ガリバーと踏み絵 2

今回は左の角川文庫の「ガリバー旅行記(山田蘭訳)」のものと、
「集英社ギャラリー 世界の文学2 イギリス1」にある「ガリバー旅行記(中野好夫訳)」を見てみよう。

この2冊にはどのように「踏み絵」の部分が載せられているのか、前回の岩波文庫と同じ場面を比べて見ることにした。

スウィフトが「ガリバー旅行記」を出版したのが1726年だが、この時スウィフトは59歳だった。スウィフトはこのあと病気が発病し、77歳でこの世を去っている。

そしてもうひとつ、ラグナダ国王このご厚情に免じて、わがオランダの同胞に課せられるという踏み絵の儀式だけはどうかご勘弁をいただきたい。(角川文庫)
 
いま一つ是非お願いは、わが庇護者なるラグナダ王の名前に免じて、どうかわが同胞たちに課せられる、あの十字架踏みの儀式だけは免除していただきたい。
(集英社ギャラリー 世界の文学2 イギリス1)

「踏み絵」のことが初めて出てくるところ。
角川文庫版では「踏絵の儀式」と訳され、集英社ギャラリー版では「あの十字架踏みの儀式」となり、「踏み絵」という言葉は出てこない。しかし「十字架踏みの儀式」とかかれ、具体的な内容が想像できる訳となっている。

あの国の人間がそんなことを気にするのは初めてだ。本当におまえはオランダ人なのか、それどころか、もしかしたらほんもののキリスト教徒なのではないか。
(角川文庫)
 
わがオランダ人でそんなことを気にしたのは其の方が実にはじめてである。してみると果たして其の方は本当にオランダ人であるのか、甚だ怪しくなってきた。むしろ其の方こそ真実のクリスチャンに相違ないとの気もするのだが。
(集英社ギャラリー 世界の文学2 イギリス1)
 
将軍がガリバーはキリスト教徒ではないかと疑うところ。
あやしんだけれど、ラグナダとの関係を保つために将軍はガリバーの言い分を飲み込む。
 
法をまげるのではなくて、役人がうっかり忘れたふりをして、巧妙に抜け道を作るようにとの命令だ。もしこの秘密がオランダ人仲間に漏れてしまったら、船の上で首をかき切られるかもしれないから。(角川文庫)
 
だがそれはよほど事を巧く運ぶ必要がある。で、役人たちには、いわばボンヤリしていて我輩を見逃してしまったというていに計らうよう、命令しておこうという話だった。というのは、ものこの秘密が我が同胞オランダ人にでも知れようものなら、彼らの航海中にきっと吾輩の寝首を掻くくらいはやりかねないからというのであった。(集英社ギャラリー 世界の文学2 イギリス1)
 
日本の役人がガリバーの踏み絵のことをうっかり忘れていた、というように取り繕えるように指示をだしておく、ということなのだろう。しかしオランダ人同士なのに踏み絵をしていなかったら首を切る、というのは物騒な話だ。
 
いよいよ出発が近づいてくると、わたしが前にも述べた例の儀式をすませたかどうか、乗組員たちがしきりに訊いてくるので、皇帝に対しても、宮廷に対しても、何ひとつ遺漏のないよう片づけた、ごくあたりさわりのない返事をしておいた。ところが、とある底意地の悪い舟付き給仕が役人のところへ行き、わたしがまだ踏み絵をしていないと密告してしまったらしい。もっとも、役人のほうはわたしを免除するよう指示を受けていたので、このろくでなしは竹の鞭で肩を20回打たれるはめになったという。おかげで、その後はそんな質問を受けることもなくなった。(角川文庫)
 
船に乗る前に、吾輩は何度も船員たちから例の儀式をやったかと聞かれた。だがそれは吾輩、なに皇帝ならびに宮廷関係の方は、むろんあらゆる点で納得の行くようにしてきたといったような、せいぜい当たらず障らずの返事でごまかしておみたが、実はこの船長というのが実にいやな奴で、わざわざ役人の所へ出かけて行って、吾輩がまだ踏絵をしていないことを言ったのである。だが、役人の方では、もうちゃんと我輩を通過させるよう指令を受けていたあとだから、かえって船長の方が肩口を20ばかり竹の棒で殴られたような始末だった。おかげで、その後は二度とこの種の質問に悩まされことはなくなった。(集英社ギャラリー 世界の文学 いぎりす2)

