ドイツグリム紀行22 補足

グリム兄弟がめざしたこと ー ドイツ語辞典

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これはグリム兄弟が作ったドイツ語辞典である。

インターネットで「福岡大学図書館報」という記事を見つけた。それはこんな文章から始まっている。

 「”DEUTSCHES WORTERBUCH VON JACOB GRIMM UND WILHELM GRIMM“という極めて簡素なタイトルが付された巨大な辞典、それが、1838年に着手されてから1961年に一応の終巻が配本されるまで、実に123年という時間が編集作業に費やされた『グリムのドイツ語辞典』(全16巻33冊)である。・・・・・」

そして最後にこう書かれている。

「余談であるが、Frucht(果実)を引くと11行目にアステリスクがついており、「この語をもってヤーコプ=グリムは残念ながら永久に本著のペンを擱かねばならなかった。そこまで書かれたFの残りは私の仕事である-ヴァイガント」と欄外に注釈がある。本文中でこのように時々「私」が顔を出すのも、この辞典のユニークで味のあるところである。そして私は、上記のような箇所に出会す度に膝を正し、グリムという巨人を偲ぶ。
                   (永田善久 人文学部 講師)」

http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/know/kanpo/no078/7801.html

私はこのツアーに行くまでは、グリム兄弟がドイツ語の辞書を作ったことは全く知らなかった。ドイツ語の辞書作成はFの途中でヤーコブが亡くなり、兄弟の手では完成しなかった。そのあと志を次ぐ人によって作業が行われ完成したのは123年後だというから驚く。
またドイツ語を習ったときに出てくる「ウムラウト」と言う言葉、これもグリム兄弟の兄ヤーコブの造語だそうだ(Wikipediaより)。うーん、すごい人だ。
ツアーに行かなかったら、絶対知っていなかっただろうと思う。

さて、グリム童話について知ったことをまとめておこう。

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最近グリム童話の本がよく書店にでている。テレビなどでもグリム童話を話題として取り上げた番組もよく見る。

左の本には、ドイツの本の挿絵がふんだんにあり、見て楽しむことができた。松本侑子さんの手による「兄さんと妹」が再話がのっている。表紙の赤ずきんちゃんがかぶっているものは、シュパルムシュタットでみた「赤ずきん」だ。

さて、グリム兄弟はどうして民話などを採話して、本にしたのだろうか。
諸説あるらしいが、私が知ったことを書いておこう。

松本侑子さんの資料から紹介すると、

「兄弟はカッセルに帰った1806年(注:兄ヤーコブ21歳、弟ヴィルヘルム20歳)ごろから、ドイツの童話の収集を始めている。ドイツの領邦が、フランスに侵略された時代に、ゲルマンの民話を集めて民族の文化的な統一意識と誇りを持とう、ゲルマン民族のアイデンティティを追求しよう、という意識が、彼らだけでなく社会全体にあったのだ。
 恩師ザヴイニーの友人だった詩人クレメンス・ブレンターノ(1778〜1843)もまた、ゲルマン民族と歌謡を集めた「少年の魔法の角笛」という三巻本を1806年から8年にかけて出している。ゲルマン民族の過去の文化を知ることで、独自性と誇りを自覚させたいという願いを込めた仕事だ。ヤーコブとヴィルヘルムは、学生時代からプレンターノと面識があり、この本の編纂を協力した。弟のルードヴィルヘルムは画家として口絵も担当しているのだ。兄弟はこの仕事を通じて、ますます古い時代の民話、メルヘンの収集に関心をもっていく。・・・・・」

「兄弟は聞いた話をそのまま文字にしていない。当時わずか20代だった独身青年の愛国的な価値観にもとづいて「創作」されている。・・・・そのころドイツという国家はまだなく、多数の領邦に分裂していた。フランス革命後はナポレオン軍に侵略、支配され、兄のヤーコブはフランス軍の通訳として働いた経験もある。そんななか、彼らは弱小ドイツの分裂した地方を一つにして、富国強兵の近代統一国家を造ろうと考えたのだ。そのためには、同じドイツ語と民話をもとに文化的な統一をなすべきだ、そのためには家庭はどうあるべきか、子どもはどうあるべきか。それを「家庭と子どものメルヘン」は意識している。つまり近代的な家族、その家庭医いるべき女。国にとって役立つ子どものためのおとぎ話である。初版以降、手が加えられたことは前記の通りだが、具体的には、女性を家に押しこめ、従順と無口を是とする表記が増えていく。愛国主義者、生粋のゲルマン国粋主義者である兄弟、しかも女性と一度も親しくつきあったことのない若者の憧れる女性観、理想とする家庭像に、私は多少とも歪なものを感じ、関心を持った。・・・・」

そんな松本侑子さんのグリム童話への関心が一冊の本になっている。

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それが左の写真の本、松本侑子さんの手によるグリム童話のパロディ。
目次を見るだけでも刺激的だ。

・眠り姫が性に目覚めるとき
・白雪姫の魔女裁判
・おませで可愛い赤ずきん
・シンデレラと大足の姉たち
・青髭の失楽園
・男の国へいって死んだ人魚姫
・マッチ売りの少女娼婦

7つの物語が載せられている。
松本侑子さんの疑問がパロディとなった作品。この本の後書きには、「表現の自由と古典文学、文学のあり方」について松本侑子さんの考えが書かれている。

