秋のグリーン・ゲイブルズ

以前に、松本侑子さんの主催する赤毛のアンツアーに一緒に行った人から、上のようなオンラインツアーの取り組みの紹介があった。

講師は上記写真の左から二人目の人、増田かつ江さん。この人は私達の赤毛のアンツアーでもガイドをしてもらった人。松本侑子さんの知り合いで、赤毛のアンの大ファンそうだ。
秋の風景の中にあるグリーン・ゲイブルズが見たくって、このオンラインアカデミーに申し込んだ。
以下の写真はオンライン上のものをカメラでうつしたもの。増田さんに問い合わすと、現地の了解ももらっているのでブログで使っても良い、ということなのでここで使わせていただく。

グリーン・ゲイブルズの部屋の中から外を望んだところ。
窓枠の赤いお花、ガラス越しに見える庭、差し込んでくる朝の太陽の光は、私達が行ったときのことを思い出させる。

2020年10月9日、朝9時過ぎのグリーン・ゲイブルズ。 パソコンの画面なのですこし歪んで見えるが、青空と白い雲は秋の空だ。
私達がグリーン・ゲイブルズに行ったときは6月だった。アンの部屋は2階にあり、東向きに窓がある。
朝日が窓に反射してキラリと光るところを私はカメラで撮そうと苦労したことを思い出す。
この日の大阪は台風の影響で雨が降り続き、鬱陶しい感じだったが、プリンスエドワード島の青空を見て心も晴れてきたように感じた。
日本とプリンスエドワード島の時差は12時間。このオンラインアカデミーは午後9時からはじまったが、プリンスエドワード島は朝の9時だったのだ。

アンの部屋。
袖がふくらんだ赤い服など小説「赤毛のアン」の世界を再現している。

増田かつ江さんの話によると、プリンスエドワード島も新型コロナウイルスの影響で例年の観光客の9割減だそうだ。コロナの感染者は61人。入院者や死者はゼロ。感染拡大防止に全力をそそいでいるのが想像できる。

これは台所にある薪ストーブ。暖房のためだけではない。お湯を沸かしたり、パンを焼いたり、アイロンを温めたり、一台で何役もするすぐれものの薪ストーブ。
現在NHKで「アンという名の少女」が放送されているが、そこでもこの手の薪ストーブが登場する。私はどのようにして小麦粉からパンに仕上げていくのか、このストーブをどのように使ってパンに焼き上げるのかを知りたいと思っていたが、ズームの機能がうまく使えないので、質問できなかったのが残念だった。

プリンスエドワード島は木々に花が咲き、色とりどりの花が咲き誇っている。
私達が行ったのは6月というのに、季節外れの寒さで、花はほとんど咲いていなくて
モンゴメリーさんのお墓の前は黒い土だけだった。上の左の写真はモンゴメリーさんのお墓。今は秋の草花で飾られている。やっぱりこうじゃなくっちゃあ。

世界中が新型コロナウイルスの影響で下を向きがちだが、グリーン・ゲイブルズの青空を生中継でみると、少し元気が出てくる。

モンゴメリー公園にある、赤毛のアンの作者モンゴメリーさんの像。最近できたそうで、私達がカナダに行ったときにはなかった。
赤毛のアンの時代には、私達が当たり前のように使っている電気はなかった。水もそうだ。しかしアンの生活はなんと豊かだったのだろう。アンという人間の心の豊かさがその世界をつくったのだろう。そのことを感じさせるのが小説「赤毛のアン」なのだと思う。
日本を遠く離れて仕事をされている増田かつ江さん、アイルランドの山下直子さん(山下直子さんもこのオンラインアカデミーに参加かされていた)、そのたくましさに私はとても励まされる。ありがとうございました。
さあ台風も過ぎ去ったし、がんばらなくっちゃあ。

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 15

三日目 マーク・トウェインと「赤毛のアン」

マーク・トウェインの屋敷はとてもユニークな建造物だった。
内部の写真撮影が禁止されていたので、ここでは紹介できない。
温室や伝声管や、凝った壁紙など楽しい作りになっていた。
本がたくさんあり、松本先生の話によると、
マーク・トウェインは独学で勉強して、蔵書にはテニスンの詩集や当時の有名な作家たちの本を取り揃えていたと言う。

