ポルトガル紀行 22

ポルトガル7日目
        日本に向けて帰国

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時刻は午前4時48分。ここは人っ子一人みえないリスボンの空港。

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荷物の預けいれもすみ、空港内のスターバックスで離陸までの時間まち。
ポルトガルのスターバックスのコーヒーカップは、日本のものと比べて大きいんじゃないの? いや日本のスターバックスは紙コップが主流で、こんな陶器のカップはなかったのじゃなかったかなあ、などと思いながら時間が過ぎていく。

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予定では7時10分にリスボンの空港をテイクオフするはずだったが、霧と雲のために40分おくれて出発。フランクフルトまで3時間ほどのフライト。 機内食(朝食かな? ホテルからはサンドイッチやジュース・フルーツのBOXが出ていた)をいただく。この飛行機にはビデオを見る機器はついてなかった。

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フランクフルトから日本に向けての飛行機は13時25分発の予定。ラウンジで時間まち。リスボンを出るのが遅れた分だけ待ち時間が少ないと喜ぶが、なんと飛行機の中で約1時間待つことになった。14時28分にテイクオフ。滑走路の凍結のためだという。やはりフランクフルトは北にある分だけ寒いのだとあらためて思う。

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日本に帰るという安心感で、飛行機ではじめてビールを頼む。高度が高いところでのアルコールは体によくないと自重していたが、まあいいか。ビールを飲みながらビデオ楽しもう。

帰りの飛行機で見た映画は、
1.ブリッジ オブ スパイ  Bridge of Spies
 トム・ハンクス主演。ソ連に落ちたU2のパイロットを”交換交渉”で救いだすという実話をもとにした映画。そういえばアメリカのスパイ偵察機U2のパイロットのパワーズは新聞で見た記憶がある。事件が起きたのは1965年。トム・ハンクスらしいなあと思う演技で、本当にこんなことがあったのか?と思いながら画面を見た。トム・ハンクスが演じたドノヴァン弁護士は実在で、「キューバ危機でも捕虜交渉で活躍したという」テロップが最後に流れてぐっと興味がわいた。

2.マイ・インターン THE INTERN
 アン・ハサウェイが可愛くて綺麗。美しさは「プラダを着た悪魔」の時と全く変わっていないなあ、「バットマン」や「レ・ミゼラブル」などで演技の幅を広げているが、このマイ・インターンでのような役は安心して見ていられる。「プラダを着た悪魔」の続編みたいな面も感じられた映画。ロバート・デ・ニーロ扮する年配のおじさんがインターネット社会でがんばる姿もほほえましい。ネット社会でも人と人とのつながりやぬくもりが大事ということが感じられて、ゆっくりと見ることができた。

3.マッドマックス 怒りのデス・ロード MAD MAX
 話題の多い映画。見る機会がなかったので飛行機の中で見る。アクションとストーリーが上手にからみあっていて、作品世界にうまく入り込める映画だった。画面が思いの外きれいで、汚れた世界なのにカラッとした画面作りが良かったのかもしれないと思う。第3作が1985年だから30年ぶりの新作。私の予想を裏切る快作だった。第4作、第5作も予定されているらしいが、、、このテンションがどこまでつづくか不安。

4.モンスターハント 捉妖記
 中国のファンタジー作品。アニメと実写が合成されている。期待して見はじめたが、モンスターの姿形が私には向いていない映像だったので、10分ぐらいで見るのをやめてしまった。日本に帰って調べると中国では大評判だったらしい。

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5.ミスターホームズ Mr.Holmes
 大阪に着陸するまでに見ようと思ったが、日本上空になると何度もアナウンスが入って映像が途切れ、結局最後まで見ることができなかった。主演がロード・オブ・ザ・リングでガンダルフを演じたイアン・マッケラン。真田広之も登場する興味深い映画だった。ストーリーがよくわからなくなっていたので、日本に帰ってから原作本を読む。
映画と原作は幾つか違う展開があるようだ。
だが飛行機で見た映像で、敗戦直後の日本の様子や原爆ドームがリアルに表されていたのには感心した。
ホームズと少年の関係が映画では途中までしか見れなかったし、原作ではえっ?!と思う展開があるので、映画で是非見たいと思った。

