分数の計算④

私たちの分数感覚 → 1/2 は 0.5 か?

私たちの「分数に対する感覚」を気づかせてくれるのがこの本。

左の「数量的な見方考え方」の著者板倉さんは次のように書いている。

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「・・・私たちは、学校で教わる算数とは別に、<現実の事物の数量的な問題をうまく取り上げるいろんな知恵>を身につけていることにも注意しなくてはいけないのではないだろうか」

「私たちは日常的によく『半分』という言葉を口にする。それなら、この『半分』というのは 『1/2 のことであるから、0.5 のことだ』と言っていいのかというと、そうではないだろう。
 もともと、現実の事物を数量的にとらえるときには、誤差がつきものであり、近似的にならざるを得ないことが多いものだが、 1/2 と 0.5 では誤差の幅がかなり変わってくるからである。
実際の場面で 1/2 といったとき、(場合にもよるが)それは『1とも0とも言い難い、その中間ぐらいというほかない』とか『1/3 ほど少なくはなく、2/3 ほど多くない』といったことを意味するであろう。
ところが、これが 0.5 となるとだいぶ話がちがってくる。あるものが 0.5 だというのは、『 0.40.6 よりも 0.5 に近い』ということを意味することになるからである。
つまり、
 1/2 ・・・・・0.3 〜 0.7 (または 0.4 〜 0.6 )
 0.5 ・・・・・0.45 〜 0.55 
というような誤差の範囲を許容しているとみるのが普通なのである。

 『ボイルの法則』を発見した英国のボイル(1627〜1691)の論文では目盛の読みが小数ではなく分数になっている。それをみてもこんな感じで読まれていることがわかる。

 しかし、小学校の算数ではもちろんこんな事柄はとりあげない。私だって『こういう問題をとりあげろ』というつもりはない。私はただ『私たちの日常用いている<半分とか 1/2 >というのは、1/2 = 0.5 と単純におきかえられるものでないことが多い』ということを指摘したいのである。

私たちは日常生活の中で、誤差や近似値のことを考えて、1/2 といったり0.5 といったりして分数と小数の使い分けているのであって、普通の算数における 1/2 = 0.5 よりもかなり高度なことをやっているのである。ところがそういうことに心しないで、ただやみくもに「 1/2 = 0.5 」を押し通すと、私たちの日常生活の中での「便利で(高級な)数量的な言葉の使い方の原理」が破壊されることになりかねない。そのことに注意してほしいのである。

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なるほど、日常生活で使われている数字の意味や、感覚を大事にしたいということ、日常の生活と結びついている算数や数学の学習の大事さがわかるような気がした。
しかしボイルの法則で知られているボイルの論文で、目盛の読みが分数になっていたなんて全く知らなかった。知っている人もきっと少ないに違いない。
板倉さんは「分数の計算ができない大学生」が話題になったとき、こんなことを書いている。読んで驚く人もいると思うし、顔をしかめる人もいるかもしれない。でも私は読んでいて、こういう視点は自分にはないものだから、知っておいたほうがいいなと思ってのでここに書いておくことにした。

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・・・今では大部分の人々が「中産階級的なかなりの余裕」をもって生きていくことができるようになりました。私たちの生活はそんなに大きく変化してきてたのです。ですから、当然、学校教育の内容も全面的に変えなければならないはずなのです。それなのに、その現実の変化に応じた教育の改革が遅れているのです。
 いまの教育は、あたかも「明治維新後になっても、子どもたちに「論語」などの四書五経の教育をおしつけているようなものと言っていいでしょう。小学校の高学年以降の教育内容を見てご覧なさい。それらの教育内容は、上級学校への受験のために役立っても、社会に出てからどれだけ役立つというのでしょうか。数学教育関係者の中には、「いまの大学生たちの中には分数の出来ない者もかなりいる」と嘆いたりしている人々がいます。しかし、そういう大学生にとって分数の計算がどれだけ役立つというのでしょうか。いままで当たり前として教えてきたことが受け付けられなくなったからと言って、それを嘆いても仕方がないのです。

 もちろん、分数の計算だって、一部の人々には役立つことがあるし、必要です。だからこそ、ごく一部のエリートだけが教育を受けた時代には、分数の計算も教えられてきたのです。しかし、いまのように、ほとんど全員が高等学校に通い、半分の子どもが大学に進学する時代には、その時代の変化にもっとマッチした教育内容を準備する必要があるのです。

