アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 5

二日目 ボストン市内観光その4

これはロングフェロー邸でもらったパンフレットの一部である。そのとき日本語の説明文ももらった。それは以下のようなものである。ロングフェローの若い時の写真がのっている。なかなかのハンサムではないか。

            ロングフェロー・ハウスの歴史

 この家は、裕福な英国王党員であった若き陸軍少佐ジョン・ヴァソールが、1759年に父から相続した地所に建てたものである。当時、キングス・ハイウェーとして知られていた通りから、チャールズ川迄の野原を南に眺める、二段のテラスの上にこの美しいコロニアル風の邸宅は建築された。
 それから15年後の1774年9月、アメリカ独立戦争勃発の前夜、ヴァソール少佐は独立派の軍隊に包囲され、避難のため、家族を離れボストンへ逃げ、それからイギリスへと海を渡ったのである。
 アメリカ独立戦争の初期には、ジヨージ・ワシントンがこの家を住宅兼本部として使用している。ワシントンとその妻マーサは1776年1月にこの家で結婚17周年を祝っている。
 1791年にはアンドルー・クレイギーがこの家を買い取り、2つのベランダと裏に廣い部分を付け足し、拡張した。ケンブリッジ市では今まで建てられたことのなかった最初の氷室や温室はこの時に建てられたものである。クレイギーは贅沢な生活を送ったため、1819年に亡くなったときには広大な改築された家は残ったものの、妻はほぼ破産状態にあった。
 クレイギー未亡人は、主人の残した借金を返すため、下宿人をおかなければならなかった。下宿人の多くはハーバード大学の優秀な教授連であった。そして1837年、近代語学教授として任命されたばかりのヘンリー・ワーズワース・ロングフェローがここに部屋を探しにきたのであった。
 クレイギー夫人はもう学生には部屋を貸していないと説明したが、ロングフェローが教授だと知ると喜んで彼を受け入れた。ロングフェローは生涯残りの45年間をこの家で過ごすことになる。この家で書かれた詩によって、彼は19世紀アメリカでは最も好かれる詩人となるのである。「エヴァンジェリン」や「ハイアワーサ」の詩集で詩人として世界的にも有名であるロングフェローはまた、アメリカ国内でも海外においても一流の学者としてすこぶる評判がよかった。広くヨーロッパを旅行し、学問を治め、24年間にもわたりメイン州にあるボードイン大学の近代語学部と、ハーバード大学でフランス語、スペイン語、イタリア語を教えている。またダンテの作品(神曲)の翻訳者としても有名である。

 1843年、ロングフェローはボストン市ビーコン・ヒルに住むフランシス・エリザベス・アプルトンと結婚する。財産家である父 ネーサン・アプルトンはこの家を結婚プレゼントとして娘夫婦に買うのである。・・・・・略・・・・・

 1973年この家はアメリカ政府に寄贈され、今日ではアメリカで最も愛されている詩人の一人となったロングフェローの記念館となった。現在、記念館の修理、維持は国立公園局が行っている。

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これでロングフェロー邸の歴史がよくわかった。そしてMajorが少佐ということも。

ロングフェローの長男チャールズは世界中を旅し、日本でも何年か過ごしている。このロングフェロー邸にある屏風や陶器類は彼が送ったものだそうだ。

ロングフェロー邸の玄関からの風景。100年前とほとんど変わっていないそうだ。国立公園の管理下だからだろう。

私たちはロングフェロー邸の見学を終えて次の目的地、ハーバード大学に向かう。

ハーバード大学

ここがハーバード大学の正門。沢山の観光客が見学にきていた。

ハーバード大学は1636年の創設で、アメリカ最古の高等教育機関だそうだ。ハーバード大学は全寮制で、そこで民主主義を徹底的に学ぶとガイドさんの説明。
上の写真のハーバードホールは、ハーバード大学の一番古いところだそうだ。

世界中から観光客がこのハーバード大学にきているみたいだ。写真の像はこの大学を建てるための援助者のうちの一人、ジョン・ハーバード。

足先が光っているのは観光客が触るため。ドイツのブレーメンの音楽隊のロバの足のようなものか?
ハーバードにあやかりたいという心理がそうさせるのだろう。

観光客の多くが足首を触り、記念写真を撮っていた。

300万冊の書籍が所蔵されているという図書館。入りきらないので、地下に巨大な倉庫があるそうだ。私たちはその地下倉庫の上を歩いているんだな、と言いながら移動する。
建物の見学の後、ハーバード大学の生協に行く。
蘇州大学でも行ったが、大学の生協というのはおみやげの宝庫。学生が使っているのかどうかわからないが、鉛筆やボールペンなどを買う。

