アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 11

三日目 ボストンの朝の散歩

ホテルの窓から見える朝のボストンの街。
今日は雨が振りそうなぐらいに曇っている。

朝は軽く。コーヒーはスタッフの人がポットごと持ってきてくれる。ミルクも。
この日は午前中は自由行動ができる日。街の散策と買い物の予定。
お昼のために、朝食のバナナやパンを確保しておいた(これも旅慣れてきたからかな)。

ここはボストン公共図書館(BOSTON PUBLIC LIBRALY )。ゆったりとしたスベース。明るい読書室。喫茶店もある。こんな図書館なら何時間でもおれそう。環境ってだいじだな、と思う。

トリニティ教会(1877年)。ただいま工事中。近くの近代的なガラス張りのビル(ジョン・ハンコック・タワー)に写っている姿で全体を想像するのみ。
ガイドブックには、

ボストンのほぼ中心地に堂々と建つトリニティ教会はヨーロッパのロマネスク様式を多々取り入れた建物で、19世紀にアメリカで最も賞賛されたと言っていいほどの建築家ヘンリー・ホブソン・リチャードソンの代表作でもあります。
後にこれは「リチャードソニアン・ロマネスク」と呼ばれ、彼の名からとった新しいアメリカンスタイル様式として多くのアメリカ建築家にも影響を与えたそうです。
また、1885年には建築家が選ぶアメリカ内で最も重要な10大建物の一つに選ばれたりして、なかなかの風格を持っています。

と書いてあった。残念ながら外側が囲いでよくわからない。中に入ろうとしたが、9時からのオープンだった。少し早く来すぎた。後の時間があるので開くのをまてないので、市内のマーケットのある場所に移動。

左の写真はウィキペディアより引用したトリニティ教会の全景。なるほど、風格のある姿だ。工事中で全容が見ることができなかったのが残念。
教会前の広場には、イソップ童話の「カメ」と「ウサギ」があった。ウサギが小さいのか、カメが大きいのか。オブジェとなるとこんなふうになるのかな。

ここは1773年12月16日の夜に起きた「ボストン茶会事件」の記念博物館。上の黄色い船が再現されたもの(エレノア号)。思いのほか小さい船なのでびっくり。こんな船で大西洋を横断したのかと思うと、大変だっただろうなあ。でもこの事件での損害額が、342箱の茶箱で100万ドルと推定されているから、危険に見合う仕事だったのだろう。ここに行きたかったが、距離と時間の問題であきらめる。上の写真はバスで通った時に撮したもの。だからちよっとピンぼけ。

エレノア号の姿がよくわからないので、インターネットで調べる。トリップアドバイザーというホームページより引用したのが上の写真。ボストン茶会事件に関係した船は何隻かあったようだが、このエレノア号が一番小さいのかもしれない。

左の写真は、ボストンの観光パンフレット。
茶会事件の体験を売り物にしているらしい。
エレノア号の上から、茶箱を海に投げ込むことを体験するというものらしい。
このパンフレットの写真で茶箱のイメージがつかめた。もっと重たい木箱のようなものを想像していたが、そうではないようだ。

ホテルからスーパーマーケットまでは、2階の渡り廊下の両側にお店がならぶショップストリート。カフェ、ブックショップ、ブテック、マイクロソフトのお店・・・ずらっと並んでいて、ウィンドウショッピングが楽しめる。

本屋さんで、アメリカの地図を見つけた。買おうかなと思ったが、ニューヨークで買えるだろうと思いやめた。でも・・・ニューヨークでは本屋さんを探す時間がなかった。やっぱり海外旅行では思った時に買っておかないと、とまた思う。

 これは靴磨き用の椅子のようだ。何回かこの前を通ったが、ここを利用している場面には出会わなかった。
靴磨きは8ドル。ブーツは10ドル以上。営業時間は月曜から金曜、朝9時から夕方5時までと表示があった。なるほど、営業日ではなかったのだ。

天気予報通りに雨になってきた。ホテルに戻ってランチ。 さあ午後はバスで今日の目的地、マーク・トウェインの家とハリエット・ビーチャー・ストウの家に向かう。

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 6

二日目 ボストン市内観光その5

ハーバード大学の見学と、生協でのお買い物を済ませ、お昼ごはんのレストランに向かう。建物にはなんとも不思議な、でも目を引かれる絵がかかれていた。

昼食はイタリア料理。ピザ生地に茄子を挟んだサンドイッチのようのもの。
サラダ、パンでお腹がいっぱいになってしまった。
一番上の写真の赤いバスが私たちの乗った観光バス。

昼食後ボストンを出発してコンコード、そうポール・リビアが真夜中に馬に乗って目指した場所へ向かう。
そこは「若草物語」の舞台である。

コンコードはボストンから30Kmぐらいはなれている。大阪市内から奈良市ぐらいまでの距離。
ポール・リビアは深夜に途中の村々に警戒を呼びかける大声を出しながら、コンコードに向かったわけだ。今は道が舗装されているが、1775年当時の道はどんなふうだったのだろう。灯りもなく、イギリス兵に見つからないかと警戒しながらの馬での疾走は大変だったろうなと、想像される。