しつこくガリバーが踏絵をしたかどうかが船員の中で話題になっている。

ところで役人に密告するのが訳によって違っている。

前回の岩波文庫では「質(たち)の悪いボーイ」

角川文庫では「底意地の悪い舟付き給仕」

集英社ギャラリーの世界の文学では「船長という実にいやな奴」

左は図書館に並んでいる「集英社ギャラリー 世界の文学 イギリス1」の本。

翻訳によって、ボーイなのか舟付き給仕なのか、はたまた船長なのか、違いが大きい。
これは原文の英語を見るしかないなあと思い、図書館にある英語の「ガリパー旅行記」を探すことにした。
調べたことは次回のブログに書くことにしよう。

ところで「踏み絵」はいつ頃日本で始められたのだろう。
ネットで調べてみると、「1629年に踏み絵を導入」という記事があった。
1603年に徳川家康が征夷大将軍になる。
1612年に家康が「キリスト教禁止令」をだしている。
1624年スペイン船来校禁止
1637年天草・島原の乱
1639年ポルトガル船入国禁止
というように日本は「鎖国」状態になっていく。
その目的の一つに「キリスト教禁止」があったことはまちがいない。

この日本の様子は1645年にオランダで出版された「日本大王国史」に書かれている。そこには武士の切腹やキリシタンの拷問にも触れられていると言う。
また1700年頃に出された「地理学体系」(ロンドンで出版)には、「オランダ人が踏絵をしている」ことも書かれているそうだ。
こういった事実をスウィフトは知っていて、ガリバー旅行記に踏み絵のことを載せたと推測される。

さて、ガリバーは踏み絵をせずに日本を出発したことがこれでわかった。
次は原文でどのように書かれているのかを調べてみたいと考えている。

 

 

 

 

ガリバーと踏み絵

ガリバーは踏み絵を踏んだのか

アイルランドへの旅行が決まったので、なにかアイルランドに関係する小説は?と探すと、スウィフト作の「ガリバー旅行記」があるではないか。
久々に「ガリバー旅行記」に目を通すことにした。
高校の時に「抄訳ではなくて全訳を」と思い読んだことがある。今回は左の岩波文庫と原民喜訳の「ガリバー旅行記」を読むことにした。

今回私の興味を引いたことの一つは、ガリバーが日本に立ち寄ったこと。このことは高校のときに気づいた。そして今回気がついたことは「ガリバーと踏み絵」の関係だ。
ガリバーが日本を訪れた時代は江戸時代。キリスト教が禁止されていた時代だ。岩波文庫(平井正穂訳)を見てみよう。

第三篇「ラピュータ、バルニバービ、ラグナダ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記」がある。その第十一章の最初に要約が書かれている。
『著者、ラグナダを後にして日本に航海する。その地からオランダ船に乗ってアムステルダムに帰り、ついでアムステルダムを後にしてイギリスに帰る。』とある。

1709年5月6日に、ガリバーはラグナダの国王から親書を預かり日本に向けて出発する。15日の航海の後に日本に到着する。親書を持っているガリバーは公式の使節として扱われ江戸に行くことになる。江戸についたガリバーは皇帝(将軍のこと)に拝謁する。将軍はラグナダ国王への信義を重んじて「願いがあればなんなりと申し出るがよい」と声をかけられる。
そこでガリバーが願い出たことは、自分はオランダの商人なので彼らがヨーロッパに帰るときに一緒に帰れるように長崎まで無事に送り届けてほしいことと、

私の庇護者であるラグナダ王との誼(よしみ)に免じて、オランダ人に課せられている例の儀式、つまりあの「踏絵」の儀式を行うことを私に対して免除するという、陛下の特別のご承諾があれば有難い、・・・

と言う。ここで「踏み絵」が登場してくる。
私は以前に読んだときはあまり気にすることもなく読んでいたと思いかえす。

ガリバーの願い事を聞いた将軍は、

この問題でそんなに気を揉むのはオランダ人の中でもお前が最初だと思う、正真正銘のオランダ人だかどうだかどうも怪しくなってきた、本当はクリスチャンではないのか、どうも心配だ、