上の写真の右が生協の入り口。左はアメリカの救急車。日本と色も音も違う。

大学の中にあるスターバックスコーヒーの店。 ニューヨークもそうだったが、スターバックスコーヒーの店が目につく。あまりにも目につくので、結果的にはアメリカでスターバックに入らなかった。メニューを見ると、コーヒーの値段は日本と同程度の値段だった。

 

ハーバード大学にあった塔には、風見鶏がついていた。
アップにしてみた。
北と南をあらわすSとN、その上に金色の大きな矢がついていた。さらにその上に球体が。
カメラの調子が悪いので、ピントが定まらない。(ブログをいつも見てくれている風見鶏さんには、申し訳ない)

 

ハーバード大学、沢山の有名人を輩出している。政治家のケネディ大統領、オバマ大統領、実業家のビル・ゲイツ(中退だが名誉学位を与えられている)、ロックフェラーなどなど。そして原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)の指導者オッペンハイマーもそうである。広島、長崎に投下された原子爆弾は彼の指導のもと製造された。
8月9日、長崎に原子爆弾が落とされた日。世界最高学府の学生たちは何を考えているのか、そして私たち日本人は何を目指していくのか。
自分が撮したハーバード大学の美しいキャンパスの写真を見て、そんなことを考えた。

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 4

二日目 ボストン市内観光その3

ポール・リビアの騎行 Paul Revere's Ride  その2

上の写真は、私が買った本「PAUL REVERE’S RIDE」から。ポール・リビアが教会の塔に二つの灯りを見る場面。二つの灯りを見て、ポール・リビアは馬を走らせる。

アメリカでは、どんなふうにこの「ポール・リビアの騎行」を学んでいるのだろうか。日本に帰ってから左のような本を調べてみた。

そこにはこんな記述があった。

The Shot Heard ‘Round the World

In April of 1775, British troops were sent to the town of Concord, Massachusetts, to capture the weapons the colonists had stored there. The colonists were warned of their approach, though, when Paul Revere made his famous ride through Massachusetts countryside. He called out “The British are comping!”

日本語訳には、

「世界中に鳴りひびいた銃声
1775年4月,植民地人たちが貯蔵していた武器を取り上げるために、イギリスの軍隊がマサチューセッツの町、コンコードに派遣されました。しかし、有名な話ですが、ボール・リビアがマサチューセッツの田舎道を馬で走って、植民地人たちにイギリス軍の接近をふれてまわりました。彼は「イギリス軍が来たぞ」と叫んだのです。

なおこの本の囲み記事として「ポール・リビア」が次のように紹介されている。

アメリカ独立戦争最初のヒーローとなった工芸職人。
フランス系の移民の子で、熱心な愛国派だった。
民兵士官でもあり、ボストン茶会事件にも参加した。
 1775年4月18日、英軍の動きを見張っていたリビアは、英軍のコンコードへの進撃を知ると、ボストンからレキシントン、さらにはコンコードまで馬を駆って暗く寒い夜道を飛ばし、英軍の進撃を触れ回った。700人の英軍をレキシントンで待ち構えていたのは、わずか77人の植民地の民兵(ミニットマン)で、夜明けの空に銃声が響き、これが独立戦争の始まりとなった。
この英雄的行為はロングフェローの物語詩「Paul Revere’s Ride」によって描かれ、建国神話の一つとなった。

この記事の内容が、一般的な「ポール・リビアの真夜中の騎行」の理解だろうと思われる。 しかし、この囲み記事の内容も正確とはいえない。
たとてば、ポール・リビアは本当に「英国軍が来た」と言ったのか?
またボール・リビアはコンコードまで馬を走らせたのか?

さてその疑問はまた考えることにして、
「ポール・リビアの真夜中の騎行」がどのようにアメリカの子どもたちに知られているのかを調べていると、図書館に次のような子ども向けの本があった。

「ジュデイ・モードとなかまたち」シリーズである。
その第6巻は、主人公のジュデイが家族旅行でボストンに行き、アメリカの独立や自由について学んでくるのがテーマになっている。
ボストンの、ポール・リビアの家に行き、「真夜中の騎行」についての資料を手に入れる。そして旅行から帰ってから、学校でその内容を紹介する場面がある。

「今日は、ジュディがボストン旅行で買ってきたパラパラマンガを読むことにしよう。マンガに書いてある文章は、『ポール・リビアの走り』という詩で、物語にもなっているんだ」