なんと「赤毛のアン」も読んでいて、マーク・トウェインはモンゴメリーに絶賛の手紙を送っている。それには、アンのことを次のように言っている。

the dearest and most moving and most delightful child since the immortal Alice
 
直訳すると、
「かの不滅のアリス以来、最も愛らしく最も感動的で最もゆかいな子」
とでもいう意味だろうか。この言葉は「赤毛のアン」のキャッチコピーとして使われるようになったほどだという。(ウィキペディアより)
ここでも「赤毛のアン」と「マーク・トウェイン」のつながりが出てきた。

屋根のあるところに、馬車がやってきて、右側の入口に人が入っていくようになっている。奥に見えている建物はなんと、馬屋。何頭飼育していたのかは聞いていない。

同じ敷地内にある、マーク・トウェインの資料館。これも地下もある大きなもの。

マーク・トウェインは新型の輪転機の開発に援助をし、その事業が失敗したため、この屋敷を売ることになった。そのあと海外での講演や作家活動でその借金は返すことはできたそうだ。上の写真の左側にある黒い機械がその輪転機らしい。

このレゴで作られた人物が、マーク・トウェイン。右側にショップが見える。

ショップには本を始め、マーク・トウェインにかかわる様々なグッズがあった。ここでも「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィン」の本があったのに、日本で買えるからと買わなかった。残念なことをした。

受付のあるロビーの壁には、マーク・トウェインが言ったという警句がいくつか書かれていた。 マーク・トウェインはユーモアのある警句でアメリカ人の好みだそうだ。 写真は、「TRAVEL  IS  FATAL  TO  PREJUDICE 」と書かれている。
「旅は偏見にとって致命的」、つまり「旅をすることによって、自分の偏見をなくしていくことができる」という意味らしい。
原文はもう少し長く、「Travel is fatal to prejudice, bigotry, and narrow-mindedness.」
「旅は偏見、頑固、偏狭をなくさせる」と言う意味だそうだ。なかなか含蓄のある言葉だ。

受付付近に、マーク・トウェインの作品の登場人物の群像があった。
トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンがマーク・トウェインの近くにいる。

日本に帰ってきてから「トム・ソーヤーの冒険」を読み直してみた。子どものころに読んでいたのか(自分でも自信がない)大まかな筋は、わかっていた。時代背景などを考えながら読むと、とてもおもしろかった。今でも、十分に少年向きの本になると思う。

でもこの本の訳者あとがきを読むと、マーク・トウェインはこの「トム・ソーヤの冒険」を子ども向けに書いたのではないらしい。
翻訳者の土屋京子さんは次のように書いている。

「アメリカの友人たちに、「トム・ソーヤーの原文って難しいんだね」という話をしたら、「アメリカじゃマーク・トウェインなんてインテリが読むものよ」という答えが返ってきたり、「中学の時に読んだけど、あちこち辞書で調べながらよんだっけ」という答えが返ってきたり。アメリカ人にとっても、マーク・トウェインは難しいらしい」

「今回、翻訳者としてThe Adventures of Tom Sawyer の原文と向き合ってみたら、「痛快ないたずら小僧の物語」だけでない側面が見えてきた。主人公トム・ソーヤーは12歳かそこらの少年であるが、その冒険を語るマーク・トウェインの筆致は完全に大人に向けたもので、読み手の知性を試すがごとき格調高い文章なのである」

なるほど、では「ハックルベリー・フィンの冒険」はどんな本なのだろう。私は「トム・ソーヤの冒険」は読んでいたが、「ハックルベリー・フィンの冒険」は実は読んでいなかった。

 

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 8

二日目 ボストン市内観光その7       

オーチャードハウスと若草物語

上の写真は絵葉書から(写真撮影が禁止されているので)。
柱に付けられた白い半円のテーブル。オルコットのお父さんのブロンソンが作ってくれたもの。ここで、オルコットは「若草物語」を執筆したという。案内してくれたガイドさんの説明では、家族の生活を支えるために作品を書きつづけ、時間を短縮するために、右手だけでなく左手もつかって書き続けたそうだ。

上の写真は岩波少年文庫の「若草物語」。2013年の発行だから新しい翻訳。
この本のカバーにルイザ・メイ・オルコットについての解説がある。

「アメリカ、ペンシルベニア州に生まれ、「文学の街」として知られるマサチューセッツ州のコンコードで育つ。父は先進的な幼児教育をしたり、「理想郷」の建設を志したりした教育者・思想家。ルイザは、苦しい家計を助けるために、10代から教師などをして働き、そのかたわら小説や脚本を書いた。1854年、「花物語」が出版され、小説家としてデビュー。1868年に出版した自伝的な「若草物語」は、たちまち大評判になり、以後、児童文学の古典として今も、世界中で読み継がれている。」