コンコードは文学の街でもある。エマソン、ホーソン、オルコット、ソローに関係する建物がある。
これは旧牧師館(The Old Manse)。

ラルフ・エマソンが代表作の「自然」を書いたのがこの家。この家を建てたエマソンの祖父が牧師だったことから「The Old Mense」とよばれている。
ナサニエル・ホーソンも3年間ここで新婚生活をおくっている。代表作の「緋文字」を執筆したところと伝えられている。私たちは外からの見学のみで、中は見学していない。

旧牧師館(The Old Mense)のそばに、ミニットマンの像、オールド・ノース橋がある。実はここはアメリカ独立戦争が本格的に始まったところなのだ。
ポール・リビアたちの真夜中の疾駆で、イギリス軍が来ることお知っていた民兵(ミニットマン・・・招集されると1分で駆けつけると言う意味)たちの戦いがこのオールド・ノース橋で起こったと言う。

ラルフ・ウォルドー・エマーソンは
「コンコード賛歌」(1837年)という詩の中で、オールド・ノース・ブリッジでの出来事を不滅のものにした。

その詩の一節がこの「ミニットマンの像」の台座に彫られている。

By the rude bridge that arched the flood,
漲る川に架かる粗暴な橋の傍で 
Their flag to April’s breeze unfurled,
その旗は四月のそよ風にも靡かず

Here once the embattled farmers stood,ここに戦いに巻き込まれた農夫が立っていて

 And fired the shot heard round the world.
そして、1発の銃声が世界を変えた

The Shot Heard Round the World 一発の銃声が世界を変えた。

この言葉は「ポール・リビアの騎行」と同じようアメリカ人の中で語り伝えられた。

記念碑の後ろに曲線がきれいな橋が、オールド・ノース橋。木造のかなり大きな橋。

橋の上から写真を撮る。
カヌーの練習をしている。親子のようだ。
水と緑がとても綺麗。ここで戦いがあったとは信じられないくらい。

私たちが記念碑についてのガイドさんからの説明を聞いていると、突然左の写真のブルーのシャツを着た年配の人がよってきて、
「古池や〜」と言い始めた。
私たちがキョトンとしていると、
「春高楼の花の宴
 巡る杯影さして
 千代の松が枝分け出でし
 昔の光 今いずこ〜」と「荒城の月」の一節を歌うではないか。
私たちがびっくりして拍手をしている間に、その人は歩み去ってしまった。
現地ガイドさんの話によると、「ボストンは親日派の人たちが多く、日本語が分かる人も多いです。私が友人とボストンの電車に乗っていた時、可愛いアメリカ人の女の子を見つけて、日本語でその女の子の可愛さをはなしていました。駅に止まってその女の子が電車を降りる時、私たちに向かって『さようなら』と言ってびっくりしたことがありました。私たちが話していることがわかっていたのかと思うと恥ずかしくなりました。また、ボストンには教養のある人たちが多く、さっきの人のように日本の歌を歌える人もいます。」

へ〜ぇ、すごいなあと思う反面、日本の大阪城公園を観光見物しているアメリカ人の団体に、さっと近づいて、たとえば「ボール・リビアの騎行」の詩を暗唱する日本人っているだろうかと思うと、何か奇妙な不思議な体験をしたような気がした。

旧牧師館、ミニットマンの像、オールド・ノース橋などの見学をすませ、これから「若倉物語」ゆかりの家、「オーチャードハウス」に向かう

バスから見えたのはエマソンの家。

旧牧師館を建てたエマソンの祖父は、オールド・ノース橋での発砲を聞いていると言う。

左の建物は、エマソンが旧牧師館のあとに亡くなるまで住んでいた家。
エマソンの家(Ralph Waldo Emerson House)としてガイドブックにのっている。
バスの中からの写真のみ。慌てて撮ったので、完全にぶれている。

オーチャードハウス、ウェイサイド、エマソンの家、どれも近いところにある。住んでいる人たちの交流もあったことが想像できる。

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 5

二日目 ボストン市内観光その4

これはロングフェロー邸でもらったパンフレットの一部である。そのとき日本語の説明文ももらった。それは以下のようなものである。ロングフェローの若い時の写真がのっている。なかなかのハンサムではないか。

