カカオはコロンブスが持ち帰った。

最近見た歴史ドラマで面白かった「クイーン・メアリー」。ドラマの食事風景から、ヨーロッパのお菓子に興味がわいた。

そこで読んだ本が2冊。
一つが左の「お菓子でたどるフランス史」。
もう一つが以前にも読んだが、もう一度読み直したのが「文明を変えた植物たちーコロンブスが遺した種子」。
この2冊から「チョコレート」について少し詳しく勉強してみた。

チョコレートの原料というか、元になっているのが「カカオ」。
少し前に「咲くやこの花館」でみた、「カカオとコーヒー展」が潜在意識にあって働いたようだ。

左の本によると、私たちの生活を激変させたもの、それは「ジャガイモ」「とうもろこし」「カカオ」「唐辛子」「ゴム」「タバコ」であるという。
それははもともとヨーロッパにはなかったものである。
コロンブスは多くのものをアメリカ大陸やアジア、インドから持ち帰ってきているが、その内容をわかりやすく紹介しているのがこの本である。
この本を読むまでは、ジャガイモ、唐辛子、ゴムがヨーロッパにはなかったことを知らなかった。
ジャガイモの歴史については「赤毛のアン」のツアーで学ぶことが多かったが、今回はチョコレートの歴史から「カカオ」存在に気づくことになった。

上の写真は「咲くやこの花館」であった「カカオとコーヒー展」で撮ったもの。そこにはこんな説明があった。

「カカオノキ 南米アマゾン川、オリノコ川流域 アオイ科
カカオノキは、直径約1cmの白い花を、幹に直接咲かせます。たくさんの花のうち、受粉・結実するものは少なく、200〜400個の花に対して1個の割合といわれています。
 完熟した種子を発酵させると、苦味が消えて独特の香りを発散させるようになります。水洗いし乾燥させたカカオ豆を、火にあぶり、種子を除いて粉末にします。これに砂糖、香料を混ぜて固めるとチョコレート、カカオ脂を除くとココアのでき上がりです」

上の本によるとカカオノキの樹高は
10〜13mに達し、アマゾン川の上流地域が原産地だそうだ。果実は直径が15cm、長さが25cmくらいでラグビーボールのような形をしている。
3歳の子どもが、展示されていたカカオの実を持ってみるとこんな感じになる。25cmとなるともう少し大きくなると思う。
かなり大きい実なのだ。

カカオの歴史が詳しくのっているホームページがあった。

http://cocoalabo.com/know/detail/history.html

チョコレート・カカオの歴史

このホームページや2冊の本を参考にして簡単な歴史を書いてみると、

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☆紀元前
 南アメリカのマヤ族、インカ族、アステカ族がカカオを栽培していた。
 貴重な飲料として飲まれていた。通貨としても利用していた。
 カカオの実をKAKAWA(カカワ)と呼んでいたのが、ヨーロッパにカカオとして
 伝わったという説がある。

☆1502年
 コロンブスが第4次航海で、ホンジュラスでカカオ豆を入手するが、
 興味もなく、スペインへ持ち帰るが用途もわからないままであった。

☆1519年
 スペインのエルナン・コルテスがメキシコ湾東岸に到着。アステカの首都に入り、モンテマス二世よりカカオ飲料でもてなされる。

☆1528年
 コルテスはアステカを占領。略奪品とともにカカオ豆をスペインへ持ち帰り、カルロス王に献上。カカオの実質的なヨーロッパ伝来となる。

☆1580年
 スペインの宮廷でチョコレート飲料が普及。

☆1613年
 支倉常長を代表とする遣欧使節団がメキシコを経由してヨーロッパへ。チョコレートを口にした最初の日本人では?と言われている。

☆1615年
 スペイン王女、アンヌ・ドートリッシュがチョコレートコックを連れてフランスのルイ13世と結婚。チョコレート飲料はフランス宮廷の流行となる。

☆1656年
 スペイン王女、マリア・テレサがフランスのルイ14世と結婚。王女もチョコレート好きだったため、フランスでチヨコレートが定着。
チョコレートはフランスでは「ショコラ−」と呼ばれた。

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チョコレートの語源を調べてみた。Yahooの知恵袋を参照すると、