「あたし、リビアの家を見ました。かべ紙も、入れ歯も、みーんな!」
ジュディが口をはさみましたが、トッド先生は話をつづけました。
「この詩は、こどものころ、先生のお気に入りだった。学校でおぼえさせられたし、そらでいえないといけなかったんだよ。作者は、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー。アメリカがイギリスから独立するとき、3人の男たちが真夜中に馬を走らせたという有名な話をもとにしている。その3人のうちのひとりが、ポール・リビアだったんだ」
「3人のなかには、お医者さんもいたんですよね!」
ジュディは手をあげて、みんなにおしえました。
「しーっ!」ジェシカが注意しました。
 トッド先生は声を落として、ささやくように朗読をはじめました。3年T組は、しずまり返りました。
「『よくききなさい 子どもたちよ ポール・リビアの真夜中の走りを・・・』」
 詩のなかみは、ポール・リビアが真夜中に馬を走らせ、どうやってイギリス軍が攻めてくることを農場や町の人びとに知らせたか、というものでした。
 ジュディはまた手をあげました。
「先生!、先生! 『古き教会』って、オールド・ノース教会のことですよね。あたし、見てきました! ほんとです! 『ひとつなら陸から、ふたつなら海から』の意味も知ってます! ポール・リビアが友だちに言ったんですよね。イギリス軍が陸から攻めてきたらランプを一つ、海から攻めてきたらランプを二つ教会にさげるようにって」・・・・(略)・・・
「ポール・リビアは、二人の重要人物に危険を知らせて逃したんだよ。サミュエル・アダムスと、ジョン・ハンコックにね。しかし、みんなに知らせる前にイギリス兵に止められて、馬をうばわれてしまった」
「でも、(3人のうちの1人の)お医者さんが逃げて、みんなに知らせたんですよね!」とジュディ。
「そのとおり。それに、ポール・リビアのように馬を走らせた有名な女の子もいたんだ。名前は、シビル・ルディントン」
・・・・・・・

物語はまだ続く。
この本、「ジュディ・モードの独立宣言」は2005年に出版されている。日本語に翻訳されて出版されたのは2007年3月26日。

10年ぐらい前のアメリカの小学校の先生たちの世代の人達は、小学校の時に、ロングフェローの「Paul Revere’s Ride」の詩を習っていたことがこの本から想像できる。
そして暗唱できるようになるまで練習していたこともわかる。ロングフェロー邸のパークレンジャーさんもそうだったのだろう。

さて、ポール・リビアの1775年4月18日の行動をまとめてみると、下の地図のようになる。この地図は私がロングフェロー邸で買った本の表紙裏にあったもの。

①ポール・リビアは以前から馬で伝令のような役目をしていた。友人で保安委員会委員長のウォレンから、レキシントンに滞在しているハンコックとアダムズに、ボストン駐留のイギリス軍が軍事行動を起こし始めていること、イギリス軍が二人を逮捕しようしていること、コンコードの武器貯蔵庫爆破の計画があることを知らせるように頼まれる。
②このメッセージを、ポール・リビアとウィリアム・ドースの二人が別路で伝えることになる。(上の地図の青い線がリビア、緑の線がドーズ)
③リビアは前から友人と秘密の合図を決めていた。それがクライスト教会(オールド・ノース教会)の塔の上の合図(一つなら陸路、二つなら海路)である。
④リビアは友人とボートでチャールズ川を渡り、ボストン対岸のチャールズタウンに着く。ランタンの合図が二つだったことを知り、真夜中の疾駆をはじめる。夜の11時頃である。
④零時から零時半ごろにレキシントンの牧師館に到着し、ハンコックとアダムズにウォレンの警告を伝える。レキシントンに到着するまでの途中、大声で家々に警告を発し、それが「イギリス兵が来たぞ!」と言ったとして伝わっている。しかし当時の植民地の人達は自分たちはイギリス人と考えていたので、「イギリス兵」ではなく、「正規軍がやってくる」ではないかという説が有力である。

⑤ポール・リビアの到着した約30分後にウィリアム・ドーズが到着する。二人は直ちにコンコードへ警告のために馬を走らせる。
⑥途中、コンコード在住の医師サミュエル・プレスコットに出会い、3人でコンコードをめざす。
⑦数マイルほど駆けたところでイギリス兵に見つかる。リビアは捕まり、ドースは脱出し、プレスコットだけがうまく逃げ出し、コンコードに到着し、警告を伝えた。

これは、「記録と記憶のアメリカ」(和田光弘著 名古屋大学出版会)という本をもとにして、私の理解のできるところでまとめたものである。

コンコードに到着したのは、「ジュディ・モードの独立宣言」の小説に書かれているように、ウィリアム・ドースであり、ポール・リビアはコンコードには到着していなかった。
しかし彼の行動は、ロングフェローの詩「Paul Revere’s Ride 」によって広く知られることになった。ロングフェローは3人の中でポール・リビアに一番の功労者としての位置づけをしたのである。それは他の2人くらべて、ポール・リビアのこの事件までの活動や、事件後の生き方が影響しているのかもしれない。