と言うようになった。しかし親書を持ってきているのだからラグナダ国に恩を売っておこうと考えたのか、将軍はガリバーの要望に応じるが、次のように言っている。

事態の処理にはよほどの知恵を働かせなければならない、そこで、いわばついうっかりしたということにして、お前を見逃すようにと、役人には命じておこう、もしこの秘密がお前の同国人であるオランダ人たちに嗅ぎつけられると、航海中に彼らはお前の喉を搔ききらないとも限らない

踏み絵のことをここまでスウィフトは知ってガリバーを書いたのかと思った。
日本の「踏み絵」というのは、かなりヨーロッパに知られているのではないかと私は考えた。
このあとも踏み絵の話題は出てくる。

出帆の前のことだったが、2、3人の乗組員から、あの儀式(つまり前に述べた例のことだが)はもうちゃんとすませたのか、とうるさく訊ねられ、私は皇帝やその宮廷の人々の気のすむように万事滞りなくすませてきたとか何とか言って、質問をはぐらかしておいた。ところが一人の質(たち)の悪いボーイがいて、そいつが役人の所に出かけて、私だまだ「踏絵」に儀式をすませていないと訴え出たのだ。私を見逃すようにとかねてから指図を受けていた役人は、逆にその不届者に対して竹で肩を20回たたくという笞刑(ちけい)を申し渡した。このあと、私は二度とこういった問題で煩わされることはなかった。
 
こうしてガリバーは5年6ヶ月ぶりに祖国の土を踏むわけであった。
 
上の地図は岩波文庫「ガリバー旅行記」にあったもの。
 JAPANの文字と、Iedoという地名がある。これは江戸のことと思われる。
(赤字・赤丸等は私が記したもので、原図にはない)スウィフトが「ガリバー旅行記」を出版したのが1726年のことだから、江戸時代中頃にはヨーロッパにJAPANや江戸の名前が知られていたことがわかる。
 
ガリバー旅行記に「踏絵」のことが書かれていたことがわかったが、他の翻訳ではどうなっているのだろう?
原文でスウィフトはどのように書いているのだろうか?ということが気になってきたので調べてみよう。
 
 

 

 

 

 

 

 

点字と江戸川乱歩とビブリア古書堂①

ビブリア古書堂の事件手帖と二銭銅貨

点字の研修会で、昨年11月に京都ライトハウスあけぼのホールで行われた講演会のことをきいた。講師の岸博実さん(京都府立盲学校)の話を聞いた人の資料を見せてもらった。

点字について学習中の私だが、「直接講演のテーマではありませんが」とことわって最近のニュースとしていくつか紹介された話のなかで「ビブリア古書堂の事件手帖」の話が私の関心を引いた。

点字の世界ではよく知られたことらしく、江戸川乱歩の作品「二銭銅貨」は「点字」を扱ったものとして有名らしい。

岸さんの話によると、「ビブリア古書堂の事件手帖」第4巻でこの江戸川乱歩の「二銭銅貨」が取り上げられていて、その本のなかで「初版本の点字の間違いを江戸川乱歩が訂正をした」ということが書かれているということだった。
私はこの「ビブリア古書堂の事件手帖」という本があることは知っていたが、読んだことはなかったのでいい機会なので読んでみた。(面白かったので最終巻の7巻まで読んだ)
岸さんの話では、間違ったままで今も出版されている文庫本がある、ということなので、私も図書館などで借りて調べてみた。

「ビブリア古書堂の事件手帖」の事件の展開はここでは紹介せずに、点字をつかった暗号だけについて紹介したい。

初版でどんな間違いを江戸川乱歩がしたのか、その初版本をもとに文庫本にしているのが岩波書店の「江戸川乱歩短編集」(2008年8月19日第1刷発行)。
編集付記として、
「本書は雑誌初出の本文を底本とし、平凡社版『江戸川乱歩全集』第1巻〜第8巻(昭和6〜7年)と校合した。初出は次の通りである」と書いてある。そして「二銭銅貨」については、

「二銭銅貨」 大正12年4月号『新青年』
と記されている。

「ビブリア古書堂の事件手帖」では、
次のような説明がある。
「・・・最初に発表された時、拗音の点字記号を間違えていたのです。戦後、桃源社版の全集でようやく訂正されました。」