            ロングフェロー・ハウスの歴史

 この家は、裕福な英国王党員であった若き陸軍少佐ジョン・ヴァソールが、1759年に父から相続した地所に建てたものである。当時、キングス・ハイウェーとして知られていた通りから、チャールズ川迄の野原を南に眺める、二段のテラスの上にこの美しいコロニアル風の邸宅は建築された。
 それから15年後の1774年9月、アメリカ独立戦争勃発の前夜、ヴァソール少佐は独立派の軍隊に包囲され、避難のため、家族を離れボストンへ逃げ、それからイギリスへと海を渡ったのである。
 アメリカ独立戦争の初期には、ジヨージ・ワシントンがこの家を住宅兼本部として使用している。ワシントンとその妻マーサは1776年1月にこの家で結婚17周年を祝っている。
 1791年にはアンドルー・クレイギーがこの家を買い取り、2つのベランダと裏に廣い部分を付け足し、拡張した。ケンブリッジ市では今まで建てられたことのなかった最初の氷室や温室はこの時に建てられたものである。クレイギーは贅沢な生活を送ったため、1819年に亡くなったときには広大な改築された家は残ったものの、妻はほぼ破産状態にあった。
 クレイギー未亡人は、主人の残した借金を返すため、下宿人をおかなければならなかった。下宿人の多くはハーバード大学の優秀な教授連であった。そして1837年、近代語学教授として任命されたばかりのヘンリー・ワーズワース・ロングフェローがここに部屋を探しにきたのであった。
 クレイギー夫人はもう学生には部屋を貸していないと説明したが、ロングフェローが教授だと知ると喜んで彼を受け入れた。ロングフェローは生涯残りの45年間をこの家で過ごすことになる。この家で書かれた詩によって、彼は19世紀アメリカでは最も好かれる詩人となるのである。「エヴァンジェリン」や「ハイアワーサ」の詩集で詩人として世界的にも有名であるロングフェローはまた、アメリカ国内でも海外においても一流の学者としてすこぶる評判がよかった。広くヨーロッパを旅行し、学問を治め、24年間にもわたりメイン州にあるボードイン大学の近代語学部と、ハーバード大学でフランス語、スペイン語、イタリア語を教えている。またダンテの作品(神曲)の翻訳者としても有名である。

 1843年、ロングフェローはボストン市ビーコン・ヒルに住むフランシス・エリザベス・アプルトンと結婚する。財産家である父 ネーサン・アプルトンはこの家を結婚プレゼントとして娘夫婦に買うのである。・・・・・略・・・・・

 1973年この家はアメリカ政府に寄贈され、今日ではアメリカで最も愛されている詩人の一人となったロングフェローの記念館となった。現在、記念館の修理、維持は国立公園局が行っている。

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これでロングフェロー邸の歴史がよくわかった。そしてMajorが少佐ということも。

ロングフェローの長男チャールズは世界中を旅し、日本でも何年か過ごしている。このロングフェロー邸にある屏風や陶器類は彼が送ったものだそうだ。

ロングフェロー邸の玄関からの風景。100年前とほとんど変わっていないそうだ。国立公園の管理下だからだろう。

私たちはロングフェロー邸の見学を終えて次の目的地、ハーバード大学に向かう。

ハーバード大学

ここがハーバード大学の正門。沢山の観光客が見学にきていた。

ハーバード大学は1636年の創設で、アメリカ最古の高等教育機関だそうだ。ハーバード大学は全寮制で、そこで民主主義を徹底的に学ぶとガイドさんの説明。
上の写真のハーバードホールは、ハーバード大学の一番古いところだそうだ。

世界中から観光客がこのハーバード大学にきているみたいだ。写真の像はこの大学を建てるための援助者のうちの一人、ジョン・ハーバード。

足先が光っているのは観光客が触るため。ドイツのブレーメンの音楽隊のロバの足のようなものか?
ハーバードにあやかりたいという心理がそうさせるのだろう。

観光客の多くが足首を触り、記念写真を撮っていた。

300万冊の書籍が所蔵されているという図書館。入りきらないので、地下に巨大な倉庫があるそうだ。私たちはその地下倉庫の上を歩いているんだな、と言いながら移動する。
建物の見学の後、ハーバード大学の生協に行く。
蘇州大学でも行ったが、大学の生協というのはおみやげの宝庫。学生が使っているのかどうかわからないが、鉛筆やボールペンなどを買う。

上の写真の右が生協の入り口。左はアメリカの救急車。日本と色も音も違う。

大学の中にあるスターバックスコーヒーの店。 ニューヨークもそうだったが、スターバックスコーヒーの店が目につく。あまりにも目につくので、結果的にはアメリカでスターバックに入らなかった。メニューを見ると、コーヒーの値段は日本と同程度の値段だった。

 

ハーバード大学にあった塔には、風見鶏がついていた。
アップにしてみた。
北と南をあらわすSとN、その上に金色の大きな矢がついていた。さらにその上に球体が。
カメラの調子が悪いので、ピントが定まらない。(ブログをいつも見てくれている風見鶏さんには、申し訳ない)

 

ハーバード大学、沢山の有名人を輩出している。政治家のケネディ大統領、オバマ大統領、実業家のビル・ゲイツ(中退だが名誉学位を与えられている)、ロックフェラーなどなど。そして原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)の指導者オッペンハイマーもそうである。広島、長崎に投下された原子爆弾は彼の指導のもと製造された。
8月9日、長崎に原子爆弾が落とされた日。世界最高学府の学生たちは何を考えているのか、そして私たち日本人は何を目指していくのか。
自分が撮したハーバード大学の美しいキャンパスの写真を見て、そんなことを考えた。