分数の計算④

私たちの分数感覚 → 1/2 は 0.5 か?

私たちの「分数に対する感覚」を気づかせてくれるのがこの本。

左の「数量的な見方考え方」の著者板倉さんは次のように書いている。

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「・・・私たちは、学校で教わる算数とは別に、<現実の事物の数量的な問題をうまく取り上げるいろんな知恵>を身につけていることにも注意しなくてはいけないのではないだろうか」

「私たちは日常的によく『半分』という言葉を口にする。それなら、この『半分』というのは 『1/2 のことであるから、0.5 のことだ』と言っていいのかというと、そうではないだろう。
 もともと、現実の事物を数量的にとらえるときには、誤差がつきものであり、近似的にならざるを得ないことが多いものだが、 1/2 と 0.5 では誤差の幅がかなり変わってくるからである。
実際の場面で 1/2 といったとき、(場合にもよるが)それは『1とも0とも言い難い、その中間ぐらいというほかない』とか『1/3 ほど少なくはなく、2/3 ほど多くない』といったことを意味するであろう。
ところが、これが 0.5 となるとだいぶ話がちがってくる。あるものが 0.5 だというのは、『 0.40.6 よりも 0.5 に近い』ということを意味することになるからである。
つまり、
 1/2 ・・・・・0.3 〜 0.7 (または 0.4 〜 0.6 )
 0.5 ・・・・・0.45 〜 0.55 
というような誤差の範囲を許容しているとみるのが普通なのである。

 『ボイルの法則』を発見した英国のボイル(1627〜1691)の論文では目盛の読みが小数ではなく分数になっている。それをみてもこんな感じで読まれていることがわかる。

 しかし、小学校の算数ではもちろんこんな事柄はとりあげない。私だって『こういう問題をとりあげろ』というつもりはない。私はただ『私たちの日常用いている<半分とか 1/2 >というのは、1/2 = 0.5 と単純におきかえられるものでないことが多い』ということを指摘したいのである。

私たちは日常生活の中で、誤差や近似値のことを考えて、1/2 といったり0.5 といったりして分数と小数の使い分けているのであって、普通の算数における 1/2 = 0.5 よりもかなり高度なことをやっているのである。ところがそういうことに心しないで、ただやみくもに「 1/2 = 0.5 」を押し通すと、私たちの日常生活の中での「便利で(高級な)数量的な言葉の使い方の原理」が破壊されることになりかねない。そのことに注意してほしいのである。

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なるほど、日常生活で使われている数字の意味や、感覚を大事にしたいということ、日常の生活と結びついている算数や数学の学習の大事さがわかるような気がした。
しかしボイルの法則で知られているボイルの論文で、目盛の読みが分数になっていたなんて全く知らなかった。知っている人もきっと少ないに違いない。
板倉さんは「分数の計算ができない大学生」が話題になったとき、こんなことを書いている。読んで驚く人もいると思うし、顔をしかめる人もいるかもしれない。でも私は読んでいて、こういう視点は自分にはないものだから、知っておいたほうがいいなと思ってのでここに書いておくことにした。

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・・・今では大部分の人々が「中産階級的なかなりの余裕」をもって生きていくことができるようになりました。私たちの生活はそんなに大きく変化してきてたのです。ですから、当然、学校教育の内容も全面的に変えなければならないはずなのです。それなのに、その現実の変化に応じた教育の改革が遅れているのです。
 いまの教育は、あたかも「明治維新後になっても、子どもたちに「論語」などの四書五経の教育をおしつけているようなものと言っていいでしょう。小学校の高学年以降の教育内容を見てご覧なさい。それらの教育内容は、上級学校への受験のために役立っても、社会に出てからどれだけ役立つというのでしょうか。数学教育関係者の中には、「いまの大学生たちの中には分数の出来ない者もかなりいる」と嘆いたりしている人々がいます。しかし、そういう大学生にとって分数の計算がどれだけ役立つというのでしょうか。いままで当たり前として教えてきたことが受け付けられなくなったからと言って、それを嘆いても仕方がないのです。

