沖縄の6月 その8

艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽーぬくぇーぬくさー)

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バスから見た宜野湾市役所。 玄関に大きな横看板。「健康都市 特定健診」の他に「普天間飛行場早期返還!オスプレイ配備反対! 政府は日米地位協定を抜本的に見直せ」と書かれている。政治と生活が密着している。

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今回のツアーで多くの人の話を聞くことができた。
お聞きした話をここで逐一紹介することはしないが、戦争体験をはじめ、戦後の様々な分野での活動をされてきたきた人たちのお話は何ものにも代えがたい。あらためてこの場を借りて感謝と今後のご活躍を祈念したい。
ありがとうございました。

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こういった立て看板は沖縄でしか見られないものかもしれない。すぐそばに基地問題がある。

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講演をお聞きした場で買った本。
石原さんの本「沖縄戦を語り継ぐ」の帯には次のように書かれている。
「七歳の少女は、ひとり生き残った。ー
もはや精魂尽き果て、泣く力も起き上がる力もなくなった私は、今度は私が死ぬ番。これでやっと死ねる、これで妹たちと一緒に母の待つところへゆける。早くゆかねば母が待っている。早くゆかねばと焦りながら、召されし妹たちの間で小さくなり、土につずくもった。(本文より)」
まさに「地獄からの魂の叫び」である。

「艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽーぬくぇーぬくさー)」は、比嘉恒敏(ひがこうびん)さんの作詞作曲の歌。この歌の背景を詳しく取材した本。
私も今回のツアーの学習会で、「この歌をみんなで歌いますので、練習します」ということを聞いたのが、この歌とのはじめての出会い。

この本の作者、仲松昌次さんはこう書いている。

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「艦砲ぬ喰ぇー残さー」、艦砲射撃の喰い残し、沖縄戦の激しい戦火から生き残った人間を、艦砲射撃が喰い残したもの、と表現する。
 アメリカ軍の猛烈な爆撃にさらられた沖縄、人々は「鉄の暴風」が吹き荒れたと言った。そして、その鉄の暴風からかろうじて生き残った者、生き残された者を艦砲射撃の喰い残し、「艦砲ぬ喰ぇー残さー」と、これまた強烈な言葉で表現する。
 その強い言葉が沖縄民謡のタイトルとなり、時代を超えて歌い継がれてきた。
 一番から五番までの歌の最後に繰り返されるフレーズ

 うんじゅん我わんにん
 いゃーん我にん
 艦砲ぬ喰ぇー残さー

 あなたもわたしも、おまえも俺も、艦砲の喰い残し
吹き荒れた鉄の暴風からも、艦砲射撃からもかろうじて生き残ったあなととわたし。
 

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  艦砲ぬ喰ぇー残さー
作詞・作曲 比嘉恒敏/訳詞・朝 比呂志 


若さぬ時ねー 戦争ぬ世  (ワカサルトゥチネー イクサヌユー)
若さる花ん 咲ちゆーさん (ワカサルハナン サチユーサン)
家ん元祖ん 親兄弟ん (ヤーングヮンスン ウヤチョウデーン)
艦砲射撃ぬ的になてぃ   (カンポウシャゲキヌマトゥニナティ)
着る物 喰ぇ物むる無ーらん(チルムン クェームンムルネーラン)
スーティーチャー喰でぃ暮らちゃんやー(スーティーチャーカディクラチャンヤー)     
うんじゅん我んにん (ウンジュンワンニン)
いやーん我んにん (イヤーンワンニン)
艦砲ぬ喰ぇー残さー (カンポーヌクェーヌクサー)

(訳詞) 
若い時分には戦争ばかり
若い花も咲かさずじまい
家屋敷 ご先祖 肉親
艦砲射撃の的になってしまい  
衣 食 何もかも失い
蘇鉄を糧にして暮らしを立てたもの
あんたも わたしも 
おまえも おれも
艦砲の喰い残し


神ん仏ん 頼ららん        (カミンフトゥキン タユララン)
畑や金網 銭ならん (ハルヤカナアミ ジンナラン)
家小や風ぬ うっとぅばち (ヤーグァーヤカジヌ ウットゥバチー)
戦果かたみてぃ すびかってぃ (センクヮカタミティ スビカッティ)
うっちぇーひぃちぇー むたばってぃ (ウッチェーヒッチェー ムタバッティ)
肝や誠る やたしがやー (チムヤマクトゥル ヤタシガヤー)
(くりかえし・略) 