「分数が出来なければ理工系の教育ができない」などという人がいます。しかし私は、「今日の電気の時代を切り開くのにもっとも重要な役割を果たした電気学者ファラデーや電気の発明家エジソンだって、分数の計算ができなかったことは事実だ」と思っています。新しい時代を開くには、もっと創造的な教育が必要なのです。
・・・・・中略・・・・
教育の内容と方法を全面的に改革すれば、かつてなかったようなレベルに教育を高めていくことができるのです。

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「ロボットは東大に入学できるか」というプロジェクトを立ち上げ、研究を進めていた新井紀子さんは、学生に「どうして私たちの仕事を奪うかもしれない人工知能(AI)の研究をするのですか?」と問われたとき、こう答えたそうだ。

 「私が研究をやめても世界の企業や研究者はAIの研究をやめはしない。
そうならば、AIの可能性と限界をきちんと見極め、対策を取ろうではないか。
AIには弱点がある。それは彼らが「まるで意味がわかっていない」ということだ。

 数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。」

(2016年11月朝日新聞より ゴチックは私が強調のためにした)

「ぶんすうのがくしゅうをして、分数の計算がわかってうれしい、と喜びがわきあがってきた、そのことの意味」
「どうしてだろう?と胸がざわざわするような好奇心の意味」
そんな「わくわくとドキドキ」、分数の学習にもそういったものがあれば「分数嫌い」や「勉強嫌い」はなくなるかもしれない。
そこに人工知能にはない「人間としての意味」があるのかもしれない。
 「分数ものさし」からとんでもない範囲にひろがってしまった。ゆっくりと考えていこう。

最後の写真は5月1日に種まきをした「藍」。 10日もすると二葉がプランター一面に出てきた。こういったときは、6割ぐらいの発芽率というのかな? それともまいた種の三分の二の発芽率といったほうがいいのかな?
今年も藍染を目ざして藍を育てていこう。

 

 

偏光板で遊ぼう②

偏光板について読みやすい本を探してみると、左の「偏光板であそぼう」(仮説社 板倉聖宣、田中良明著)が一番良さそうだった。

この本は仮説実験授業の形式を使いながら、読者に偏光板についての知識と理解を深めていくことができる本だ。
 (仮説実験授業については、「仮設社」がホームページを開いており、その説明がある)

さて、偏光板を2枚重ねて1枚をまわしていくと表面が真っ黒になってくることはよく知られている。では3枚ではどうなるのだろう。

このような問題を考える。 選択肢は
予想
ア、真っ黒く見える。
イ、少しは光が見えるようになる。

予想をもって考えていくことがポイント。さてみなさんの予想は?

斜めに重ねると、少し黒くなる。この上にもう1枚偏光板をのせると、

斜めにおいた偏光板の色は2枚のときと変わらず、3枚目においた四角形の、斜めの偏光板以外は真っ黒になった。

これはどう説明すればいいのだろうか?

本文では次のように説明されている。
「まず図のように偏光板Iに入った光を考えると、垂直方向の偏光(OY)だけが通過します。
 その光が、それと45度の角度の偏光板Ⅲに入ると、こんどは偏光の一部(OYのうちのOP分だけ)の偏光が通過します。
 そしてその偏光が偏光板Ⅱに入ることになります。
 ところが、その偏光は偏光板Ⅱと45度しか傾いていないのですから、この偏光の一部も偏光板Ⅱを通過できることになります。
 つまり、最初の偏光板Ⅰを出た偏光は、すぐに偏光板Ⅱに入ると出て来られなくなるはずなのに、二枚目の斜めになった偏光板Ⅲがあるため、その偏光の一部が向きを変えて出てくるので、3枚目の偏光板Ⅱも通過できるようになった、というわけです。」

偏光ってどんなこと?