 もちろん、分数の計算だって、一部の人々には役立つことがあるし、必要です。だからこそ、ごく一部のエリートだけが教育を受けた時代には、分数の計算も教えられてきたのです。しかし、いまのように、ほとんど全員が高等学校に通い、半分の子どもが大学に進学する時代には、その時代の変化にもっとマッチした教育内容を準備する必要があるのです。

「分数が出来なければ理工系の教育ができない」などという人がいます。しかし私は、「今日の電気の時代を切り開くのにもっとも重要な役割を果たした電気学者ファラデーや電気の発明家エジソンだって、分数の計算ができなかったことは事実だ」と思っています。新しい時代を開くには、もっと創造的な教育が必要なのです。
・・・・・中略・・・・
教育の内容と方法を全面的に改革すれば、かつてなかったようなレベルに教育を高めていくことができるのです。

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「ロボットは東大に入学できるか」というプロジェクトを立ち上げ、研究を進めていた新井紀子さんは、学生に「どうして私たちの仕事を奪うかもしれない人工知能(AI)の研究をするのですか?」と問われたとき、こう答えたそうだ。

 「私が研究をやめても世界の企業や研究者はAIの研究をやめはしない。
そうならば、AIの可能性と限界をきちんと見極め、対策を取ろうではないか。
AIには弱点がある。それは彼らが「まるで意味がわかっていない」ということだ。

 数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。」

(2016年11月朝日新聞より ゴチックは私が強調のためにした)

「ぶんすうのがくしゅうをして、分数の計算がわかってうれしい、と喜びがわきあがってきた、そのことの意味」
「どうしてだろう?と胸がざわざわするような好奇心の意味」
そんな「わくわくとドキドキ」、分数の学習にもそういったものがあれば「分数嫌い」や「勉強嫌い」はなくなるかもしれない。
そこに人工知能にはない「人間としての意味」があるのかもしれない。
 「分数ものさし」からとんでもない範囲にひろがってしまった。ゆっくりと考えていこう。

最後の写真は5月1日に種まきをした「藍」。 10日もすると二葉がプランター一面に出てきた。こういったときは、6割ぐらいの発芽率というのかな? それともまいた種の三分の二の発芽率といったほうがいいのかな?
今年も藍染を目ざして藍を育てていこう。

 

 

ロボットは東大にはいれるか

映画「イミテーション・ゲーム」と
  「エキス・マキナ」

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 今年見た映画で、人工知能に関わるのものが二つ。一つ目が左のパンフレットにある「イミテーション・ゲーム」。サブタイトルにあるのが「エニグマと天才数学者の秘密」。私のブログで何回か紹介した天才数学者、現在のパソコンの生みの親とも言えるアラン・チューリングの伝記だ。
この映画ではチューリングの活躍と悲劇がうまく映画化されている。
私はドイツの暗号を解読する機械bombeというのはどんな機械か知りたかった。左のパンフレットで、チューリングの後ろにある機械がそれ。
ただこの映画ではbombeそのものの仕組みが詳しく説明されていなかったので、どうしてその機械が暗号を解読できるのかがよくわからなかった。もちろん私の勉強不足だが。
チューリングの考案した「チューリング・テスト」が現在も重要な提案として生きている。それは、機械を「知的」と呼ぶ基準とは何かということで、人間の質問者が機械と会話(音声ではなくタイプのように、相手が見えないようにして)をして、相手が人間か機械か判別できない場合、その機械が「思考」していると判断するというものである。
そのチューリング・テストをテーマにして映画化したのが次の映画。
「エクス・マキナ」である。

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「エクス・マキナ」とは「デウス・エクス・マキナ」という言葉からきており、「デウス・エクス・マキナ」とは「機械じかけの神」という意味らしい。

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カタログにある監督のインタビューから映画の内容を紹介しよう。
「プログラマーのケイレブが、あるテストのために邸宅に招かれる。人間が人工知能(AI)と対話するテストだ。これは、本来は検査者に相手が人工知能だと知らせずに対話を行ってもらい、人間が見破れなかったら、その人工知能は合格というテストなんだ。たがもしも、最初から相手が人工知能だと知らされていたら、どういう反応になるだろうか? しかも検査者が男性で、相手が女性の顔を持った人間型ロボットだとしたら・・・?」

