ハイジとドレミの歌 23

美術史博物館へ

オーストリアのパトカーはベンツ製。 ドイツ製だから? 日本のパトカーにトヨタ製が多いみたいなものか。

昨日の散歩で私の目を引いていたパン屋さんに行く。天然酵母のパンを売っている。

なかなか美味しい。オーストリアで天然酵母のパンを食べるとは予想してなかった。

ウィーン美術史美術館の全景。自然史博物館とよく似た建物。

玄関ホールはとても美しい。さすが美術館。

これは15世紀頃の作品。 若い時、中年の時、老年の時の女性の姿。すべて1本の木から掘り出されているそうだ。
国外の美術館に出品されていたのもだが、私達が来たときには国内に戻ってきたところだったそうだ。大きな彫刻ではない。40センチぐらいの大きさだろうか。
ガイドさんの話によると、老人の女性の足にはヨーロッパの女性の特徴である静脈瘤がえがかれているそうだ。

ここは世界で最も美しいカフェの一つだそうだ。ツアーの人の中で、ここのカフェに入りたいという人がいた。しかし館内の見学をあきらめないと無理と言われていた。それほどいいところらしい。

左の写真は「自然史博物館」の中にあるカフェ。
よく似ていますね。
こちらのカフェならゆっくりとお茶を飲めそう。でも私達はそんなことを思いつかなかった。
あの時入っていれば、、、旅というものはそんなものだ。

美術史博物館は1881年に完成したもので、ネオ・ルネッサンス形式の建物だそうだ。
自然史博物館と美術史博物館は「双子の博物館」とよばれているらしい。
どちらも見学できたことは幸運だった。

ガイドさんの説明によると、ここの美術史博物館の展示はユニークだそうだ。
同じテーマで過去の作品と現在の作家の作品がならべて展示されている。
その例が上の展示。女性の表し方が時代によって変わってきている。絵画の果たしてきた役割、果たす効果、表現方法がどのように変化してきたのか、そんなことを考えるチャンスを私達に与えてくれる。

私の見たかった「バベルの塔」がここにあった。 日本で見た「バベルの塔」のもう1枚がここにあった。ゆっくりと近づいて見ることができた。感激だった。

「バベルの塔」以外にも多くのブリューゲルの作品が展示されていた。写真やアルバムではわからない迫力、実物大の大きさを実感できた。
上の写真の真ん中の女性が現地ガイドさん。その語り口が大胆で、博識で、国家ガイド資格?の実力を持つガイドさんだ。

ここウィーン美術史美術館で圧巻だったのはクリムトだった。
上の写真でわかるように、壁に金属製の廊下が作られている。そこにあがるとクリムトの壁画が手に触れるぐらいの近さで見ることができるのだ。

美術史博物館の価値も相当なものだから、その壁に金属製の廊下を取り付けるなんて、日本ではまあ考えられないだろう。 ガイドさんの説明によると、ここの館長さんの決断だそうだ。少しでもクリムトの作品を知ってもらうために計画したそうだ。もちろん永久的なものではなく期限付きのものだそうだ。私達はたまたま運が良かったのだ。

まだまだブログで紹介したい写真があるが、次の目的地であったベルヴェデーレ宮殿に行かなくてはならない。
世界一美しいカフェに行くか、展示品を見るか、そんな選択を迫るのも無理もない、内容が豊富な美術史博物館だといえる。

 

 

ブリューゲルのバベルの塔

ここは地下鉄肥後橋から徒歩10分ほど。科学館の直ぐ側にある国立国際美術館。

ここでブリューゲルの「バベルの塔」の展示が行われている。

今日は平日の火曜日なのに、予想以上に沢山の人が来ている。
写真に写っているテントは、土曜、日曜、祝日には入りきれずに、このテントの下で待つということだろうか。今日は火曜日なのでそういった列はなかった。そばの広場には科学館へ見学に来た、いくつかの小学生の団体がいた。

一生に一度は見たい名画、ついに大阪へ!、
というキャッチコピーは、私をその気にさせた。

チケット売り場のそばには、写真のように拡大したバベルの塔の絵がその場の雰囲気をもりあげる。

入口のそばのパネルに、大友克洋さんの「INSIDE BABEL」の絵があった。 これもこの展覧会の呼び物のひとつ。 テレビでもこの「INSIDE BABEL」についての大友さんご本人のお話が放映されていた。 バベルの塔の内部を想像して描く、というのは大友さんでしかできない発想であり、描画力だと思う。