(訳詞) 
神も仏も頼れず 田畑は
金網囲いで 日銭にもならず
ボロ家なんで暴風にいかれ
米軍のくすね物で補い
したたかに いたぶられ
沖縄人の心がけは正直なれど…

3 
泥の中から 立ち上がてぃ (ドゥルンナカカラ タチアガティ)
家内むとぅみてぃ妻とぅめてぃ (チネームトゥミティ トゥジトゥメーティ)
産子ん生まれてぃ 毎年産し (ナシグァンウマリティ メーニンナシ)
次男 三男 チンナンビー (ジナン サンナン チンナンビー)
哀りぬ中にん 童ん達が (アワリヌナカニン ワラビンチャーガ)
笑い声聞ち 肝とぅめーてぃ (ワライキーチチ チムトゥメーティ)
(くりかえし・略)

(訳詞) 
泥の中か起ち直り
家みたいなものを建て妻をめとり
子供も産まれ年子つづき
次男三男つぎつぎぞろぞろと
苦難の道ではあれ
子らの笑い声は心を落ち着かせる

4 
平和なてぃから 幾年か (ヘイワナティカラ イクニンガ)
子ぬ達んまぎさなてぃ居しが  (クワンチャーンマギサナティウシガ) 
射やんらったる 山猪ぬ (イーヤンダッタル ヤマシシヌ)
我が子思ゆる如に (ワガックヮウムユルグトゥニ)
潮水又とぅんでぃ思れー (ウスミジマタトゥンディウムレー)
夜ぬ夜ながた 眼くふぁゆさ (ユルヌユナガタ ミークファユサ)
(くりかえし・略)

(訳詞) 
平和の世を迎え何年経ただろうか
子らも生長していくと
射りそこないの猪が
わが子を案じるごとく
(苦い)潮の水は二度との想いで
夜っぴて眠れぬ日もあり


我親喰ゎたる あの戦争 (ワーウヤクァタル アヌイクサ)
我島喰ゎたる あの艦砲 (ワーシマクァタル アヌカンポー)
生まれ変わてぃん 忘らりゆみ (ウマリカワティン ワシラリユミ)
誰があぬじゃま しー出ちゃが (ターガアヌジャマ シーイジャチャガ)
恨でぃん悔やでぃん飽きじゃらん (ウラディン、クヤディン、アキジャラン)
子孫末代 遺言さな (シスンマチデー イグンサナ)
うんじゅん我んにん (ウンジュンワンニン)
いゃーん我んにん (イヤーンワンニン)
艦砲ぬ喰ぇー残さー (カンポーヌクェーヌクサー)

(訳詞) 
わが親喰らったあの戦
わが島喰らったあの艦砲
生まれ変わったとて忘るものか
恨んでも悔やんでも飽きたりない
子孫末代まで遺言しよう
あなたも わたしも
おまえも おれも
艦砲の喰い残し

この本の紹介のためにネットを見ていると、この歌の歌碑のことを書いてあるブログを見つけた。(歌詞はこのブログより引用)

http://www.okinawa100.info/180/post-30.html

YouTubeに、この歌を作った比嘉さんの娘さんたちの歌声が紹介されている。

https://www.youtube.com/watch?v=yzQCYrm5ssg

この歌を私たちは沖縄についた日の講演会、そして辺野古に行った翌日の講演会で歌った。内容を知るたびに、歌に託された思いが伝わる。

この「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の本で歌碑のことが紹介されている。私たちはこの歌碑まで見学することができなかったが、歌碑の除幕式に向けて練習していた中学校の様子が紹介されている。

「ウチナーグチの歌詞は今では、地元の子供達にも理解不能だ。・・・・・。
先生が一節一節の言葉の意味を解説する。ウチナーグチの独特な表現に、ときには生徒たちの笑い声も起きる。そして子どもたちが歌う。歌声にかぶせて先生の指示が飛ぶ。
「もっとテンポよく! 暗く歌わないで! これは、希望をつなぐ歌だから!」

悲惨な体験から生まれた歌、でもそれが地元の人達にとっては「希望をつなぐ歌」。
ここに沖縄に生きる人達の力強さを感じた。
そんな歌がこの「艦砲ぬ喰ぇー残さー」だ。

 

 

 