なんとなく使っている偏光板。その偏光板の偏光とはどういうことなのだろう。

本の解説を私流にまとめてみる。
光のような電磁波は、「進行方向に直角に振動する波」(直角波)と説明されている。 太陽からの光の振動方向はいろいろな方向に振動する。上下、斜め、ぐるぐる回りながらやってくる電磁波もある。図のようにあらゆる方向に振動しながらやってくる。「進行方向に直角」だけでなく、ある特定の方向だけ振動している電磁波もある。このように「偏った方向だけに振動する波」のことを「偏波(へんぱ)」といい、光の場合は「偏った方向だけに振動する光」ということ、「偏光」という。

なるほど、ぐるぐる回りながらやってくる光もあり、あらゆる方向に振動している光から、ある特定の方向に振動する光を抜き出すのが、偏光板というようだ。

二枚の偏光板を重ねた時に、黒くなる現象を次のように説明している。

「図のように<垂直に振動する光>と<水平に振動する光>が混じった光が二枚の直行した偏光板を通るとします。もしも一枚目の偏光板が(図のように)<水平振動の光だけを吸収する向き>に置いてあると、そこを通過できるのは<垂直振動の光>だけです。つぎにその光が、縦向きに置いた偏光板に入るようにすると、その光の全部が通過できなくなってしまいます。
 このように、二枚の偏光板を直角に置くと、一枚目の偏光板を通り抜けた光は、二枚目の偏光板を通過できなくなるわけです。そこでどんな光もほとんど通さなくなるので、真っ黒に見えるようになるのです。」

そうか、光は吸収されることによって見えなくなってしまうのだな。
すべての光が吸収されてしまうと、人間には真っ黒に見えるわけなのか。
説得力のある説明だと思う。

おや? ちょっとこの説明は?、と思う人もいると思う。
これまでの説明の多くは次のようなものだった。

この絵を見ていると、格子の向きに沿って光の波がすり抜けていくようにみえる。
光の振動方向と直角の格子は、光を通さない。それがこれまでの説明だった。

ところがこの「偏光板であそぼう」ではそういった説明ではない。
「格子と同じ向きの光の成分を吸収し、それと直角の成分だけを通す」と説明している。これまでと逆の説明になっている。
実験的にはこの説明が正しいそうだ。ただこの実験結果が出る前に、上の囲みのような説明が流布していたため、それが現在も広く行き渡ってしまっていることになった。それは「電流はマイナス電荷の電子がプラスに向かって動いているのだが、説明としてはプラスからマイナスに電流は流れる」と教科書にものっているのと同じだ、とこの本で解説されている。

なるほど、この「偏光板で遊ぼう」は偏光についての最新の知識を紹介しているわけだ。

さて、今回は理論編のようになってしまった。次回はまた工作をしてみようと思う。

 

 

 

 

 

「子」のつく名前

「子」のつく名前

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最近、女の人の名前で「子」のついた人が減ってきているという感じがする人は多いと思う。
子どもの名前ベスト10などの報道を見ても、「子」のついた名前は見当たらない。
女性の芸能人の名前もそうだ。
思いつく「子」のつく人といえば「フーテンの寅さん」の「倍賞千恵子さん。でも少し古いかなあ。

最近話題になっているNHKの朝ドラにしても「あさが来た」の「波留さん」「宮崎あおいさん」、いま放送中の「とと姉ちゃん」では「高畑充希さん」、妹役の鞠ちゃんは「相楽樹さん」、美子ちゃんは「根岸姫奈さん」。

「子」のつく人はいない。

私が小中学校の時のクラスの女の子は、ほとんどが「子」のつく子だったと思う。(何%かと言われると自信がない、ただ女の子の名前には「子」がついているものだ、という印象が残っている)

さて、このことを調べた本がこれ。

「子」のつく名前の誕生 (仮説社)
(橋本淳治・井藤伸比古 著 /板倉聖宣 監修)

128ページの本だが、読み応えのある内容で、資料もバッチリ。

詳しい内容は読んで確かめてもらうことをおすすめすることにして、私が興味を引いたことを書いておこう。

1900年ごろからふえる「子」のつく名前

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このグラフは、「1877〜1988年の日本各地10校の小学校卒業者名簿4万人を調べた結果」から描かれたもの。
1900年(明治22年)頃から増え始め、1945年(昭和20年)頃をピークに、それ以後凸凹はあるが減ってきている、と読み取れそうだ。

私は以前に、「子」のつく名前は貴族や皇族に限られていたが、明治維新になってだれもが「子」のつく名前をつけることができるようになった、という説明を聞いたか、読んだかした記憶がある。

でもどうもそんなに単純ではないようだ。もしそうなら、明治維新以後に生まれた子どもにすぐに「子」のつく名前が出てくるはずだ。しかしそうではない。時間のずれがあるように思える。