ガラスの上から撮しているいるので、まわりの電灯などの光が反射しているので、写真としてはうまく写っていないが、その緻密さはわかると思う。
このような精密画を描く人の集中力には恐れ入るしかない。私には・・・ない。

館内は残念ながら写真撮影は禁止。

ここは数少ない撮影可能のポイント。
BABELの塔が実際の建物と比べてどれくらいの高さかを実感するというところ。

小さな子どもがその前に立っているところを写真に取れるようになっている。

通天閣が108メートル、東京タワーが333メートル、バベルの塔が510メートル(推定)という高さ比べ。

現代では500メートル級の建物はたくさんあるし、私たちも体験することはできるが、この絵が書かれた16世紀の人たちにとっては、想像を超えた高さに違いない。それが塔の上部に雲がかかっていることで表されているのではないかと思う。

「ブリューゲルのバベルの塔」の人気はものすごく、平日というのに館内はほぼ満員状態。「バベルの塔」の前には列が並び、係の人が30分待ちです、と言っている。
私は双眼鏡を持ってきていたので、離れたところからじっくりと観察?、いや鑑賞。
何人かの人が私と同じように双眼鏡やオペラグラスを取り出している姿が目に入った。人気のある作品を見るのには、双眼鏡などのようなアイテムは欠かせない。

上の写真はこの「バベルの塔」を保管する、オランダのロッテルダムにある美術館、ポイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館。(インターネットのHPより)。

ブリューゲルという人はどういう人だったのだろう。またこのバベルの塔はどういう時代背景のもとに書かれたのだろう。多くの人の関心は、バベルの塔の細密性にあって、テレビでもこの美術館でも何倍にも拡大したバベルの塔が展示され、ミクロの視点・マクロの視点に興味が集まっているかのように思える。

岩波書店のPR雑誌「図書」の8月号と9月号に宮田光雄さんの「ブリューゲルと宗教改革」という文が掲載された。 私にはブリューゲルについて知る、勉強になったものだ。そこからブリューゲルのいた時代の部分を引用すると、

「ブリューゲルの描いた当時の政治的・宗教的状況を改めてふり返ってみよう。
ネーデルラントの地に住む多くは、16世紀の20年代以降、宗教改革の運動に強く引き寄せられていた。当初はルター派の影響下にあったが、やがて一部は再洗礼派に結びつき、1540年代初めにはジュネーヴからカルヴァンの教理も入ってきた。
 これにたいして、すでに1516年にスペイン王位を継承したカール5世の下には、ネーデルラントが王国の属領として加わってきた。よく知られているように、このカール5世こそ、1521年にウォルムスで開かれた帝国議会においてルターを喚問して帝国外追放の処分をくだし、みずからカトリック教会の<擁護者>たることを公に宣言した皇帝だった。
 彼は、この間に1533年にはネーデルラントにスペイン軍を駐屯させ、1550年にはルター派からカルヴィン派にいたるまで包括的な異端追放のための宗教法令を公布した。
 1556年にカール5世の後継者となったスペイン国王フェーリべ2世は、いっそう頑なに同じ姿勢を貫くことをためらわなかった。彼は、王国の財政的基盤を支えていたネーデルラントの地に重税を課し、繁栄していた都市の特権を奪い、プロテスタント諸派を厳しく弾圧した。
 こうしてネーデルラントにおいては、いまや国民的な独立のためだけではなく、信教の自由をめぐって激しい反対闘争が展開されることになった。当初は穏健な大貴族の指揮下に始められたが、やがて運動の主導権は下級貴族やカルヴィン派市民の手に移っていった。こうした頑強な抵抗を根絶するため、ついに1568年にはロンバルデイアに駐留していたアルバ公指揮下のスペイン精鋭部隊がアルプスの山を超えてネーデルラントに送られてきた。その支配下に徹底した異端裁判と血なまぐさい恐怖政治が敷かれることになる。
 ブリューゲルの最晩年は、こうした時期と重なっていたのだ。彼が民衆抵抗の側に心を寄せていたことは、その多くの絵画の中で宗教的抵抗のシンボルを表現していることから明らかだろう。・・・略・・・。」