3月19日から映画館で放映されたので見に行った。
映画は原作と大きく違うところもあったが、それぞれのよさがあり、映画としてはよくできていた。イアン・マッケランの93歳のシャーロック・ホームズはカッコが良かった。老いに悩まされながらもホームズらしい推理力の冴えも表現されており、後味のいい作品になっていた。特筆すべきは真田広之の演技、英語力。日本の映像がそれほど不自然でなかったのは、真田広之のアドバイスのたまものらしい。パンフレットを買おうと思うと、売り切れになっていた。ファンがいるのだ。
ただ、シャーロック・ホームズのこれまでの映画やテレビとは全く違ったものであることを、ここに書いておかなくてはならないと思った。

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椅子についているスクリーを切り替えると、どこを飛んでいるか表示してくれる。

写真の映像は、到着まで後10時間18分でドイツのポツダム周辺を飛んでいる。飛んでいる状態の画像もなかなかリアル。

ポツダムといえば、ポツダム宣言のポツダム。
窓から見えるこの町並みがポツダム市のようだ。1945年にアメリカ・ソ連・イギリスの3首脳が集まりポツダム会談が行われ、ポツダム宣言が発せられたところ。
飛行機の上からこの町を見ることがあるなんて、想像もしなかった。

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機内食を食べ、ビデオを楽しみ、眠りもとって10時間をすごすことになる。
・・・・・・・・・・・・・・・機内から見える空に太陽の光が見えてきた。窓から見える世界は雪に覆われた世界。IMG_9245

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昼夜境界線を超えて、太陽の光のある世界に入ってくる。

さあ関西国際空港がもうすぐ目の前だ。
大阪の気温4度というアナウンスが流れ、えっーという声があちこちから。
この時の大阪は寒かったのだ。

出発が1時間遅れた分だけ、日本到着も1時間遅れた。
無事に帰国。すべてに感謝。

 

 

ポルトガル紀行 21

ポルトガル6日目
       テンプラ

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写真の正面中央に見えている、細長いビルのようなものは、「サンタ・ジェスタのエレベーター」とか「カルモのリフト」と呼ばれているエレベーター。

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1902年建設といわれているかなり古いエレベーター。
内装は写真のように木製。
高さ45m。
エレベータで上まで行き、渡り廊下のようなところを進むと「カルモ教会」に到着する。
エレベータの頂上と教会の敷地が同じ高さになっているのでそれだけ坂の勾配がきつい町並みということがわかる。
教会に続いているので「カルモのリフト」と呼ばれているのかもしれない。

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上の写真がエレベータの頂上駅から見た町並み。丘の斜面にできあがった街だということがわかる。

さて、ガイドブックや地図を見ながらお目当てのお店を探すが、雨、雨、雨。

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ガイドさんからもらった地図も濡れてしまった。
事前に、靴とテンプラ、この二つがあると思われるお店を調べてもらった。その地図が上。赤ペンがいっぱい。

ポルトガルの名産は、と調べてみた時、靴とベビー服、というのがあった。
ポルトガルは日本と同じく、いいものを長く使う、という意識があるという。
少し高いが、質がよくてながもちするのなら、おみやげにピッタリと思った。

私たちが言っている靴は、健康シューズとして売られているのを見たことがあるとガイドさんが言う。ドラッグストアにあったというので紹介された何軒かの店に入るが、残念ながらそれは思うようなものじゃなかった。

それではテンプラを売っているという店、上の地図の左に「リベルターデのつきあたり あげもの」という文字で印してあるお店をさがす。「リベルターデ通り」のつきあたりということだ。
これかな?

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お店から店員さんが出てきて、こっちこっちと手まねきしている。
入ってみようか。

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隣のテーブルに日本人の女性が二人。テーブルにはポルトガル料理が山盛り。
話を聞くと、「名物の料理を注文したらこんなに沢山出てきてびっくりしたの。」
と言うことだ。ワインですっかりごきげんになって、食がすすんでいるらしい。
これからは夕方にファドの店を探すといっていた。お二人のツアーはフリータイムが多くて、オプションを付けて観光するというツアーのようだった。
お二人からおすそわけをもらう。「食べて、食べて」とすすめられた。
注文ものがやってきた。下の写真の右のお皿、これが日本のテンプラの原型らしい。

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テンプラの由来を調べてみた。 ウィキペディアによると、諸説さまざまな由来が紹介されていた。

