ポルトガル紀行 23

クアトロ・ラガッツィ

IMG_20160320_0001

私がポルトガルに興味を持ち続けていたのは、この本を買っていたから。
奥付には2003年10月30日
第一刷発行
とある。
若桑みどり著 集英社、550ページにも及ぶ力作である。
13年前に買っているが、全部を読み終えたわけではない。ポルトガルに行く前にもう一度読み始めたが、未だ読み終えることのできない、私にとっては未読の大作。
このブログを書くために、必要なところを読み返している。ブログはポルトガルから帰ってきてしまったが、この本とのつきあいはまだしばらく続きそう。

IMG_20160320_0003_2

カバーがすばらしい。表の船の絵は
狩野内膳「南蛮屏風」左隻 船出(部分) 神戸市立博物館
とある。狩野内膳(かのうないぜん1570年〜1616年)は安土桃山時代から江戸時代初期の人。長崎にいたことがあるということから、実際に見た南蛮船がこの絵に生かされているのだろうと言われている。天正少年使節団が乗った船はポルトガルの船と言われているので、このような船だったのかもしれない。

IMG_20160320_0004

IMG_20160320_0005この本の見返しには、写真のような地図が付いている。
上の世界地図は「オルテリウス編 世界の舞台 世界図 1570年(神戸市立博物館)。 日本は文字通りに極東の国である。
日本地図は、「テイシェイラ「日本図」1595年」(神戸市立博物館) 。

天正少年使節地図

今と比べては、大変不完全な地図だが、このようにして人間の世界は広がってきたのだろう。
左の地図は「クアトロ・ラガッツィ」にある地図。天正少年使節団が通った道筋がわかる。
長崎−リスボンを船で航海し、ポルトガルからスペイン・イタリアを訪問している。右の地図を見れば、私たちが訪れたコインブラ、バターリャ、シントラ、リスボンの位置がよくわかる。

1582年に出発し、1590年に帰国。足掛け8年にもおよぶ旅は、日本の歴史的な出来事として語り継がれるだろう。
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティーノの4少年。出発した当時の年齢は13〜14歳といわれている。
海の上で、そして異国で、ずっと一緒だった4人は、日本に帰ってからの道は同じではなかった。
「クアトロ・ラガッツィ」にはこんなふうに書かれている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(天草のコレジオで学んだ出身者のその後の動静についてのリストが書かれ、その後に次のような文章が続く)

 彼らはみなコレジオで教育を受け、マカオでさらに勉学し、日本のキリスト教会を支えるべく教育されみずからも勉学に励んだ者たちである。そして彼らの運命は、迫害の前に病死したふたりをのぞけば、ふたつしかなかった。
日本を亡命するか、または殉教である。このリストにない者は消息不明の者たちである。その多くは棄教者であった。
 マンショは42歳で病死した。マルティーノは国外追放となりマカオで死んだ。そしてジュリアンは潜伏し、長崎で殉教した。ミゲルはいつ死んだかわからない。彼は棄教者となった。4人の生涯は4枚の葉のように別れていった。(P489〜490)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

千々石ミゲルについては、最近墓石が見つかったとかで研究が進んでいるようだ。本も出版されているが、私にはそれを読み解く力量はない。

実際にポルトガルで、彼らが見たり聞いたりしとことと思われることに私もふれて、その感慨は深い。500年の長い歴史が不思議に身近に感じられる。彼らの運命は歴史に振り回されたのかもしれない。しかしその足跡はだれにも消すことはできない。

