうとする武士の極悪人。太平次は市井の小悪党。計算して変えるのではなく、大学之助、太平次という人間としてやれば、自然と2役は変わってきます」と、語りました。

 「役者はどうしても“本人”が出てきてしまうもので、潜在意識にないことをしようとすると、ぎこちなくなります。私は技術よりもそのものにぶつかっていくタイプ。非常に複雑な人間で、昼の部の伊織も本当の私なら、夜の部の極悪人も本当の私です。劇場空間ではそんな悪も楽しんでもらえる。不思議な世界です」と続けました。

 この公演では『鈴ヶ森』と『絵本合法衢』、二つの南北作品が並びました。南北の描く人物は、仁左衛門いわく、「人間が“なま”なんです」。太いタッチでいきいきと書かれているので、黙阿弥のようにきっちりしたせりふと違って「字余りのせりふも結構あるのですが、演者としてはすんなり役に入っていけます」と、今回の上演に当たっても意欲を見せました。

http://www.kabuki-bito.jp/news/2015/05/post_1409.html

仇討ち者だから最後には、大学之助も太平次も死ぬわけだが、番付のあらすじにも「見事に大学之助を討ち果たし、兄や弟の恨みを晴らすのであった」と書いてある。
こんなにも簡単に人が斬られていく最後はどんな場面で終わるのだろう? ちよっと不安だったが、なるほどこんな風に幕を閉じるのかと納得する終わり方だった。
「この番組はフィクションです。登場する人物、団体名は実在の物とは関係ありません。」というわけだ。

台風が中国地方を縦断する前に見た歌舞伎、夏に咲いた惡の華一輪。
余韻の残る出し物と役者さん達の名演技だった。