まず最初に江戸川乱歩の書いた「二銭銅貨」にある、暗号としての点字記号について説明しておこう。

暗号文「陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、・・・・」は、南無阿弥陀仏の6文字を使って書かれている。この6文字が6点点字をつかって暗号文になっている、というのがこの「二銭銅貨」のポイントである。
点字は縦3個、2列の6つの◯で作られる。
6つの◯を、左上から1,2,3と番号を打ち、右に移って上から4,5,6と番号をつける。こうして1〜6の番号でどの点か伝えることができる。
たとえば最初の「陀、無弥仏、南無弥仏」は、6つの丸に左側から縦に南無阿弥陀仏と文字を置いてみると、「陀」は点字の5の点、「無弥仏」は点字の2,4,6の点になる。「南無弥仏」は点字の1,2,4,6の点となり、実際に点字にすると下の図のようになる。

最初の5の点は「濁音符」であり、次にある言葉が濁音であることを示している。この点字を読むと、「ゴ」「ケ」となる

そうしてこの暗号文を点字にして読んでみると、
「ゴケンチョーショージキドーカラオモチャノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤショーテン」となる。その意味は、
「五軒町の正直堂からおもちゃの札を受け取れ、受取人の名は、大黒屋商店」。

実際に点字で書く場合は、分かち書きをするのでこんなに詰めて書かない。また「〜は」は、読むときのように「わ」(3の点だけ)と点字では書く。
正確な点字文ではなく、暗号として点字を使っているので、多少の疑問点は無視するとして、無視できないのは「拗音(ようおん)」の書き方だ。

拗音(ようおん)というのは、「シャ、シュ、ショ」「チャ、チュ、チョ」と発音する音のこと。小さい「ャ、ュ、ョ」を使って表される音だ。
点字では下のように書く。

ローマ字でチャ、チュ、チョ、シャ、シュ、ショを書くと
tya ,tyu  tyo, sya, syu, syo 
となる。
yの部分を拗音を表す記号と考えて、4の点でそれを表す。残っている
ta, tu, to, sa, su, so  
は、「タ、ツ、ト、サ、ス、ソ」であり、それをそのまま点字にする。
そうしてできたのが、上の拗音の点字。点字の拗音表記は、点字二つ分を使って一つの言葉をあらわしている。濁音が「5の点+濁音にする音」と同じように。
点字入力の方法は、日本語をローマ字で表記することをうまく使っている。

このことをふまえて、岩波文庫の「江戸川乱歩短編集」の「二銭銅貨」にでている暗号文の点字表記のところを見てみよう。

これが岩波文庫のある「二銭銅貨」の点字の部分を私が写し取ったもの。
星印の部分には「濁音符」という言葉が書かれている。また*印には「拗音符」という文字が書かれている。小さくてかけなかったので星印と*印で代行している。
拗音の「チョ」「ショ」「チャ」の部分にマーカーで記しておいた。

本文の暗号文を写したものが左である。

これを見ると、江戸川乱歩は点字の拗音は、「小さいョ」という意味で「拗音符+ヨ」「拗音符+ヤ」と書くと思ったようだ。
チョ→チ+拗音符(4の点)+ヨ
ショ→シ+拗音符(4の点)+ヨ
チャ→チ+拗音符(4の点)+ヤ
と考えて暗号文の点字を書いたように思われる。

「ビブリア古書堂の事件手帖」には次のような図が書かれている。

この図で江戸川乱歩の「拗音」の間違いがよくわかると思う。
戦後版の点字は正確な点字の拗音が書かれている。

この「二銭銅貨」という作品が書かれたのは大正12年(1923年)。
石川倉次が考案した点字が学校で使われた最初の年が1890年(明治23年)。
点字が官報に公表されたのが1901年(明治34年)
点字新聞が発行された最初の年が1922年(大正11年)。
点字がまだまだ一般化しない(今もそうだが)時代に、点字を取り上げて作品にした江戸川乱歩の先見の明はすばらしいと思う。

しかし、戦後に訂正されたはずのものが、どうして今も訂正されないままの版が出版されるのだろうかという疑問が残る。
この岩波文庫以外にも私が手にした他の出版社の文庫本については、次回に書くことにする。