話し相手の人工知能のロボットは、エヴァという写真のような人間型ロボット。顔だけが人間の顔をしていてボディはひと目でロボットとわかるもの。しかしその表情と動きはなんとも魅力的・・・。ストーリーはビデオが出ているのでそれでどうぞ。

さて、日本が取り組んできた人工知能のひとつ、東大ロボットの結果が出た。

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2011年にスタートした「ロボットは東大に入れるか」をテーマにしたプロジェクトは、今年のテストで8割の大学に入る力をつけたことがわかった。しかしプロジェクトはしばし凍結されることになったという。どうしてだろう。

東大ロボといっても、ロボットが試験会場に歩いていって、鉛筆でもって解答用紙に答えを書くのではない。入試問題をコンピューターが分かるように翻訳し、回答するわけだが、一体どのようにして回答を導くのだろう。
それは、演繹と帰納の二つの方法を使っている。
地球は太陽の周りを回っている(普遍的な前提)から、明日も東から太陽が登るというのが演繹法。
地球の公転という事実をしらなくても、ずっと毎日東から太陽が登っているのだから明日も東から昇るだろうと考えるのが帰納法。帰納法は膨大なデータの上になりたっている。コンピューターの発達によって、統計データが大量に処理することによって、明日どちらから太陽が登るかということが自信をもって言えるというわけだ。
大学試験も帰納法と演繹法を使うことによってかなりの問題が解けるようになったというわけだが、プロジェクトリーダーの新井先生は「いまの東大ロボットでは、東大入試は合格できない」と判断された。
それはどうしてか。「人間と同じようにできないものがある、それは推論と概念」とおっしゃる。たとえば「民主主義の利点を述べなさい」という抽象的な概念は、人工知能が苦手とするものだそうだ。
そして人間的な常識がまだまだ欠如しているそうだ。

英語の問題でこのような例がある。(ここでは英文ではなくて日本文に訳した形で紹介する)

Aくん「あと2,3分で本屋さんにつくよ」
Bくん「待って、◯◯◯◯◯」
Aくん「ありがとう。いつもなるんだ」
■◯◯◯◯◯に入る言葉は、どれが適当でしょうか■
①長いこと歩いたよ
②もう着くよ
③高そうな靴だね
④靴紐がほどけているよ

この問題は東大ロボットができなかった問題。
正答はもちろん④。しかし東大ロボット君は「長いこと歩いたよ」を選んだ。
これは膨大な文書データから、歩くことを書いた文章の前後には、「長い時間」というデータが多くあることを発見したからだと思われる。東大ロボ君には、人間はどんなときにお礼をいうかという常識がまだなかったわけだ。「Aくんが、Bくんの言ったことに感謝している」ということが理解できていないため、こういう問題が解けなかったといえるそうだ。

さらにこういう例もあるそうだ。

■ケーキをクリームとブルーベリーでデコレーションするとき、それをどう飾るかを英語で話しています、英語の会話を聞いて、その説明に一番あてはまる図をえらびなさい。

東大ロボはリスニングは得意だったが、この問題に答えられなかった。ブルーベリーで飾ったケーキを見たこともなかったからだ。人間なら見たこともないものでも判断できるが、データの全くない問題には手も足も出なかったわけである。