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日本語「チョコレート」は英語 chocolate からですが、英語 chocolate はスペイン語 chocolate(チョコラテ)から(フランス語 chocolat (ショコラ) もスペイン語からです。
このスペイン語 chocolate は、中央アメリカのアステカ諸語の一つであるナワトル語(Nahuatl)の xocolatl(ショコラートル)からで、この xocolatlは、ナワトル語の xocolli「苦い」+atl「水」からできた言葉です。
スペイン語には「xo ショ」音がないので「cho チョ」になりました(フランス語で cho が再び「ショ」音になった)。

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なるほどスペイン語からの変化が今に伝わっているわけだ。
1600年代のヨーロッパの文化の中心はスベインだったことがよくわかる。

歴史に戻ってみると、
☆1828年
 オランダのコンラート・ヴァン・ホーテンがカカオ豆から脂肪分を分離して、低脂肪でなめらかなココアをつくる。

これ以降、板チョコの発明、添加物ゼロの純粋なココアの発明、ミルクチョコレートの発明と続く。19世紀末には今のようなチョコレートの形になる。
日本では、1918年に森永製菓がカカオ豆からチョコレートの一貫製造を開始。
翌年1919年にミルクココアの発売となる。

さてカカオとココア、その違いは?

「咲くやこの花館」での「カカオとコーヒー展」の展示にその説明があった。 

「なぜココアという呼び名になったのでしょうか?
そもそもカカオという呼び方はマヤやアステカの言葉が語源です。先住メキシコ人たちはカカオの樹を「カカバクラヒトル」と呼んでいました。
メキシコを征服したコルテスはカカオの樹を「カカップ」とスペインに伝え、「カカップ」が変化し、「カカオ」になったと言われています。
スペインに持ち帰られたカカオという呼び名はヨーロッパに広まり、現在でもその名称が使われています。しかし、ただ一カ国、イギリスだけでは、カカオという発音が難しかったためか、音の組み合わせが代わって「ココア」と呼ばれるようになり、その名称が定着。日本もイギリスにならい「ココア」という名称を使うようになりました。

なるほどね。同じものをイギリスでなココアといい、それが日本に伝わったようだ。
カカオが一般的な呼び名であることがわかった。

チョコレートと砂糖と奴隷労働

チョコレートの発展には砂糖の影響が大きくある。 ここでは取り上げることはできなかったが、その開発と発展の影には、ヨーロッパ人が南アメリカ、アフリカの先住民を人間扱いしなかった圧迫の歴史がある。
「日本チョコレート・ココア協会」のホームページに次のようなことが書かれていた。

チョコレートと砂糖と奴隷労働
ヨーロッパ各国は新世界発見とともに、メソアメリカや南米でサトウキビ栽培を始め、砂糖を生産してヨーロッパ大陸に持込みました。料理や菓子に使われるようになると大量の砂糖が必要になり、ヨーロッパがカリブ海諸島を植民地化すると、サトウキビのプランテーションが盛大に行われるようになりました。砂糖やカカオ栽培の労働力を補うためアフリカから奴隷が導入されました。 新世界から砂糖やカカオを積んだ船がヨーロッパに入ると、その船にヨーロッパ製の武器・繊維などの工業製品を積んでアフリカに向かい、黒人奴隷と交換して新世界に向かうという、ヨーロッパ・アフリカ・新世界植民地を結ぶ大西洋三角貿易が成立し、長い間行われていました。

http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/history/world/w04_a.html

私たちが美味しく食べているチョコレートには苦い過去がある。そしてその苦味は今も続いている。もう少し勉強してみよう。

 

 

 

 

スペイン「カルメン」紀行16

カテドラル(セビーリア大聖堂)

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スペインへ持っていった「るるぶ」には次のような説明がある。

「イスラム時代に建てられたモスクを基礎にして、15世紀初頭から約1世紀もの歳月をかけて建造された大聖堂。完成までに、ファン・ノルマンやペドロ・デ・トレドなど多くの建築家が携わった。奥行き116m、幅76mのゴシック様式とルネサンス様式が混合する建物は、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのレント・ポール寺院に次ぐ規模。聖杯の礼拝堂や主聖具納室などに展示された、スペインを代表する画家たちの宗教画は必見だ」。

そう、ここもモスクがあったところにキリスト教の大聖堂を立てたもの。あちこちにイスラムの雰囲気がただよっている。しかし内部はゴシック様式とルネサンス様式が混在している。100年ほどの時間をかけて建設されているので、その時々の様式が混ざるのはしかたがないことだろう。

内部は豪華絢爛。

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たくさんの宗教画もすばらしかったが、印象深かったのが、世界一美しいと言われているマリア様の像。カテドラル内部の写真はどれもピントがボケてしまっていたのはどうして?