「若草物語」の原題は「LITTLE WOMEN」。
これは姉妹のお父さんが「幼くても、ひとりの人間として、自分に責任を持って生きるように」と言う願いから、娘達に目標として与えた言葉からきている、ということはよく知られている。
では日本語訳の「若草物語」はどこからきたのだろうか。

岩波少年文庫の「若草物語」の訳者あとがきで、海都洋子さんは次のように言っている。

「1906年、原作が書かれてから38年目に、「アルカット著、北田秋圃抄訳・画」として、「小婦人(しょうふじん)」という署名で、日本に初めて紹介された・・・それから100年以上、日本だけでも、この物語は何十回も訳し直され読み続けられてきました。書名も「四少女」「四人の姉妹」などいくつかあります。いちばん有名な「若草物語」になったのは、
1933年にアメリカで映画化されて翌年日本で公開される際につけられたタイトルが、あまりにもぴったりだったので、以後、この「若草物語」が多く使われるようになったのだと言われています。」(白黒写真がその映画の一場面。インターネットより引用している)

このツアーの目的の一つ、「あしながおじさん」とどこでつながっているのだろう?

松本先生の名古屋での講座での様子を紹介した時にもふれたが、「あしながおじさん」の主人公のジュディは熱心に「若草物語」を読んでいるのである。岩波少年文庫の「あしながおじさん」から、その部分を抜き出してみると、

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・・・・・あたしは、「マザーグース」も、「ディヴィド・カパフィールド」も、「アイヴァンホー」も、「シンデレラ」も、「青ひげ」も、「ロビンソン・クルーソー」も、「ジェイン・エア」も、「不思議の国のアリス」も、ラドヤード・キプリングの作品すら一字も読んだことがなかったんです。・・・・・・・略・・・・・ 
 でも今、あたしはその全部を知っていますし、そのほかのことだってたくさん知っています。それでも、みんなに追いつくには、まだまだ時間が必要なのはおわかりでしょう。・・・・略・・・読んで、読んで読みまくるんです。一冊じゃたりません。いっぺんに四冊読んでいます。今読んでいるのはテニソンの詩集と「虚栄の市」とキプリングの「高原の平和」と、それから、どうか笑わないでくださいね。「若草物語」です。こないだ、この大学で「若草物語」を読まずに大きくなった女の子は、あたしだけだということを発見しました。だれにもいっていません。(そんなことがばれたら、変わり者のレッテルを貼られてしまうこと、まちがいなし。)あたしはこっそり出かけて、先月のお小遣いで、その本を1ドル12セントで買ってきました。これからは、誰かがライムのピクルスの話(若草物語に出てくる話)をしても、あたしはすぐになんのことかわかります。・・・・・

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「あしながおじさん」が出版されたのが1912年。今から約100年前。100年前の女子大生が読む本がどんなものかよくわかる。そのなかで、「若草物語」は読んでいて当たり前ということも、よくわかる。そして「あしながおじさん」の作者、ジーン・ウェブスターが「若草物語」を読んでいたことも類推される。当時の必読の本だったのだ。

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では「赤毛のアン」と「若草物語」の関係は?

「赤毛のアン」は1908年の出版。
左がその初版本の復刻版。カナダで買ってきたもの。
「赤毛のアン」が出版された時、カナダ、アメリカ、イギリス、オーストラリアの新聞雑誌に60をこえる書評が載ったそうだ。そのなかでもロンドンの政治・文芸の論評誌「ザ・スペクテイター」の「赤毛のアンはオルコットの直系の子孫」という書評に大いに喜んだと言われている。
「赤毛のアン」の作者モンゴメリーも少女時代にオルコットの書いた「若草物語」を愛読していたことが、モンゴメリーの日記からわかるそうだ。

それほど「若草物語」の影響は大きいのだろう。

左の写真は売店で買った冊子「オーチャードハウス 『若草物語』の家ー『若草物語』とオルコット家の人々」からとったもの。
ルイザ・メイ・オルコットの執筆しているところ。
一番最初の絵葉書にあった半円のテーブルはまだない。書き物机で原稿を書いている。

ルイザは1888年3月1日に病床の父親を見舞いに行っている。父親は3月4日に亡くなり、ルイザはその2日後に、父親の後を追うように亡くなっている。
彼女は南北戦争中に病院で看護師として働いていた。その時に水銀中毒になり、その後もその後遺症で健康状態は悪かったと言う。満55才でこの世を去っている。

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「若草物語」のオーチャードハウスの見学の後、私たちはソローに関係する場所を訪れるために移動する。