分数の計算④

私たちの分数感覚 → 1/2 は 0.5 か?

私たちの「分数に対する感覚」を気づかせてくれるのがこの本。

左の「数量的な見方考え方」の著者板倉さんは次のように書いている。

****************

「・・・私たちは、学校で教わる算数とは別に、<現実の事物の数量的な問題をうまく取り上げるいろんな知恵>を身につけていることにも注意しなくてはいけないのではないだろうか」

「私たちは日常的によく『半分』という言葉を口にする。それなら、この『半分』というのは 『1/2 のことであるから、0.5 のことだ』と言っていいのかというと、そうではないだろう。
 もともと、現実の事物を数量的にとらえるときには、誤差がつきものであり、近似的にならざるを得ないことが多いものだが、 1/2 と 0.5 では誤差の幅がかなり変わってくるからである。
実際の場面で 1/2 といったとき、(場合にもよるが)それは『1とも0とも言い難い、その中間ぐらいというほかない』とか『1/3 ほど少なくはなく、2/3 ほど多くない』といったことを意味するであろう。
ところが、これが 0.5 となるとだいぶ話がちがってくる。あるものが 0.5 だというのは、『 0.40.6 よりも 0.5 に近い』ということを意味することになるからである。
つまり、
 1/2 ・・・・・0.3 〜 0.7 (または 0.4 〜 0.6 )
 0.5 ・・・・・0.45 〜 0.55 
というような誤差の範囲を許容しているとみるのが普通なのである。

 『ボイルの法則』を発見した英国のボイル(1627〜1691)の論文では目盛の読みが小数ではなく分数になっている。それをみてもこんな感じで読まれていることがわかる。

 しかし、小学校の算数ではもちろんこんな事柄はとりあげない。私だって『こういう問題をとりあげろ』というつもりはない。私はただ『私たちの日常用いている<半分とか 1/2 >というのは、1/2 = 0.5 と単純におきかえられるものでないことが多い』ということを指摘したいのである。

私たちは日常生活の中で、誤差や近似値のことを考えて、1/2 といったり0.5 といったりして分数と小数の使い分けているのであって、普通の算数における 1/2 = 0.5 よりもかなり高度なことをやっているのである。ところがそういうことに心しないで、ただやみくもに「 1/2 = 0.5 」を押し通すと、私たちの日常生活の中での「便利で(高級な)数量的な言葉の使い方の原理」が破壊されることになりかねない。そのことに注意してほしいのである。

*************************************

なるほど、日常生活で使われている数字の意味や、感覚を大事にしたいということ、日常の生活と結びついている算数や数学の学習の大事さがわかるような気がした。
しかしボイルの法則で知られているボイルの論文で、目盛の読みが分数になっていたなんて全く知らなかった。知っている人もきっと少ないに違いない。
板倉さんは「分数の計算ができない大学生」が話題になったとき、こんなことを書いている。読んで驚く人もいると思うし、顔をしかめる人もいるかもしれない。でも私は読んでいて、こういう視点は自分にはないものだから、知っておいたほうがいいなと思ってのでここに書いておくことにした。

************

・・・今では大部分の人々が「中産階級的なかなりの余裕」をもって生きていくことができるようになりました。私たちの生活はそんなに大きく変化してきてたのです。ですから、当然、学校教育の内容も全面的に変えなければならないはずなのです。それなのに、その現実の変化に応じた教育の改革が遅れているのです。
 いまの教育は、あたかも「明治維新後になっても、子どもたちに「論語」などの四書五経の教育をおしつけているようなものと言っていいでしょう。小学校の高学年以降の教育内容を見てご覧なさい。それらの教育内容は、上級学校への受験のために役立っても、社会に出てからどれだけ役立つというのでしょうか。数学教育関係者の中には、「いまの大学生たちの中には分数の出来ない者もかなりいる」と嘆いたりしている人々がいます。しかし、そういう大学生にとって分数の計算がどれだけ役立つというのでしょうか。いままで当たり前として教えてきたことが受け付けられなくなったからと言って、それを嘆いても仕方がないのです。