私がここで見たかったのは、これ。

IMG_5390四人の王に担がれている「コロンブスの棺」。

四人の王というのは、当時のスペインにあった4つの王国、カスティーリャ王国・レオン王国・ナバラ王国・アルゴン王国のことで、スペインの発展にコロンブスの果たした役割に敬意を表していると意味らしい。
ここでも「るるぶ」の説明を引用してみると、

各地を流転したコロンブスの遺骸は、米西戦争が終結した1898年にキューバの首都ハバナから運ばれてきた。新大陸を発見後、コロンブスはセビ−リアに滞在していたという。

なんとなくわかるが、少し物足りない説明。
日本に帰ってから調べてみると、コロンブスは最後まで自分が行ったところはアジア(インド)だと思っていたらしいということは知られているがその後・・・・・・

・コロンブスは1506年にスペインのパリャドリッドで亡くなり、そこで葬られている。そしてそしてその遺骨はセビリーアの修道院に収められる。
・その後、コロンブスは遺言で自分の「発見」したサント・ドミンゴに埋葬してほしいと言い残していたので、サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国の首都)大聖堂に移される。
・フランスとスペインの間に戦争が起こり(1635年〜1659年)フランスの勝利により、サント・ドミンゴ大聖堂が立つ場所がフランス領になる。コロンブスの遺骨はスペイン領であったキューバの大聖堂に移される。
・1898年のスペイン・アメリカ戦争がおき、スペインが敗北。アメリカがキューバの管理権を得たことにより、コロンブスの遺骨はスペインに移された。
・ところがドミニカ共和国は「キューバに渡った遺骨はコロンブスの息子のもの。本人の遺骨はずっとサント・ドミンゴにある」と主張し、1992年にドミニカ共和国は「コロンブス記念灯台」を建設し、その遺骨を移したとしている。

こうしてコロンブスの遺骨はスペインとサント・ドミンゴの二カ所にあることになった。
その後、2003年にDNA鑑定がおこなわれ、「セビリーア大聖堂にコロンブスのDNAと思われる骨があった」と言われているというのがガイドさんの話。なんでもこの棺には何人分もの骨があったようで、しかもコロンブスの長男の遺骨のDNAとくらべての調査なので私もなんとなく?という気持ちになった。
コロンブスの墓1

インターネットでドミニカ共和国のコロンブスの墓を調べてみた。

1492年から500年後の1992年に建設されたといもので、
全長200mというからなかなか立派なものだ。
ある意味ではセビリーア大聖堂に負けていない。

 

http://www.ab-road.net/south_america/dominican/santo_domingo/guide/00194.html

真偽の程はわからないが、どちらの国にとってもコロンブスは大事なものになっていることはよくわかる。

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こちはらコロンブスの息子の墓。

大聖堂の床に埋葬されている。彼は古文書を多くこの教会に寄付したそうだ。親子そろって墓があるのも興味深い。
さて続いてヒラルダの塔に登る。ヒラルダというのは風見鶏のこと。

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この塔は高さ約94mの鐘楼。 イスラム時代はミナレットだった。ミナレットというのは、イスラム教のモスクに付属した礼拝時刻の告知(アザーン)を行うのに使われる塔のこと。そのミナレットは16世紀にルネサンス様式に改築され、今ではイスラム様式の特徴を持つ街のシンボルになっている。もともとは70数mの高さであったが、その上にバルコニーと鐘楼をのせたそうだ。

一番上に女性の姿をした風見鶏がのっている。
下に写真を拡大しておく。

それにしても巨大な工事だったろうと想像される。

_MG_8171風見鶏

右の写真は形がよく分かるようにと、インターネットで探したもの。

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_MG_8213塔のバルコニーからの眺めは抜群だった。 このバルコニーままでは階段ではなくて、スロープになっている。

イスラムの時代、一日に数回あるのアザーンのたびに、この高いミナレットを階段で上がるのはたいへんなために、スロープになったとガイドさんの説明。今だったらエレベータやエスカレータにしていたのかもしれない。