そしてロングフェローの筆の力が、アメリカ中の人が知っている歴史的な話として今も語り継がれるものとなったのだと思う。
これ以上のことは私の力量を超えているのでここまでとしておく。先に上げた本、「記録と記憶のアメリカ」にはそれらのことについて、詳しく記述されている。

一番最後の写真は、この後見学したボストン美術館にある、「ポール・リビアの肖像」。(ポール・リビアをネット検索するとかならず見つかるこの肖像画は、ボストン美術館にあることがわかった)

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 3

二日目 ボストン市内観光その2

ロングフェロー邸の裏庭はとても美しい。ぶどうも植えられており、青い実がなっていた。

ロングフェローの詩の中で、一番有名だろうと言われているのが、「ポール・リビアの騎行」。「ポール・リビアの真夜中の騎行」とか「ポール・リビアの疾走」などとも言われている詩だ。

ポール・リビアの騎行 Paul Revere's Ride

1775年4月18日から19日にかけて、レキシントン・コンコードの戦いの前夜、真夜中の伝令として走り回ったことをとりあげ、詩にしたのがロングフェローであり、「Paul Revere’s Ride」として知られるようになった。事件から86年後の1861年、リビア死後40年もたってからのことである。

上の写真はロングフェロー邸で買った「ポール・リビアの騎行」の本である。ロングフェローの原文の詩にテッド・ランドと言う人が絵を書いている。

見開きで、左側に絵、右側に詩の一連がのっている。
詩の部分だけを拡大して抜き出すと、つぎのようになる。

この詩の全文は130行にもおよぶもので、英語の詩に慣れていない私はまずそれにびっくり。

日本に帰ってきてから、この詩の全文とその訳文がないかと、インターネットなどで調べたがみつからない。唯一見つかったのが広島大学の「広島大学イングリッシュ・ポッドキャスト」というホームページ。日本語訳はのっていないが、原作の詩と丁寧な注と英文の朗読がMP3で提供されている。朗読時間が15分31秒で、初級から中級と書かれているが、私にとっては意味をとるのに精一杯だった。

http://pod.flare.hiroshima-u.ac.jp/cms/?itemid=627

ウィキペディアで「ポール・リビア」を調べると、詩の出だしの一節がのっている。

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Listen, my children, and you shall hear お聞きよ子供達。これは聞いとくべきだよ
Of the midnight ride of Paul Revere, ポール・リビアの真夜中の騎行の話だ
On the eighteenth of April, in Seventy-Five; 時は1775年、4月18日の夜
Hardly a man is now alive 今はもうだれも生きてはいないよ
Who remembers that famous day and year その有名な日と年のことを憶えている人は
On the midnight ride of Paul Revere ポール・リビアの真夜中の騎行

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最後の行の On the midnight ride of Paul Revere は、
原文にはない。
たぶんこの詩を引用するときのミスだと私は思う。

ロングフェロー邸のツアーをしている時、パークレンジャーさんが、「何か質問はないですか?」と聞いてきた。
私はこういう時は黙っているのではなく、質問をするのが礼儀だと思っているので考えていた質問をした。
「ロングフェローという人の作品がアメリカではとても有名だということを知りました。小学校でも彼の詩の勉強をするのですか。またどんな詩を学ぶのですか?」

パークレンジャーのガイドさんは嬉しそうに答えてくれた。通訳のガイドさんの話を総合すると、「小学校からロングフェローの詩を学びます。とりわけ有名なのがこのポール・リビアの真夜中の騎行です」ということだ。その通訳のあと、パークレンジャーさんは「その詩を暗唱しましょうか?」と言って、姿勢良く暗唱してくれたのが、

Listen, my childre, and you shall hear
Of the midnight ride of Paul Revere,
On the eighteen of April, in Seventy-five;
Hardly a man is now alive
Who remembers that famaous day and year.
He said to his friend, ”If the British march
By land or sea from the town tonight,・・・・

だった。みんな思わず大きな拍手。
私はネイティブの人が英語の詩を暗唱するのを初めて、見て、聴いたので、大感激だった。アメリカではこんなふうに詩を暗唱して、勉強しているんだ。
そういえば、「赤毛のアン」でも、アンが一生懸命暗唱する場面があった。
パークレンジャーさんの、誇りを持って詩を暗唱している姿がとても清々しかった。

さて、ポール・リビアの「真夜中の騎行」がどうしてアメリカ人の心に響いているのか、それらについては次回に書いてみたい。