 もちろん、分数の計算だって、一部の人々には役立つことがあるし、必要です。だからこそ、ごく一部のエリートだけが教育を受けた時代には、分数の計算も教えられてきたのです。しかし、いまのように、ほとんど全員が高等学校に通い、半分の子どもが大学に進学する時代には、その時代の変化にもっとマッチした教育内容を準備する必要があるのです。

「分数が出来なければ理工系の教育ができない」などという人がいます。しかし私は、「今日の電気の時代を切り開くのにもっとも重要な役割を果たした電気学者ファラデーや電気の発明家エジソンだって、分数の計算ができなかったことは事実だ」と思っています。新しい時代を開くには、もっと創造的な教育が必要なのです。
・・・・・中略・・・・
教育の内容と方法を全面的に改革すれば、かつてなかったようなレベルに教育を高めていくことができるのです。

**************************************

「ロボットは東大に入学できるか」というプロジェクトを立ち上げ、研究を進めていた新井紀子さんは、学生に「どうして私たちの仕事を奪うかもしれない人工知能(AI)の研究をするのですか?」と問われたとき、こう答えたそうだ。

 「私が研究をやめても世界の企業や研究者はAIの研究をやめはしない。
そうならば、AIの可能性と限界をきちんと見極め、対策を取ろうではないか。
AIには弱点がある。それは彼らが「まるで意味がわかっていない」ということだ。

 数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。」

(2016年11月朝日新聞より ゴチックは私が強調のためにした)

「ぶんすうのがくしゅうをして、分数の計算がわかってうれしい、と喜びがわきあがってきた、そのことの意味」
「どうしてだろう?と胸がざわざわするような好奇心の意味」
そんな「わくわくとドキドキ」、分数の学習にもそういったものがあれば「分数嫌い」や「勉強嫌い」はなくなるかもしれない。
そこに人工知能にはない「人間としての意味」があるのかもしれない。
 「分数ものさし」からとんでもない範囲にひろがってしまった。ゆっくりと考えていこう。

最後の写真は5月1日に種まきをした「藍」。 10日もすると二葉がプランター一面に出てきた。こういったときは、6割ぐらいの発芽率というのかな? それともまいた種の三分の二の発芽率といったほうがいいのかな?
今年も藍染を目ざして藍を育てていこう。

 

 

ベイマックス 4

IMG_20150131_0001

左の写真は3月に公開予定のドラえもんの映画の宣伝用のチラシから。
ベイマックスとドラえもん、どちらのロボットも、こんなロボットがあったら幸せだろうなあ、ほしいなあ、という感想を多くの人が持つロボット。
さて、ドラえもがいたら本当に幸せになれるのだろうか。
新井先生は「ロボットは東大にはいれるか」で、こんなふうに書いている。

ドラえもんが居る世の中になったら、のび太くんは何をして働いていくんだろう。ドラえもんがいたら宿題もしてくれるし、困ったことはみんな解決してくれる、その時、のび太くんは何をして暮らしていくのだろう。
ロボットに働かせてあそんでいればいい、と思うかもしれないけれど、ロボットが働いて得たお金は、ロボットを作った会社やその会社がある国だけじゃなくて、のび太くんのところにもちゃんとお金が回ってくるのかしら。ドラえもんと一緒にのび太くんもジャイアンも幸せになるには、どんな社会の仕組みを作っていけばいいんだろう。
私は、近代以降私たちが培ってきた「役に立つ」「便利になる」というのとは全く違うタイプの知恵や仕組みが必要になるような気がしてなりません。

うーん。私はうなってしまった。
確かにその通りのようにおもえる。
いろんな分野への機械化は人間の労働を変えてきた。辛い仕事から人間を解放し、身の周りの環境を住みやすくしてきた。
人が住みやすい社会にしていくために、学校などの教育機関で学び、社会へ出る準備をする。社会に出てからも学びなおして新しい社会に適用できるような仕組みもある。しかしその社会がこれまでにないスピードで変化する、しかもその質が予想したこともないようなものになっているのではないか、という疑問がわいてくる。
ベイマックスの映画の世界とは逆に、「ターミネーター」や「マトリックス」の世界もあると思った時、ホーキング博士の警告があることを知った。