さて、そこで現在では多くの人の記憶にも残っていない「子」の事実がある。

「子」の三つの使われ方

私たちは◯◯子と、人の名前の一部として、言い方を変えれば、セットとして「子」があると思っている。 しかし、明治時代はそうではなかった。
戦後の法律で生きている私たちとちがって、明治時代の感覚として、子」の表記には、

1.敬称である「子」をつけて表記している場合。
2.自分で「子」の字をつけて名乗っている場合。
3.本名に「子」の字がついている場合。
  つまり自分の娘に「子」の字をつけた場合。

の三つの場合が混同されていると、この本には書かれている。

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上の資料は、作家の宇野千代さん(1897年生まれ、旧姓藤村)さんが1921年に懸賞小説で一等を受賞した時の、「時事新報」(1921年・大正10年1月21日)の新聞記事。
見出しには、「千代子女史」とあり、受賞者の一覧表には「千代」。インタビュー部分は「千代子氏」、写真には「千代子」となっている。
つまり、「子女史」「子氏」「子」は、敬称として使われている。
このように、「子」のつかない名前の女性に「子」を付けて呼ぶことが、少なからずあったのである。「子」は女性へ愛称・敬称といってもよい。
とこの本には書かれている。

他の例としては、「子」のつかない女性へ手紙を書く時には、宛名には「〇〇子」とことさらに「子」つけて書くのが礼儀だったそうだ。

ラフカディオ・ハーンはこう言った

あのラフカディオ・ハーン、小泉八雲が日本女性の名前について書いている。

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日本女性の多くは、「まつ」とか「うめ」というように二音で呼ばれる。最近では、上流階級でさえ、それが流行である。(中略) 女性の名前には習慣的に敬称として「お」が前に、「さん」が後ろにつけられる。たとえば「お松さん/お梅さん」というように。ただし、名前が「きくえ(菊江)」のように三音の場合には、「お」をつけない。「きくえさん」と呼んで「おきくえさん」とは言わない。
 最近では、上流階級の婦人の呼び名には、昔とちがって「お」はつけない。その代わりに「子」がつけられる。つまり、農民の娘なら「お富さん」というところを、上流階級なら「富子」となるのである。そして、もし普通の女性が、自分自身の名前を「節子/貞子」などと書いたらみんなに笑われるだろう。というのも、「子」という接尾語はLadyに相当し、「節子/貞子」と名乗れば、自分で「節さま(the Lady Setsu)/貞さま(the Lady Sada)と言っていることになるからである。(後略)

(Japanese Female Names 1900年)

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1900年頃の外国人から見た日本人女性の名前についての受けとめ方がよくわかる。「子」という名前は、上流階級の名前であり、広く世間では使うのに抵抗がまだまだあったようだ。

「子」付けて良し

明治天皇の歌集を編集した、宮中につとめる歌人である大口鯛二(おおぐちたいじ)は、1899年『女学講義』と言う本に「婦人の名の下につくる子の字の説」という文章を載せている。
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自他共に、「子」の字を添えて苦しからず。されど、今日やんごとなき御辺りの女性の名には必ず「子」を添えさせるれば、尊称のごとく聞こゆるをもって、身分なき者が「何子」と名のるのは僭越のごとく思う人もあれど、決して然らず。男子の名に「彦/雄/麿」などいうと同じ意味で添えたるものなれば、上下貴賎を通じて何人が自己の名とし、またわが子の名に命ずとも、すこしも憚るところなしと知るべし。

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つまり、自分の名前にも、子どもの名前にも「子」をつけて名乗って良いといっているのである。

そして現代のように「子」と付く名前が一般化してくると、「子」という言葉にあった「尊称」「敬称」「愛称」という意味合いは薄れていく。
そして現在はだれもそんなことを考えなくなっている。

女性の名前は多様化しているのである。

さて女性の名前の研究は、どんな意味があるのだろう。
著者の井藤さんもずっとそのことが気になっていたそうだ。
後押ししてくれたのが、監修された板倉聖宣さん。
「明治維新からの日本の近代は、明るかったのか、暗かったか、いろいろな議論がある。<人民が抑圧されていた暗い時代>だったのか、<新しい時代に人々が胸膨らませていた時代>だったのか。そういうことがこの研究で浮かび上がってくる。今までの近代史は、政治史とか経済史とか一部の人だけの歴史だった。この研究結果は、まさに日本人全員の近代史だ」