*「クアトロ・ラガッツィ」とはポルトガル語で「四人の少年たち」という意味。

金平糖、煙草、天麩羅

①天正少年使節団と縁の深いところをまとめてみる。

天正遣欧少年使節が祈りを捧げたシントラの王宮の礼拝堂、彼らの宿になったサン・ロッケ教会。

IMG_8754

IMG_8850

彼らが訪れたり、船から見たであろうテージョ川の河口にあるジェロニモス修道院とベレンの塔。

IMG_8878

IMG_8895

使節団が訪れたバターリャ修道院の未完の礼拝堂、そしてクリスマスを過ごしたというコインブラ大学。

IMG_1280

IMG_8335

②ポルトガルに由来する日本の文化

煙草と漢字で書くが、その由来は「TABACO」。そして天麩羅の原型はこれ。

IMG_8845

IMG_9115

IMG_8374

忘れてはならない、これが金平糖のルーツ。煙草、天麩羅、金平糖と漢字で書いているがもとはポルトガルにあることが実感できた旅だった。

また、日本と縁の深いフランシスコ・ザビエルの肖像画やポルトガル総領事だったモラエスが住んでいた家を見ることもできた。
FADOでは日本に帰ってきてから、ちあきなおみさんの歌声にあらためて日本とポルトガルのつながりを考えることができた。

IMG_9786

ポルトガルでの自分達へのおみやげは靴とコルク製のパッグ。

コルク製のものがたくさんあるのに驚いた。扇子や傘もあった。
帽子もハット形だけでなくキャップ型もあり、バッグにいたっては多種多様なデザインがあった。
靴は雨の中を歩いた時に買った。もう靴の中まで水が入りたまらずに靴屋さんに入る。運動靴でも買おうかとおもったが、ちょっとおしゃれなデザインの靴があったので試してみた。靴のサイズが通じない。英語で〇〇cm、というがだめ。履いて感じの良いのを買うことにした。ホテルに帰ってみると、なんとスペイン製だった。スペインも革の文化の国だからラッキーと思う。

残った課題は「ジプシー」のこと。現地ガイドさんに聞こうかと思ったが聞く機会がなかった。日本に帰ってきて関西国際空港で添乗員さんに聞く。
「ロマのことですか。スペインに比べると人数は少ないです。そしてスペインのように目立っていません・・・・」もう少し詳しくと思ったら、なんと飛行機でパスポートを紛失したというツアーの人が出てきて、そちらの対応に・・・。

さて、パスポートをなくしたと言いに来た人は、どうなったのだろう。飛行機の中だから心配なとおもうのだが、、、、。旅にはいろんなことがおこる。

23回になった「ポルトガル紀行」もこのへんで中締め。機会があれば、また書くことにしょう。

 

 

 

ポルトガル紀行 13

ポルトガル5日目
      リスボン シントラの宮殿

IMG_8679

IMG_8778

ロカ岬から16km、バスて約30分。シントラの宮殿にやってきた。

「地球の歩き方」によれば、深い緑に囲まれた山の中に、王宮を中心として貴族の別荘や城壁が点在するこの地は、イギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」とたたえたところ。美しい景観は、世界遺産に登録されているということだ。

まず王宮の見学をする。
ここはもとはイスラム教徒が建てたものを、14世紀にジョアン一世が増改築したもの。特徴となっている白い大きな煙突は、その時につくられたそうだ。

IMG_8695

IMG_8771

歴史的な建造物は修復の繰り返し。私たちが行った時は、厨房の修復中だった。

IMG_8768

IMG_8770

左上は当時の調理鍋。右上は煙突の下から上を見たところ。

IMG_8685

27羽の白鳥がみな違ったポーズをとっている白鳥の間。
ジョアン一世にはイザベラという娘がいて、1662年にフランスの貴族に嫁いでいる。イザベラが白鳥が好きだったこと、27羽と言うのは嫁いだ時の娘の年齢、白鳥は生涯伴侶を変えることはないといういう言い伝えがあるから、というガイドさんからの説明。
ここで天正少年使節団は歓迎のもてなしを受けたという。この時には、天井には白鳥が描かれていなかった。IMG_8697