新井先生はこれらの結果を受けて朝日新聞に、コメントを寄せられた。それがこれ。

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 ■仕事奪われぬため、人間こその力磨け  

今年も「東ロボくん」の受験シーズンが終わった。今年ついに、関東ならMARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)、関西なら関関同立(関西、関西学院、同志社、立命館)と呼ばれる難関私大に合格可能性80%以上と判定された。だが、東京大学には及ばなかった。現状の技術の延長線上では、AIが東京大学に合格する日は永遠に来ないだろう。
 私は中高生向けの講演の冒頭では、必ずこう問いかけることにしている。
 「あなたは2021年に人工知能は東大に入れるようになると思いますか?」
 どの会場でも8割以上が「入れるようになる」と答える。みんな笑顔だ。AIがもたらす明るい未来を信じているのだろう。「囲碁の世界チャンピオンも破ったのだから、東大に入ってもおかしくない」と言う生徒もいる。
 「では」と私は続ける。
 「AIが社会で働くようになったとき、あなたは何をして働きますか? どうやってお金を手に入れますか?」
 一転して、動揺が走る。マイクを向けると「……ゴミ拾い、とか?」と絞り出すような声。AIが東大に入るような日が来たら、AIがゴミ拾いもしてくれるに違いない。その時、人間は労働から解放されて幸せになるだろうか。
 AIから得られる富が、地球上のすべての人に平等に分け与えられればそうかもしれない。しかし、そのような仕組みは、今までかつてこの地球上に築き上げられたことはない。むしろ、ITが社会に導入されて以降、経済格差は広がり続けている。  

 2010年、アメリカでのAIの隆盛を眺めながら、私はそのことを考えていた。AIはどこまで行き、どこで止まるのか。AIはどのように仕事を奪い、仕事を生み出し、社会を変えるのか。私がはじき出したのが、30年に現在のホワイトカラーの仕事の半分がAIに置き換えられるという予想だった(後に、それはオックスフォード大の研究グループが行った予測とぴたりと合うことになる)。
 私は数学者だから、こういうときには原理から考える。コンピューターは徹頭徹尾、数学でできている。AIに使えるのは論理と確率と統計だけだ。論理と確率はわかる。だが、いくら考えても、統計にどれだけの威力があるのか、はっきりしなかった。
 そこで考えた。AIに大学受験をさせてみたら、と。大学受験に挑ませたら、近未来のAIの可能性と限界がクリアになるのではないか。
 11年にプロジェクトが始まり、私は目標を立てた。3年でどこかの大学に合格させる。4年目には箱根駅伝に出るような名のある大学に、5年目は国公立大学に。そして6年目に、MARCH・関関同立に合格させたいと思った。可能性は五分五分だろう。
 その目標を口にした時、私は恐怖に似た緊張感を覚えた。研究者としては誰も見たこともないAIを開発したい。一方で、AIが難関大に合格する能力を備えた場合、ホワイトカラーの仕事の半分は確実にAIに奪われるだろう。AIを大胆に導入し、コスト削減に成功した企業の利益率が上がる一方、雇用を守ろうとした企業は市場から退場を迫られるだろう。
 こう話すと生徒から責められた。
「なぜ、私たちの仕事を奪うかもしれないAIの研究をするのですか」
 私がやめても世界の企業や研究者はAIの研究をやめはしない。ならば、AIの可能性と限界をきちんと見極め、対策を取ろうではないか。AIには弱点がある。それは彼らが「まるで意味がわかっていない」ということだ。
 数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。私は次のように講演を締めくくる。
 「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください。それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AIによって不幸にならない唯一の道だから」
    
*  あらい・のりこ 62年、東京都生まれ。一橋大卒、米イリノイ大院修了。広島市立大助手、国立情報学研究所助教授を経て、同研究所教授。 

(ゴチック、文字の拡大は私が行った)

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新井先生は東大ロボくんに、人間の常識や意味理解のチカラをつけるには、さらに膨大なデータの収集と時間と労力がかかると言う。そこに力を注ぐよりも、もっと大事なことがあると言われる。
それは「子どもたちの読解力の低下」。

次のような問題がある。

■仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。
上の文章を読んで、次の設問に答えなさい。

オセアニアに広がっているのは(       )である。

この東大ロボのプロジェクトの一環で、全国1000人の中高生にこの設問に答えてもらう読解力の調査がなされた。
結果は中学生の約4割、高校生の約3割が間違った答えをしている。
(正解はもちろん、キリスト教)
新井先生は、
「文脈を理解できないAIのほうが(中高生より)文章を読めているという事例がある。
東大ロボの性能を上げるよりも、中高生の読解力を向上させるほうが、国民として直近の課題だ」とおっしゃる。