自分や子どもの名前にかける思いが、グラフにあらわれていると井藤さんはいいたいのだろう。

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巻末に付けられている37ベージにも及ぶ年表がおもしろい。
内容を紹介したいが、自分で読む人のために遠慮しておこう。

この本の面白いところは、資料の大切さを伝えているところである。

一次資料、二次資料、同時代資料ということも知ったし、その違いも説明されていてたいへん勉強になった。

これから研究活動をしようと考えている人や大学生にとっては一読の価値があると思う。

たとえば、

井藤さんはこの冊子を作る元になった研究会に、こんな資料を出された。

若松賤子(「小公子」の訳者)
与謝野晶子(歌人)
松井須磨子(俳優)
野上弥生子(小説家)
宮本百合子(小説家)

これら名前に「子」のつく人たちの活躍が、広く世間に自分や自分の子どもに「子」のつく名前をつけることを促進する働きをしたのではないか、と言う理由をつけて。

板倉さんは「これは全部ウソです」と言って、みんなびっくりした。

とこの本に書かれている。
このあとに一次資料の大切さの話があるのだが、これ以上書くと、これから読む人の興味が削がれると思うのでここまで。
資料から学ぶとはどういうことか、そんなことを私でも、少し知ることができる内容だった。また名前にはその時代背景と願いが込められているということが、データーとしてわかる本だったと思う。

 

 

円周率その4

江戸時代には、二つあった円周率

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江戸時代には円周率が二つあった、という記事をどこかで読んだ記憶があった。どこかにくわしい説明がないだろうか、とさがして見つけた本がこの「数量的な見方考え方(板倉聖宣著 仮説社)だ。

この本にそって自分のためにまとめておこう。

 江戸時代後半では、数学者たちは円周率を3.14と知っていたが、寺子屋に通っていた百姓や町人の子どもたちは3.16と習っていた。それはどうしてだろう?

さて、日本で最初に出版された数学書は、1615年頃に印刷された「算用記(さんようき)」で、そこに円周率についての表記がある。

「直径が1尺なら、その円周の長さは3尺1寸6分あり」と。
つまり、円周率を3.16としていたことがわかる。

1627年に有名な吉田光由(みつよし)による「塵劫記(じんこうき)」が出る。ここでも円周率を3.16としている。塵劫記は江戸時代のベストセラーとなり、この後に出版された算数や数学の本はみな3.16という円周率を受け継いだ。

算用記

塵劫記

(ウィキペディアより)

3.16の根拠は?

はてさて江戸時代の円周率の3.16の根拠はなんなんだろう。
普通は中国から伝わった数学書からの引用だろうと考えるが、実は中国から伝わった数学書には円周率は3.16と書いた本はなかった。
考えられるのは、江戸時代にだれかが実際に計算したことが予想される。円を書き、糸を使うなどをして円周の長さを測り、直径との関係を求める。誤差が出るが、3.14〜3.16程度の値になる。
「円周率のような数は、半端な数の並び方ではなく、何か美しい数になるにちがいない」と考えるのが世の習い。
ここで「3.16は10の平方根に近い」と考えたのだろうと、「数量的な見方考え方」では推論している。
(古代インドではルート10を円周率に使ったという)
ちなみに、江戸時代ではそろばんで平方根や立方根を求めることができていた。
こんなふうにして、数学好きな人たちの中に「円周率は3.16」ということを信じるようになっていった。(√10=3.16277 ひとまるはみいろにならぶ と習ったなあ)

実際に計算で求めた村松重清

円周の長さを数学的に詳しく計算したのが、4月14日のブログで紹介した村松重清である。彼は円周の長さをものさしを使って計ったのではなく、日本ではじめて数学的な計算で求めたのである。

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直径1mの円の内側にぴったり入る正六角形を描くと六つの辺の長さは3mになる。
円周の長さは3mより長いのは明らかだ。次に正12角形をつくり、その辺の長さを計算すると3.1058285・・となる。このことを繰り返していく。 詳しい計算の方法は4月14日のブログを見ていただくことにして、1663年に彼は正3万2768角形の辺の長さを求めた。