IMG_8700

天井一面がカササギでうめつくされているカササギの間。カササギの口から「POR BEM」とかかれたリボン、手にはランカスター家の紋章のバラの花。
これはには意味があるとガイドさんの話。ジョアン一世がお気に入りの女官にキスをしたところをフィリッパ王妃に見つかり、王は「善意でキスをした」と弁解。王妃はこのことを口外しなかったが、女官たちの間にうわさがたつ。王は「おしゃべり」と言う意味を持つカササギの絵を女官の数だけ天井いっぱいに描かせたという。フィリッパ王妃への敬意を表するために、王妃の実家のランカスター紋章のバラの花、「善意でキスをした」と言う意味の「POR BEM」と書いたと伝わっている。
白鳥の間もカササギの間も本当のことはわからないなあ、と私は思う。
伝説と真実のちがい。おもしろいほうが後世に伝わるから。
IMG_8736

アズレージョで狩猟の様子を描いた紋章の間。
王宮だけにその装飾や調度品はすばらしい。

IMG_8716

IMG_8721IMG_8718ここは「ガレー船の間」。
16〜17世紀のころに描かれたものらしい。こういう絵があると、大航海時代と言われた頃の船の形のちがいや、港の様子が想像できる。
こういった船で、日本まで来たのかなあと思う。フランシスコ・ザビエルもこんな船に乗ったのかもしれない。

IMG_8754

そしてここが天正少年使節が祈りを捧げたという礼拝堂。
天正少年使節団の意味や経過は、本やネットにたくさん紹介されているので、ポルトガルへきてからのことで、私が知ったことを書いておく。

1582年(天正10年)2月20日 長崎港を出港
1583年11月   インドのゴアに到着
1584年5月    アフリカ喜望峰をまわる。
1584年8月11日 ポルトガルのリスボンに到着。
           (このあと見学に行ったテージョ川河口にある
            「ベレンの塔」を見ている。)
           少年使節団の宿舎となったのは、サン・ロッケ教会
           (この教会も私たちは見学をした。)
           マドリードに出発するまでに、シントラの王宮
           訪れている。
           ここでポルトガルの副王アルベルト・アウストリアに
           謁見したという。
1584年11月   スペインのマドリードに入る。
1585年3月23日 ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。

さまざまな行事をこなした後、少年使節団は日本に帰る支度をはじめる。

1585年12月中旬 ポルトガルに戻ってくる。 
           私たちが訪れたコインブラで2週間すごし、
           大学生たちと交流、クリスマスを楽しんだそうだ。
1586年      バータリアの未完の礼拝堂を訪れる。
           アルコバサ修道院を訪れる。
           ナザレの町を訪れ、リスボンに戻る。
1586年4月    日本に向けて出発。
1587年5月    インドのゴアに到着。
1590年7月21日 長崎に帰港する。

こうして書いてみると、私たちが訪れたところに天正少年使節のたずねた場所が重なり、同じものを見たのかと思うと何か感慨深い。しかし「白鳥の間」も「カササギの間」も「ガレー船の間」も天正少年使節団が来た時には、私たちが見た天井絵はなかったようだ。きっと派手さよりも質実の美があったのではないかと思う。
 さて天正少年使節団のことは、これからも見学した場所に合わせて書いていくとして、私たちのたびに戻ろう。

IMG_8746

IMG_8779

IMG_8782

IMG_8783

IMG_8784

IMG_8789

王宮からは、貴族の別荘らしき屋敷が見える。風光明媚なところなのだ。

IMG_8795

王宮の見学の後は、町中を歩く。観光地らしく、食べ物のお店、おみやげ物のお店、コルクを使った品物のお店など、斜面の路地にへばりつくように並んでいる。エッグタルトのお店で買い物などをしてバス停に来ると、左の写真のようなパトカーが見えた。
また警官の姿も見える。

IMG_8793

 

 

静かな観光地なのに、なんとなく不安な空気が感じられるときもある。
これも2016年という時代の象徴なのかもしれない。
ポリスの横の看板は映画の宣伝か?「進撃の巨人?」に似ているが・・・・・。

さて、時間もお昼時。バスに乗ってリスボンのレストランへ移動する。