1,ポルトガル語の temperar (動詞:「調味料を加える」「油を使用して硬くする」の意。三人称単数で tempera)。または tempero (調理あるいは調味料の意)であるとする説。
2,スペイン語・イタリア語の témporas (天上の日、斎日(en:Ember Days)の意)であるとする説
3,ポルトガル語の temporras (金曜日の祭り)であるとする説
4,ポルトガル語の templo (寺の精進料理)であるとする説
5,テンペラという絵具に由来するという説
6、ポルトガル語の temporal (一時的な・臨時の)から来たとする説
7、油を「天麩羅」(あぶら)と書いていたものが後に音読されるようになったとする説
8、テンピユラリ(天火揺らり)を語源とするとの説

諸説入り乱れているかのような感じだが、室町時代に日本に入ってきた南蛮料理がいまのテンプラ(天ぷら、天麩羅、天婦羅)になったのはまちがいないだろう。

スペインではカルメンとドン・ホセが食べたという「あげもの」を私たちも食べたが、イベリア半島には魚介類を揚げて食べるという文化があり、それが日本に伝わってきたのかと思う。テンプラの原点にふれることができた。

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レストラン前の広場に、パッカー車が来てごみを収集していた。雨が降っていても仕事には関係ないかのようにテキパキと作業が進む。

さて、雨の中をデパートや子ども用品の店をのぞく。雨の坂道をあっちに行ったり、こっちに行ったりして、地図にあったコルク専門店を探し当てたが、なんとリニューアル中。明日がオープンと掲示してあったのにはがっくり。

雨も全く止む気配がなく私の靴も水が入りビショビショ状態になったので、ロッシオ駅から地下鉄に乗ってポンバル公爵広場までいくことにした。ここはバスステーションになっている。ここからバスでホテルに向かう。地下鉄もバスも一枚のフリーチケットがあるので本当に役に立った。

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バスの中の様子。
前乗りでチケットを機械にかざす。ボタンを押して停車を知らせるのは日本と同じ。中ほどにあるドアから降車。

ホテルについて一息。部屋で日本のコーヒーでも飲もうとしたら、電気ポットが故障。外国旅行のたびに持って行った小型のケトルももう限界のようだ。
ホテル前のショッピングセンターに夕食の買い出しのついでに、ポルトガル製の電気ポットを探すことにした。

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可愛い電気ポットがあった。

二人分のお湯がわかせる、旅行にはピッタリの大きさ。前のポットとほぼおなじ大きさなので、即買うことにした。

200ボルト対応なので、変圧器もいらない。
ヨーロッパの旅行には役に立ちそうだ。

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スーパーだけでなく、専門店も充実したショッピングセンターだった。 残っていた日本へのおみやげものも結構ここで買うことができた。

日本人観光客以外に、ヨーロッパ各国からの外国客らしい人もいる。もちろん中国や韓国からの観光客も。

エスカレーターに着目した。ほぼ100%の確率で右側に立っている。
フランスのデパートもそうだった。その時のガイドさんが、ヨーロッパのほとんどは右側に立っていますよ、と言っていたことを思い出した。

ポルトガルの人も、ポルトガルに来ている外国の人もエスカレーターは右側に立っていた。大阪と同じだ。やっぱり大阪が世界標準だと笑顔が出る。

さて、明日はいよいよ帰国。朝の4時30分に空港へのバスに乗る予定。
リスボン発7時10分、フランクフルトで乗り換えて日本へ。
ホテルの部屋での夕食の後は、荷物の準備。早く寝なくては。

 

 

 

ポルトガル紀行 20

ポルトガル6日目
       モラエスの家

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この地図はガイドさんからもらったもの。 ガイド仲間の人が作った手書き地図。
縮尺等はわからないが、市内の雰囲気がわかるので、ガイドブックと合わせてみると、わからない場所でもなんとか行けそうな感じがしてくる。
グルベンキアン美術館そばの地下鉄に乗る。前日買ったフリーチケットがここでは力を発揮する。大阪の地下鉄やJRのように入り口にある自動読取機にタッチする。読み取り時間は日本のものと少し違う感じ。
行き先は下の地図にある「モラエスの実家」。

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モラエスという人は、徳島に行った時に知った歴史上の人物。 私のこのブログの「水準点めぐり7」と「三角点を探る旅 その14」で紹介した人物で「日本ポルトガル総領事」だった人。下の写真は徳島市立新町小学校のそばにあるモラエス像。