そういうわけで、ロボットに東大に合格させる努力をさらに続けるよりも、これまでの成果と努力をを子どもたちに注ぐことに舵をきることになったようだ。
ペーパーテストで判断される学力では人工知能に負けるのはわかりきっている。
当たり前のようだが、人間だけがもっている力を育てることが大事なわけだ。

 

 

 

ベイマックス 7

トランセンデンス1

 ビデオを二本見た。

一つはジョニー・デップ主演の「トランセンデンス」

Wikipediaに書いてあるあらすじを紹介すると

・・・・・・・・・・

世界初の人工知能PINN(ピン)を研究開発するコンピューター科学者のウィル・キャスター(ジョニー・デップ)とその妻エヴリン(レベッカ・ホール)は、コンピューターが人間の能力を超えることができる世界を構築する為の技術的特異点を目標に活動していた。しかしそのさなか、ウィルは反テクノロジーを唱える過激派テロ組織RIFT(リフト)の凶弾に倒れてしまう。エヴリンは夫を救うべく、死の際にあったウィルの意識をPINNにアップロードする。彼女の手により人工知能としてよみがえったウィルは、軍事機密から金融、経済、果ては個人情報にいたるまで、ありとあらゆる情報を取り込み、驚異の進化を始める。やがてそれは、誰も予想しなかった影響を世界に及ぼし始める。

・・・・・・・・・・

人間の脳のデータをすべてコンピュータにコビーし、人間のような自我を持った人工知能が登場する ー 人工知能が人間の能力を越える技術的特異点がテーマになっている。これまでSFの世界であった人工知能自身による進化が急速に現実味を帯びてきていることが、この映画の背景にあると思って見た。

ルーシー1

 二本目はスカーレット・ヨハンソン主演の「ルーシー」。

これもWikipediaからストーリーを紹介すると。

・・・・・・・・・・

ごく普通の平凡な女性ルーシーは、訪れた台北のホテルでマフィアの闇取引に巻き込まれ、下腹部に新種の麻薬が入った袋を埋め込まれてしまう。この麻薬は通常10%までしか活用できない人間のの潜在能力を極限まで高めることができる恐ろしいものだった。運び屋として体内の麻薬と共に移動するよう命じられたルーシーだったが、麻薬を狙うマフィアに捕まってしまう。ルーシーは激しい拷問を受けるが、その拍子に体内の袋が破れ、彼女の脳は麻薬の力で覚醒し、超人的な力を発揮してその場から脱出する。

ルーシーはマフィアの追手を次々とかわしながら、脳科学の権威であるノーマン博士が居るパリを目指す。しかし、その間もルーシーの脳の覚醒は納まらず、いつしか彼女は人間性を失い、その力を制御することができなくなってしまう。

 ・・・・・・・・・・

人間の脳を薬を使って活性化させ、人間自身の持っている潜在能力を100%発揮させたらどうなるのだろうか。薬など現代の知識や技術を使って人間を人為的に進化させる世界がテーマになっていると私は思ってこのビデオを見た。

ジョニー・デップはコンピュータを使い、スカーレット・ヨハンソンは薬を使って人間を超える世界を見ようとしている。
(どちらの映画にもモーガン・フリーマンが出演していたのはおもしろかった。このような種類の映画にはモーガン・フリーマンさんのような俳優が必要なのだろう。)
同じ時期によく似たテーマで映画が作られいる。未来は現代の人類の考え方にかかっている、というのがどちらの映画のラストだ。コンピュータなどのテクノロジーによって社会が大きく変化する時が、時代が近づいているという認識が映画界にはあるのかもしれない。映画を通じてそのことを伝えようとしているのかもしれない。 

 