ターミネーター2

ーーーーーーーーーーーーーーーーーBBCのインタビューに対して、ホーキング博士は次のように語った。「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」

ホーキング博士は「人工知能が自分の意志をもって自立し、そしてさらにこれまでにないような早さで能力を上げ自分自身を設計しなおすこともあり得る。ゆっくりとしか進化できない人間に勝ち目はない。いずれは人工知能に取って代わられるだろう」と語った。

人工知能の進化に人類が歩調を合わせることができる能力を、人工知能が上回ることになる、いわゆる「技術的特異点」についてホーキング博士は既に懸念を表明している。5月、イギリスの新聞「インディペンデント」に掲載された論説で博士は「人工知能の発明は人類史上最大の出来事だった。だが同時に、『最後』の出来事になってしまう可能性もある」と述べている。

こう懸念しているのはホーキング博士だけではない。スペースXおよびテスラモーターズのCEOであるイーロン・マスク氏は、先月「人工知能にはかなり慎重に取り組む必要がある。結果的に悪魔を呼び出していることになるからだ。ペンタグラムと聖水を手にした少年が悪魔に立ち向かう話を皆さんもご存知だろう。彼は必ず悪魔を支配できると思っているが、結局できはしないのだ」と言っている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「技術的特異点」という新しい言葉を知った。
人工知能(ロボット)が人工知能を使って自分自身を進化される可能性があるというのだ。そしてそのスピードに人間が追いつけなくなる時、それが技術的特異点であり、人間の存在意義とは何かと突きつけられる時と私は理解した。

もちろんホーキング博士の意見に反対する人達もいる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎ 一方、英オックスフォード大学(Oxford University)で未来技術の影響に関するプログラムを率いるニック・ボストロム(Nick Bostrom)教授は、人工知能が人間を超えるという脅威は切迫していないと語る。同氏は軍用無人機や自動運転者、工場で働くロボットなどを挙げ、現在使用されている応用法や、近い未来で使用される見込みの応用法では、人工知能はまだ人間の手中にあると指摘する。

 とはいえ、同氏は「機械の知能は最終的には生物の知能を超えるだろう。そしてその過程で人間の存在が大きく脅かされる危険性もある」とも語っている。

◎ 警鐘を鳴らす人ばかりではない。シアトルのアレン人工知能研究所のCEOであるオレン・ エツィオーニ氏は、先日ウェブサイトRedditのAMA(何でも質問に答えるスレッドで「Ask Me Anything」の略)で、「私は人工知能を恐れていませんし、みなさんも恐れる必要はありません」と投稿した。

エツィオーニ氏は、次のようにも説明した。「たとえば100万年後、特異点を迎える可能性はあります。けれど賢いコンピューターが世界制覇するという終末論的構想は『馬鹿げている』としか言いようがありません。私は、この分野で25年以上研究を続けている立場から、人間が進歩し続けても、知能が暴走するようなことはないと申し上げたい。文字を読み、理解できるプログラムはどんどん進化しているが、そのプログラムがどこかに勝手に走り出してしまう危険は全くないだろう」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ホーキング博士のように、世界的に有名な科学者が発言すると、賛成意見も反対意見も出てくる。私にはどちらが正しいか即断することはできないが、考える機会を提供してもらっていることはよくわかる。
ターミネーターもベイマックスもチップ一つでその性格がかわるシーンが描かれていた。現実はそんな簡単なことではなく、私たちの知らないところでコンピュータへの依存が進んでいることは確かだ。
もう少し考えなくては。

参考にした記事。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/03/stephen-hawking-ai-spell-the-end-_n_6266236.html

http://www.afpbb.com/articles/-/3033764