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小学校のそばに像があったり、眉山の頂上にモラエス記念館があるなど、徳島とモラエスの深い関係をこの時に知った。リスボンに家が残っているとわかったので、是非見たいと思った。

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司馬遼太郎さんの「南蛮のみち2」には、モラエスのことが書かれていたので、それほど有名な人なのかとあらためて思った。(本の写真は徳島の眉山にあった記念館での写真)。

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「ポルトガル海軍は、作家も生んだのである。
 二十一歳て海軍兵学校を卒業したモラエスは、植民地勤務が長く、健康を害したり、海上勤務にもどったり、たまたま戦闘にも参加したりして若い時代をすごし、三十五歳のとき(明治二十七年)はじめて日本に来航した。 1897年、現役海軍中佐として広東(カントン)総領事をつとめていたとき、日本文化の紹介書である”Dai-Nippon”(「大日本」)をリスボンで刊行し、一躍文名があらわれた。この本は明治の日本人の心についてのべた面映ゆいほどの賛美の書であった。
 私は、モラエスの作品は『おヨネと小春』(花野富蔵訳・昭和十一年・昭森社)をもっているにすぎない。しかしこの一冊で、恋か冒険をする以外にない「哀愁病」(モラエス自身のこと)にかかっていた作家の心がややうかがえるような気もする。壮年のころのモラエスは愛の病者だったし、晩年、愛する者をうしなったモラエスは、かれ自身の序文のことばを次はぎに使うとすれば、「夢と追慕」に生きた。よく知られているように、モラエスは晩年のすべてを徳島で送った。 徳島に流寓したのは、そこが、愛人だった小春、夫人だったおヨネという、亡きひとびとの故郷だったからである。
・・・・・・・・・略・・・・・・・・・
 モラエスの死も、あっけなかった。かれは徳島市伊賀町三丁目の茅屋にひとり住んでいたが、昭和四年(1929)七月、ブランデーを多量に飲み、縁側から土間の三和土に転落し、頭を打ったままそのまま逝った。七十五歳であった。

・・・・・・・・・略・・・・・・・・・

 海の人であったモラエスは、マカオ駐在の海軍少佐時代、航海家として十六世紀的な大事業をやっている。マカオの港に半ば朽ちて放置されていた旧式木造砲艦「テージョ」号を、本国の命令でリスボンまで回航したことである。成功は万に一つといわれていたが、かれは荒天を避け、水漏れをふせぎ、腐ってしまった機関をなだめつつ、港から港へ這うようにして動かしつづけ、ついにテージョ川の河口のベレンの塔の見える錨地まで連れもどした。」

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こうして「南蛮のみち2」を読んでいくと、テージョ川とベレンの塔は、リスボン、いやポルトガルと日本の関係からは、切り離すことのできない場所のようだ。

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さて、私たちはそのモラレスの家をめざして、地下鉄をおりてケーブルカーを探すことになった。上の地図のように坂道電車が走っているはず、あった。

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写真左上が坂道電車のなか。
お客さんが来ないので運転手さんに英語でモラエスの家はこの上にあるのかと聞く。地図を見せるといろいろと説明してくれているが、よくわからない。ちなみに運転手さんは女性。
写真右の運転席の左に黄色い面が見える機械が、チケットをピタッとあてる機械。

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ケーブルカーは全面落書き?だらけ。

これも芸術のパフォーマンスなのかよくわからない。
坂道電車を降りて、モラエスの家をさがすがよくわからない。ガイドさんの手書きの地図やガイドブックの写真と照らし合わせながら、街角の家並みと比べて歩きまわること20〜30分。
わからない。
ケーブルカーの駅にもどってやり直してみよう。地図をよく見ると、ケーブルカーの駅のすぐそばに階段の絵がかいてある。階段を降りればいいのかもしれない、と思って周りを見ると、なんと駅の左側に階段があった。これだな。

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家の壁にも沢山の落書き?アート? あった、日本語が書いてある。

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「葡国海軍士官にして作家たりし
 ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス
 (1854−1925)が生まれ育ちたる  
 はこの家なり
 長き歳月を愛する日本に過ごしたるかれは
 祖国に思いを馳せつつかの地に死せり       
             日本国 宇留野清華書」