もしもの話ですが・・・

「ベイマックス」などの人工知能について考えてみたい。 前回紹介した本「ロボットは東大に入れるか」で、学生が新井先生に質問している。

Q もしもの話したんですが、機械によって人が破滅に追い込まれることがわかったら先生は研究をやめますか。

そう、私もそれが一番知りたかったところ。人間の仕事が奪われていき、先行きがわからないのとどうしてこのような研究を進めていくのだろうと疑問に思っていた。

A 新井先生の返答を私なりに理解したことを紹介してみよう。
 人工知能が招く可能性がある「破滅」にはいくつかのタイプがある。
一つ目は、本来統計で結論を出すべきでないところまで統計が入り込んでくることによって、国民が想定していないような大惨事が引き起こされる可能性。
今後、統計を活用する上でのガイドラインがなにか必要になるのではないか。

(統計で結論を出すべきでないところに統計が入り込む」というのはどういうことなのだろう? 原子力の安全性のことなのだろうか、自然災害予知のことなのだろうか。)

二つ目は戦争。
アメリカのどの軍事大国が人工知能に投資する最大の理由は戦争やテロ対策。戦闘機だけでなく地上戦に投入できるようなロボットができたら、軍事大国は戦争をする苦痛を今ほど感じなくなるだろう。自国民が戦争で死ななくなるから。戦争へのハードルが下がることがとてつもなく恐ろしい。

 (戦争利用についてはよくわかる。自国民の血を流さない他国への侵略は、容易に賛同されると予想される。)

新井先生の話はまだ続く。
「極端な話ですが、ホワイトカラーの仕事が人工知能にみんな置き換えられたとしたらどうなるだろう。
そして「イラストを理解したり、私たち人間の多くがなぜか自然に理解できるケーキの問題」、あれが人工知能にとって一番難しい問題として残ったとしたら、「人間らしい仕事とは、人間が学校に行かなくてもできることなのではないか」「学校の勉強のうちの大半は機械に置き換えられることができる」となったらどうなるだろう。
もしも近未来にそれが現実になったなら、「学校」そのものの根本的な見直しにつながる。それは避けられない社会変革なのかもしれない。
だとしても短期的にはものすごく大きな社会混乱を招くと思う。それについて私(荒井先生)は社会的責任を感じる。(と新井先生は言っている)
だから今、社会としてどのような準備をしていけばいいのか、人工知能の研究と同時に考えている。
科学技術というのは、一度誰かが研究し始めると、基本的には止めることができない。チームリーダーである私がやめても、世界には100人以上はこのプロジェクトが出来る人はいるはずです。私が行なわなくても、どこかで誰かがやるはず。そして科学技術は簡単にコントロールできない。それは歴史が物語っている。」

なるほど、このまま流れにのまれてしまうと、恐ろしい未来が待っているようだ。 「誰かが研究を始めると基本的には止められない」という話は原子爆弾の開発もそうだったことを思い起こす。
では、私たちはどうすればいいのだろう。

新井先生の話は次のようにして終わっている。
科学技術に呑み込まれることなく 私たちができることというのは、科学技術の本質を見極められる、見極めようとする人達が増える、ということだと思う。 科学技術を、なんかすごそうで怖そうだけど全然わかんないし・・・というふうに思うのでななくて、それは何なのかということを、専門にしている人も、専門家でない人も一緒に、今科学技術はこういう所まで来ているんだよ、という問題意識を共有する、そのことによってのみコントロールできるのではないか、そして次の世界を切り開いていくことができるのでなないかと考えている。
科学技術に呑み込まれることなく、科学技術を見極める、そんなふうにみんなで一緒に努めていけるといいなと思っている。」

なかなか飲み込みにくい未来展望図だ。 
コンピュータによる英語翻訳が日常生活に耐えうるほど進歩しているとき、どうして学校で英語を学ぶのか?その意義は?必要性は?と子どもたちが質問してきた時にどのように答えるのか?
新井先生も、映画のジョニー・デップもスカーレット・ヨハンソンも同じことを言っているように聞こえる。未来はあたた自身が、いや私たちが築いていくものだと。

今の私には、ー「人間の学びそのもの」、近い例では「学校教育の目的と理念が問い直されている」ー とありきたりの使い古された言い方でしか、まとめられない。
時間をかけて、でも棚に上げるのではなく、考え続けなくてはいけない課題だと思う。