 

沖縄の6月 その7

辺野古

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         警告
このフェンス等に以下の行為を行うことは禁止されており、
日本国の法令による処罰の対象となりうる。
ー物を取り付けたり貼り付け行為。
ー汚す行為、破損する行為、取り除く行為、
違反行為は日本国警察に通報する。

       海兵隊大西洋基地

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写真のようにフェンスに横断幕や檄文や垂れ幕を貼ってはいけないということだ。この横断幕を貼ってあるフェンスは座り込みをしている人たちのテント側のフェンス。もちろんフェンスの向こうに見える建物は米軍のもの。
写真の警告の看板は座り込みをしているテントの道路向かい側、基地の入口付近にあったもの。

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IMG_5158 基地入口での様子。デモ隊と機動隊。
下のスピーカーを持っている人たちが機動隊員。サングラス、マスク、帽子で顔を見えなくしている。手にはハンドマイクとカメラ。勝手にデモ隊の写真を撮っている。
スピーカーからの呼びかけは思ったよりも丁寧。かつて御堂筋デモをしていた時の機動隊員の高圧的な口調ではない。

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フェンスにはられている掲示板。

「米国海兵隊施設
この黄線の内側からは提供施設内です。許可なく立ち入った者は日本国の法令により処罰される。」

自分たちの国にこんな金網で囲いを作り、掲示板や警告で立ち入りを禁止されるなんて、ここはいったいどこなんだろうかと思うと、やりきれない。

ため息が出てくるが、沖縄の人たちの息の長い抵抗を目の前にすると、粘り強い闘い、草の根の闘いの意味がわかってくる気がする。

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座り込みを続けている人たちへの激励と連帯の行動だが、逆に大阪では何ができるのだろうか、と問われる。
バスに乗って、辺野古の海側を見に行くことになる。

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IMG_5205向こう側がシュワブ基地。

砂浜から沖を見ると、漁船のような船が何隻か見える。

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沖縄防衛局の船のようだ。

あらためて普天間基地移設問題を考えなくては、とWikipediaを見る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E5%A4%A9%E9%96%93%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C

長い歴史と経過があるのだとあらためて思う。
大阪にいる私たちが、関心を持ち続けなくてはならない問題だと思う。

 

 

沖縄の6月 その4

6月23日の平和祈念公園 

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追悼式が終わった後の会場。ゆっくりと手を合わせる人があとをたたない。

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向かって左に内閣総理大臣の献花、右に沖縄県知事の献花があった。IMG_4954

当日の報道では、

追悼式には首相のほか衆参両院議長、ケネディ駐日米大使ら4700人が出席。犠牲者の冥福を祈り、正午の時報に合わせて1分間の黙とうをささげた。

71年前のこの日は、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされ、沖縄県では休日となっている。犠牲者の名を刻んだ同公園内の「平和の礎(いしじ)」には、今年新たに84人が追加され、刻銘者数は計24万1414人となった。

というような記事がネットにあった。

平和祈念公園1

平和祈念公園は広い。その中にある幾つかの施設を見学した。

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IMG_4966安倍首相が来るので、多くの警察官が沿道に整列している。 沖縄県警の白バイも止まっていた。安倍首相が退席するところが目の端にとまったが、黒い服の人たちの集団が動いていたのがわかった程度でどの人がだれとはわからなかった。 写真の灯台のような白い建物は、平和祈念堂。

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韓国人慰霊塔。石の小山は、韓国各地から集められた石を積み上げて出来ているという説明がかかれていた。

那覇市のホームページには次のような解説があった。

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平和祈念堂をバックにして建っている。石塚を中心に韓国の各地域から集められた石が並ぶ、塚の前の 円形広場にはさまよえる魂のために故国への方向を示す矢印がある。(注 慰霊碑の写真二枚目に矢印が見える)
朝鮮半島から強制的に連行されてきた人々はもっとも立場の弱かった。そのためもっとも危険にさらされ、かつ虐殺された人もいた。

【韓国人慰霊の塔碑文】
1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。

願わくば安らかに眠られよ 1975年8月   韓国人慰霊塔建立委員会

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子どもの絵画の作品は、このあと訪れた平和記念資料館で行われていた作品展で優良賞だったもの。韓国の子どもも日本の子どももアメリカの子どもも一緒に手をつないでいる。
沖縄の子どもの夢と希望なのだろう。