なるほど、この時代は宗教改革、異端裁判・恐怖政治の時代だったのだ。
このことをぬきにしては、ブリューゲルやボスの絵は理解できないことは予想できる。しかし、私にはこの「宗教改革」がなかなか理解できない。
ポルトガルやドイツで見た、教会の絵や彫刻にあるカトリックとプロテスタントの戦い、スペインでのキリスト教とイスラム教の戦いの歴史は、知識としては理解できるがそこに生きてきた人たちの姿が私にはリアルにつかめなかった。
しかし、この文章とブリューゲルやボスの絵を見た時は、すこし実感にそって理解できる気がしてきた。

上はブリューゲルのもう一つの「バベルの塔」。
今回日本に来たバベルの塔は、ロッテルダムのポイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にあるもので「小バベル」(60✕75cm)と呼ばれ、もう一つはウィーン美術史美術館にあるもので「大バベル」(114✕155cm)と呼ばれている。日本に来ている「バベルの塔」のほうが後に描かれたものらしい。この大バベルをとりあげて、宮田光雄さんはこのように説明している。

「ブリューゲルが好んで描いたバベルの塔についても、このような時代状況において見れば、いっそう新しい解釈ができるかもしれない。聖書物語におけるバベルの塔によって引き起こされた<言語の混乱>は、まさに教会分裂によって新しいアクチュアリティ(現実性)を生み出していたのだから。ウィーン美術史美術館に飾られている、もっとも大きな「バベルの塔」(1563年)」を取り上げてみよう。
 地平線の上に高く聳え、塔の頂を雲間から突き出す巨大な建造物は、まさに神に反逆する人間の高慢さと愚かさをまざまざと象徴している。同時に、この塔の下には豆粒に見える多くの人間の姿が描かれている。そこからは、この支配者による壮大な工事のために動員された貧しい民衆の限りない労苦の続いてきたことがわかる。・・・(略)・・・。 
 そればかりではない。このバベルの塔は、その壮大さにもかかわらず奇妙に歪んでいるように見える。塔の立地条件の悪さそのものが原因となっているのだ。たしかに、このバベルの塔は、頑丈な巨大な岩を削って、その上に建てられている。福音書の記事によれば、イエスは砂上の楼閣ではなく<岩>の上に建てることこそ確実な人間の生き方であると教えている。しかし、他方では、<岩>というのはイエスが使徒ペテロに名づけた別称でもある。中世以来の伝統として、カトリック教会の権威は、このペテロを初代教皇とする使徒伝承にもとづくものと主張されてきた。この絵に描かれた塔が傾き始めている姿には、プロテスタントを異端者として迫害するカトリック教会の強大に見える体制も、その崩壊がけっして遠くないことが暗示されているのではないだろうか(若桑みどり『絵画を読む』NHKブックス)。・・・・略・・・
 ブリューゲルは、1569年9月に壮年期の只中(39ー44歳)で亡くなった。詳しい病状は知られていない。彼が自分の死を予感したとき、手許にあった若干の絵を焼却しておくように妻に依頼している。明らかに、それらの絵画が当時の政治的状況にたいして批判的すぎると考えて、自分の死後に家族に難が及ぶのを危惧したからであろう。・・・(略)・・・」

こういった文章を読むと、「バベルの塔」や版画の「大魚は小魚を喰う」を見るとき、ブリューゲルの覚悟が見えてくるような気がする。
芸術家、表現活動に携わっている人たちの心意気が感じられるような気になる。

これは数少ない撮影ポイントの「タラ夫くん」。

タラ夫くんは、版画「大魚は小魚を喰う」に出て来る魚人間(上の写真は「図書8月号」より)。今の資本主義社会の時代にも通じる物欲への批判だけではなく、ブラックユーモアというか、諦めを乗り越える何かがあるかのような感じがする。

バベルの塔の精密画、マクロとミクロの視点を確認するとともに、時代を越えるメッセージが本物にはある、そのことが確信できる「ブリューゲル展」だった。

上は「ブリューゲル展」で買ったカタログについていた実物大「バベルの塔」。
部屋の壁に貼ってみた。左に電気のスイッチがある。「図書」をセロテープで貼り付けてみて、大きさがわかるようにした。60✕75cmというのはこれくらいのおおきさなのだ。この中に塔の中には1000人以上の人間、船、田畑にいる動物、港で働く人などが描き込まれている。その意志の強さと集中力にあらためて感動する。
いつか「大バベルの塔」を見に行きたいものだ。