このあと飛行機に乗ってパルセロナに向かう。 バルセロナといえば1992年の夏のオリンピック。でも今回の旅の目的はガウディ。

この日の夕食はホテル到着が20時ごろになっていたので各自でとることになっていた。でました、用意していたカップラーメン。異国で食べる日本のカップラーメンの美味しいこと。

 

 

スベイン「カルメン」紀行8

グワダルキビール川にかかるローマ橋

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グラナダからゴルドバまで約3時間のバス旅。 途中のドライブインで休憩。かつては駅舎だったようで、お土産物も売っていた。 そこでガイドさんに頼んで、地元の人がいつも飲んでいるコーヒーを注文した。
私好みの熱さで、コーヒーの香りも味もこれまでスペインで飲んだコーヒーで一番だった。やっぱり現地の名物は現地で味わうのが最高ということだ。

バス旅の途中で、松本侑子さんから原作「カルメン」とオペラ版「カルメン」の違いについての講義を聞く。

その講義の内容にもふれながら、まずゴルドバ ー世界遺産都市「コルドバ歴史地区」からはじめよう。
コルドバは「カルメン」の原作本に登場する街。

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この橋は「ローマ橋」、旧市街地に入るために渡る橋。
橋の向うにメスキータが見える。
川はグワダルキビール川という。イスラムが支配していた時に街の守りをしていた「カラオラの塔」の前で松本侑子さんの説明を聞く。
「カルメン」の原作は、「私」という考古学者が「ドン・ホセ」から「カルメン」の話を聞いたことがもとになって本になっている「額縁小説・枠物語」である、と松本侑子さんの説明。
その考古学者である「私」が「カルメン」に出会ったのがこのローマ橋。原作本から引用してみよう。

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コルドヴァでは、日の暮れ方になると、グアダルキヴィル川i右岸に沿ったどての上に無数の閑人が現れる。このどての上から、製革業で名高かったこの国の昔の名声を未だにとどめているなめし革工場の発散する異臭をかぐのであるが、その代わり、はなはだ見物がいのある光景を楽しむこともできる。夕暮れの鐘の鳴りわたる数分前、大勢の婦人がどての下の水際に集合する。・・・・鐘が鳴り渡るが早いか、夜になったものとみなされる。最後の鐘の響きが消えると、婦人たちは一人残らず、着物をぬいで、水の中に入るのである。それから叫ぶ、笑う、たいへんな騒ぎである。どての上から男どもはゆあみする女たちを眺める。・・・・・・
ある夕方、はやものの形も見えない頃、川岸の手すりによりかかって煙草を吹かしていると、一人の女が水際に降りるはしごをのぼって来て、わたしのそばに腰をおろした。女は髪にジャスミンの大きな花束をさしていたが、この花は、夕闇の漂う頃になると、むせるような香を放つ花である。・・・・・
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上の写真の白い花がジャスミン。アルハンブラ宮殿の庭に咲いていたもので、松本侑子さんの指摘で写真をとっていたことがここで役に立った。
コルドバが製革業で有名であったこと、カルメンが髪にさしていたのはジャスミンの花だったことはあとに関係するので、覚えておこう。

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グワダルキビール川は約100km先の大西洋に流れ込んでいる。セビーリアの街は川を遡ってくる新大陸から運び込まれた膨大な品々によって大いに発展したという。

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橋の上は、観光客目あてのパフォーマンス、アコーディオン演奏などの、いわゆる大道芸で賑わっていた。

さて、橋の岸にある城門をくぐって、世界遺産「メスキータ」のある旧市街地に入る。

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城門をくぐるとイスラム風の彫刻をほどこした建築物が目に入る。 街路樹が整然と植えられていて、その緑は、地中海に居るのだなあとあらためて思わせる。
街路樹には実がなっている。えっ、これはミカン? いいえ、地中海といえば、そう、オレンジの実がなっているのだ。
まだ色づいたばかりだが、もう少し日が経つとそれこそオレンジ色に輝くのだろうな。ただこの実は甘い種類のオレンジではなく、ジャムなどに使われているという。
街路樹の実といえば、御堂筋の銀杏、そろそろイチョウの葉も黄色に色づく頃かなと思いながら、メスキータに向かう。