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ガラス戸の向こうを覗いてみると階段らしきものが見える。 二階がモラエスの住居だったようだが、ガイドさんもいないので外から眺めるだけ。
雨のせいか、人通りは全く無い。
日本人の観光客も私たち以外には、だれも姿を見なかった。
外国で亡くなった有名人の実家、外側と碑のようなパネルが残っているだけでも意義があるのかもしれない。
モラエスさんの像や碑は日本では、徳島と神戸にある。
ポルトガルでは、リスボンのジェロニモス修道院のそばにある海洋博物館にモラエスさんが使った机などが展示されているそうだ。時間がなかったので、そこに行くことはできなかった。

さて、雨も本降り。まだまだ市内観光をしたいので、旧市街の幅の狭い坂道を下っていくことにした。
狭い道の両側には、野菜を売っている店や食べ物やさんの店がある。
商品の仕入にこんな急な坂道を毎日昇ったり降りたりするのも大変だなあと思いながら歩く。
かなり年配の女性が杖を付きながら坂道を登ってくる。
生活道路なのだ。
傘を持ってすべらないように緊張して歩いていたので、写真も取っていなかった。
あとで地図を見なおしてみると、「アマリア・ロドリゲスの生まれたとされる家」というのがあった。ああ、もう少し丁寧に地図と町を見ておくのだった。
旅行はいつも日本に帰ってきてから後悔することが多い。

さて坂道をくだってたどりついたところが「ロッシオ広場」。

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リスボン市内の真ん中にある広場。 中央に立つ像は「ドン・ペドロ四世」。のちに初代のブラジルの国王になった人。ブラジルもポルトガルの植民地だったのだとあらためて思う。 「ロッシオ」(あるいは「ロシオ」)というのは、ポルトガル語で「公共の広場」という意味だそうだ。

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広場に面して立派な劇場がある。「ドナ・マリア二世国立劇場」。
小学生の子どもたちが歩いている。社会見学?集団下校?
妻があとで「障害を持っている子には一人おとながついていたね」と言う。私は写真を撮っていながら気が付かなかった。

さて、これからおみやげものを中心に町を歩くことにする。
しかし、雨がやまないなあ。

 

 

 

ポルトガル紀行 19

ポルトガル6日目
       グルベンキアン美術館

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リスボンは今日は雨だった。

ガイドさんに聞くと、タクシーのほうが便利だろうということなので、タクシーを探す。
私たちの行く方向が、市内方面と反対なので車の流れが少ない方になる。ぶらぶら歩いてタクシーを探しながら、結局は写真に写っている大きなビル、ホテルの入口付近でタクシーが止まっているのを見つけた。
目的地は、「グルベンキアン美術館」。グルベンキアンとうまく発音できないので、事前に書いておいた紙を運転手さんに見せる。

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タクシーの運転手さんが案内してくれたのは、この建物。前の庭には雨なのに、置物のような鳥がいる。そのまま入っても、何かレセプション会場のような雰囲気で、美術館の入口という感じではない。一旦外に出て周りを見ると、妻がこっちと指差す。

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タクシーから降りたところから、向かって左にあった建物が美術館だった。

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受付前のロビーにはみごとな彫刻があった。私がわかったのは、ロダンの「カレーの市民」。手に触れるぐらいのところに置いてある。
高校生らしい子どもたちが、入口付近にいる。先生たちが受付で何か手続きをしている。社会見学なのだろう。歴史的建造物や美術館の見学など、行くたびに小学生や中学生、高校生のグループに合う。学校教育も実物にふれ、歴史的に自分たちの国を見ていくことがだいじにされているのだろう。ここはクロークがあり、コートや傘を預かってくれた。

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最初に目に入ったのは、見事なエジプトのレリーフ。
12月に見た「クレオパトラとエジプトの王妃展」での「ティイのレリーフ』を思い出す。グルベキアン美術展には私のわかる説明がなかったので、このレリーフがどんな歴史的背景がわからなかったのが残念だった。(ティイのことを書いた私のブログは、このブログの一番トップにある「検索」の欄に「クレオパトラ」と書いて検索するとそこにつながるはず。)

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IMG_9027 日本の伝統工芸品もあった。
煙草盆などの螺鈿細工や印籠も。解説には「Inros 」と書いてあった。

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ターナーの「輸送船の難破」(The Wreck of a Transport Ship by TURNER )