3.141592648777698869248

これはあくまでも多角形の辺の長さだから、円周率ではない。
しかし彼は「円周率は3.16ではなく、3.14だ」と主張することができた。

広がる3.14

村松重清の発表以降、
翌年の1664年、野沢定信が、村松重清と違う計算方法で計算し、円周率を3.14とした。
このあと多くの人が計算をし、円周率を3.1416とか3.1428など少しずつ違う円周率の数字が発表され、「円周率は3.16ではなく、3.14にはじまる数字だ」と、数学愛好者のあいだで広まっていった。
当時もっとも普及していた算数・数学の本、「新編塵劫記」、「改算記」、「算法闕疑抄(さんぽうけつぎしょう)」も、1684年から87年のあいだに「円周率は3.14・・としたほうがいい」という改訂版を出していった。
ただ改訂版といっても、版を一から作り直すのではなく、「注」として3.16が載っているページの余白などに書き加えたのものだった。
1687年頃には「日本の算数・数学の本はほとんど『正しい円周率の値は3.14だ』」という考えで統一されていったといってよい。

3.14を疑う人たち

ところが、社会的に影響力のある人たちの中で、「円周率は3.14」に疑いを目を向ける人たちがいた。
まず野沢定信。この人は村松重清が計算した翌年に、円周率は3.14と計算して発表していたが、「円周率はルート10」という考え方が気に入っていたので、
「円周率には、『理屈によって得られる平方根10』と『図形をもとにして計算して得られる数』との二種類がり、真理はその二つの数の間にある」と言い出した。

次に荻生徂徠(1666〜1728)。彼は「円の内側にかいた正多角形をどんどん増やしていったら、その多角形の辺の長さや面積は果てしなく増えていくのではないか」と数学者たちの計算の結果を疑った。

三人目が漢方医学者の橘南谿(たちばななんけい 1754〜1806)。彼は「円周率の値は、3.16 あるいは3.14 といろいろに論じているが、まだ疑問の点がたくさんある」といった。

分裂した円周率

その結果どうなったのだろう。 影響力のある人が3.14に異議を唱えると、これまで3.14としていた本が3.16ともどすようになってきた。 そろばんの本で影響力のあった「塵劫記」と「改算記」が改訂の時に、「注」にあった「3.14が正しい」という文言を、省くようになったのである。そろばん入門の本の出版者達の中にも、「円周率3.14を疑っている知識人がいる」と知った人がいて、わざと円周率は√10(3.16)を残したようだ。

「数量的な見方考え方」の本の調査によると、江戸時代後半(1818〜30年)の算数・数学書で、「著者も明瞭で200ページ以上もある数学書は全部が円周率は3.1416あるいは3.14159」と表記されていた。しかし「著者名も記されず30〜100ページのそろばんの本のほとんどが円周率を3.16」としていることがわかった。

結果的に、数学者や数学愛好者の間では円周率は3.14とわかっていたが、百姓や町人の子どもたちは寺子屋やそろばん入門の本で円周率は3.16と習うようになったのである。

すべての人に納得させるという考え方がなかった江戸時代。

江戸時代の数学者には、円周率は3.14ということに疑問を持つ人を納得させる方法を考えつかなかったのだろうか。
たとえば、私のブログの「円周率その1」(3月14日)で取り上げた中国の劉徽は、円に内接する多角形と外接する多角形とを考えて、多角形の周の長さを円の両側から挟んで円周率を求める方法を使った。 

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日本ではこのように考えた人はいなかったのだろうか。
いや、一人いた。
蒲田俊清(1678〜1747)という人が「宅間流円理(たくまりゅうえんり)」という本で、円周に内側と外側から接する正多角形を考えて、円周率の上限と下限を決めていた。
残念なことにこの本は手書きで写されていて印刷されていなかったため、研究を受け継ぐ人がいなかった。

1712年に関孝和(11桁)、1722年に建部賢弘(41桁)と、精密に円周率の計算をしたが、不思議なことに円に内接する多角形のみの計算方法で、内側と外側からせまる方法は蒲田俊清以外だれもとっていない。計算方法がわからなかったはずはなく、ただそういった考え方をしなかったと思われる。

江戸時代の和算は、中国の水準を超えるまで発展したが、古代ギリシャ以来の数学の伝統である「他分野の学者たちをも完全に納得させるには、どういう議論をしたらいいのか」ということはせず、「だれでも納得するような理屈・論理」「すべての人々を納得させずにはおかない研究法」が確立していなかったのだ、と『数量的な見方考え方」では説明されている。

分裂した円周率は、明治維新後の学制発布による学校教育によって、すべての人々が正しく3.14と学習するようになった。

*この「数量的な見方考え方」には、調べた和算の本などの詳しいデータがのせられているが、この記事では省略し結果のみを記した。