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ターナーの「難破船」といえば右の絵が有名(写真はネットより引用)。1805年の作品として知られている。
私たちが見た上の絵は1810年の作品と紹介されていた。
難破船といえばルーブル美術館で見たジェリコーの「メデューズ号の筏」が有名だが、難破船というテーマは当時の画家にとっては魅力があったのかもしれない。

IMG_9039マネの「シャボン玉を吹く少年」(Boy Blowing Bubbles by MANET )

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ルノアールの「クロード・モネ夫人の肖像」
        (Portrait of Madame Claude Monet by RENOIR )

美術の教科書や画集では見たことがあったような作品の本物がここにはあった。

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ここグルベンキアン美術館のグルベンキアンとは人の名前。

「地球の歩き方」にはこんな説明があった。

「グルベンキアンはイスタンブール生まれのアルメニア人で、石油王として財を成し、晩年はリスボンで暮らした。死後その膨大な美術品のコレクションはグルベンキアン財団としてポルトガルに寄付された。
 美術館、オーケストラ、バレエ団などを所有するほか、さまざまな文化事業に貢献する。
 グルベンキアン財団の敷地に1969年にこの美術館が建てられた。
西洋から東洋までの幅広い美術品を所有していることで有名。」

このガイドを読んで、フリーの時間には是非行きたいところと出発前から考えていた。

日本ではめったに見ることのできない物があるに違いないと思っていたが、そのとおりだった。

IMG_8997常設展以外に二つの特別展が開かれていた。 それぞれ別料金だったので、私たちはそのうちの馬の絵の展示されていた方だけを見た。

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馬の絵だけではなく肖像画なども多く展示されていて、こちらでは学芸員らしい人が、年配の人達のグループに解説しながら絵を見ていた。
参観者のノートみたいなものがあったので、日本語で日付と名前を書いた。ページを繰ってみると漢字らしき文字はなかった。

常設展も特別展も静かで、美術品を楽しむという雰囲気が漂っていた。

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地下には展示場の他に、アートショップや喫茶室があった。お昼に近づいていたので、地下の喫茶でコーヒーとパンとケーキを買って食べることにした。
中庭を見ると、まだ雨が降っている。小降りになっているが、止む気配はない。

さて、午後は地下鉄を使って市内見学をする予定。

 

 

ポルトガル紀行 18

ポルトガル5日目
        FADO(ファド)

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スペインにはフラメンコ、ポルトガルにはファド、とそれぞれの国に欠かすことのできない音楽がある。ポルトガルに旅行するというと、「機会があればファドは是非」といわれることが多い。
私自身、ファドというのははじめての音楽だった。

「地球の歩き方」にはこんな説明がある。

「かつて南米のブラジル、アフリカやアジアなど世界各地に進出したポルトガルは、植民地から収奪した資源を本国に送り込んだ。それとともに外国人や異国文化がボルトガルに流入する。リスボンの下町で歌いだされたファドだが、もともとポルトガルにあったという説から、イスラム起源やアフリカ伝来の説まで、その起源には諸説がある。
 有力な説の一つは、ブラジルでアフリカ人奴隷が親しんでいた官能的な音楽舞踊が、リスボンで下町に広まったというもの。それに他の音楽の要素が加わり、しだいに打楽器の要素が失われ、歌の部分が強調されるようになる。

ファドの形式は19世紀に確立され、しだいに庶民の間に広まってきた。そして現代まで受け継がれている。」

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私たちが行ったのは「ティンパネス」というお店。そしてこれがステージ。
基本はファディスタとよばれる歌い手、ギターラ(ポルトガル・ギター、6組の複弦で全12弦のギター)、そしてヴィオラ(一般のクラシック・ギター)の3人。打楽器などはない。
シンプルな構成になっている。

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私たちは食事付きのファドショーだったが、飲み物だけで参加の外国人グループや家族で食事に来ていたポルトガルの人たちのグループもあった。

メニューはワイン付き。カルド・ベルデ(じゃがいもと青菜のスープ)、仔牛肉、アイスクリーム、コーヒー、パンだった。
相席の人がお肉はだめ、といってたらしく、その人には魚料理が提供された。
食事をしながら、ワインを飲みながらのショーだった。

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経験豊かそうな女性、男性と二人の歌い手が交代して歌ってくれる。
ギターのチューニングや音程合わせが丁寧にやられている。
途中で、フォークダンスのようなショーやグループでの歌。そしてギターだけの演奏とつづく。
最後にメインのファデスタが黒い衣装、で歌いあげる。

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ファドを聞く前に、ガイドさんからバスのなかでいくつかの解説を聴いた。 一つは司馬遼太郎さんの「街道をゆくシリーズ』にファドのことがのっているということ。 もう一つは、ちあきなおみさんがファドを歌っているということ。 日本に帰ってきてから、調べてみた。 YouTubeにちあきなおみさんのファドがあったので、下に紹介しておく。

https://www.youtube.com/watch?v=DpbkYQn1eDM

ちあきなおみさんの歌は、ファドの雰囲気はよく伝わっていると、私なりに思う。

ポルトガルでのファドショーの最後の女性ファデスタは、津軽海峡・冬景色を歌う石川さゆりさんを思い出した。切々と感情を歌い上げる節回しは、日本の演歌と何かしら共通点があるようにも聞こえた。

ファドといえばアマリア・ロドリゲス。
アマリア・ロドリゲスの紹介と音楽がのせられているブログがあったので、下記にURLを書いておく。

http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/66719976.html

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司馬遼太郎さんの「南蛮のみち2」にアマリア・ロドリゲスのことがかかれているので、その一部を引用する。

「アマリア・ロドリゲスは、仄聞するところでは、リスボンの庶民街であるアルファマの洗濯女だったという。(物の本では、波止場でオレンジを売りながら船乗りたちのためにうたっていたという。)アルファマの丘は、丘そのものが集落である。石段で上下するが、ところどころに泉がある。その泉に女たちが集まって洗濯する。
そういう場合、たれかがうたう。アマリア・ロドリゲスは洗濯をしながら仲間たちを楽しませつつ、自分の手の動きにもリズムをつけていた。やがて専門の歌手になった。
・・・・・・・・・略・・・・・・・・・

やがで部屋いっぱいに声量が満ちた。声は強靭に、はるかにのびてゆくかと思うと、にわかに鼻音のなかに縮まり、そのうち、水色に色づいたシャポン玉のように丸い詩情がほかほかとうまれ、軽やかに空中に飛翔し、そのことに油断していると、ふたたびたかだかとした烈しさに変わり、また胸をかきむしるような悲しみになってゆく。さらには、泣き寝入りする幼女の夢の中でささやくような調子にかわっている、というふうで、聴きているうちに、単なる声ではなくなってくる。そこに女性のゆたかな肉体がひろがり、さまざに色づく心が戦慄し、ときに凝縮し、不意に肉体がつまさき立ってみえざるものへはげしく両腕をふりつづける。歌詞はわからないが、海へ出て行った夫や恋人のまぼろしまで浮かんできそうである。ポルトガルの女たちの宿命をうたっている。

IMG_8981ヴァスコ・ダ・ガマ以来、男たちは海へ出て行ったし、いまもゆく。女たちは陸に残され、男たちが残して行った子供を育て、行商をし、ときに泉へゆき、汚れものを岩角に打ちつけて洗い、濯ぐ。ポルトガルの女たちは何世紀もさびしさに耐えてきたが、ついにたれが生んだともなしに、ファドがうまれた。もっともその成立は存外あたらしく、19世紀ぐらいだという。」

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私たちの見たファドショーは、ステージだけではなく、客席の中に入って歌ってもくれた。
その情感は日本人と共通するものがあるかのように、迫ってくる。
ただ残念なことに、歌詞がわからない。曲の解説があれば、もっと想像しながら、ファドの世界に入っていけたかもしれない。

合間にCDをもって販売に回ってくるが、ポルトガル語がよめないので歌手の名前や曲のタイトルがわからない。
買って帰っても、日本で曲の内容を確かめることもできないと思い、買うことはあきらめた。

ステージが終わったら、時計を見ると10時をとっくにすぎていた。今日のような観光客相手のショーでなければ、ファドはこれからますます盛り上がるそうだ。

観光客の日本人にとっては、10時をすぎるとそろそろ休憩がほしくなるころ。
バスに乗って、ホテル「ドン・ペドロ・パレス」に向かう。
ツアーでの観光は今日まで。明日1日は全くのフリータイム。
ただお天気だけが心配だ。