グリム童話やグリム兄弟に感心を持った人は機会があれば読むといいと思った本。

グリム兄弟が童話・メルフェンの採話をはじめた背景は理解できた。
ではどのようにして採話していったのだろうか。

私流にまとめてみた。
童話やメルフェンの収集というと、おじいさんやおばあさんが話す昔話を聞いて回って収集する、というイメージが一般的だがグリム童話はそうではない。
グリム兄弟が採話した人たちは、もちろん年配の人もいるが、若い人たちも多い。
そしてドイツ人からだけに限って話を聞いたのでもない。
たとえば当時20代のフランス系の若い娘さんであったり、兄弟の身近にいた友人や知り合いから話を集めている。しかも教養のある市民階級の女性たちであり、学者や牧師の夫人も含まれている。古い本を見て集めた物語、知人たちに手紙で協力を頼んで集めたおとぎ話もある。これはドイツのハインツ・レレケという人たちが、グリム童話について調査してわかったことだ。200年も前の資料を丹念に調べたのだろうと思う。またそういった昔の資料が残っているのもドイツらしいと私は思った。

民話は国境を越える

「古い民話を集めて本にすることで、ゲルマン民族の心の拠り所としよう」という考えと、ドイツ人以外の人達の話を聞いて話を集めて本にするのとは矛盾しないか?
その質問に松本侑子さんは慶應義塾大学の宮下啓三教授の考えを紹介している。
「当時の兄弟はまだ20代半ばで経済的に困窮していた。手元に集めたメルヘンを出版することで生計を立てる必要があったこと」
「ドイツとフランスといった欧州各国は距離的にも文化的にも近く、人々は自由に行き来していたのであり、童話も自由自在に国境を越えるところに素晴らしさがある」

「民話は国境を越える」という言葉にインパクトを感じた。
なるほどツアーでドイツを移動するとひとつづきにつながっているということを実感する。どこに国境や市や町の区切りがあるのだろう。200年前のヨーロッパは地続きで国境も変化していた。そこで生活する人々も移動するし、昔話やおとぎ話も一緒に移動したことも想像に難くない。
グリム兄弟には今のドイツという国よりも、もっと広い形でのゲルマン民族という概念から民話を集めたのだろうと想像できる。

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左の本は、上の「絵本新編グリム童話選」を書名を変えて文庫本にしたもの。「絵本」にある挿絵が省かれているが、それ以外の中身は同じもの。
この二冊の本の後書きが充実している。たとえばグリム兄弟が話を聞いた女性たち6人のことが詳しく記されている。また巻末のグリム兄弟の年表は、ドイツから帰ってきて読んでみると時代と兄弟の動きがよくわかるものだった。一読する価値はある。

さて、グリム兄弟の晩年はどのようなものだったのだろう。
松本侑子さんの資料を紹介する。

「1841年、兄弟はベルリンへ転居する。独身のヤーコブは、ヴィルヘルムの妻、子どもたちとともに大家族で住んでいた。・・・(略)・・・ベルリン大学で教鞭をとったのはヤーコブが7年間、ヴィルヘルムは11年間である。兄は神話学、法律、ドイツ語文法などを教え、弟はドイツ中世文学を講じた。しかし二人の仕事は講義だけではなく、多岐に及んだ。グリム童話集の高い評判と重版、古代ゲルマンの研究、ゲッティンゲン大学7教授免職事件によって全土的な有名人なっていた二人は、多忙な日々を送る。アカデミーの会員としての職務、王侯貴族との社交、宮廷での国王との面談、さらに大著におよぶドイツ語辞典の執筆と編纂も続けていた。とくにヤーコブは、ドイツ文学者会議の議長を二度つとめ、今の国会にあたる国民会議の議員にも選ばれてからは公務も加わった。彼はこうした活躍とゲッティンゲン大学での自由を求める活動が評価されて平和勲章を授かっている。
 当時の議会の課題は、小さな領邦国家に分裂していたドイツの統一、立憲君主制の制約はあったが自由を保障する国家憲法の制定だった。18世紀も20世紀後半も、ゲルマン民族の統一が課題であった史実は興味深い。グリム兄弟は、古代から脈々と続くゲルマン民族の言語、昔話といった文化を共有する人々は、一つの国に所属すべきであると考えてきた。彼らが執筆したドイツ語辞典もまた、多数の領邦国家の国境を超えて全ドイツで通用するものである。あくまでも兄弟は文化的な意味合いで統一を目指したと思うが、しかしこの主張は後にヒトラーによってゲルマン民族高揚、多民族蔑視に悪用されたり、戦後は東西ドイツ統一の政治的スローガンを結果的に援用したりと、二人の意図とは微妙に異なった動きをしたのである。・・・・・」

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上の写真はシュパルムシュタットの博物館で買った「赤ずきんちゃん」の人形。
赤ずきんちゃん、赤ずきんちゃんのスカートをひっくり返すとおばあさんが登場、おばあさんの後ろ姿はオオカミ、よく考えてある。つくりも丁寧であった。

このほかに買ったお土産は、定番のチョコレート。そしてドイツといえばダルマイヤーのコーヒー、そしてドイツ語の世界地図など。自分の国が中心に書かれた世界地図はおもしろい。中国で買った地図は中国語、オーストラリアは南北反対など、お国柄が表れている。

さて、21世紀の今も語り継がれているグリム童話。作者のグリム兄弟の最晩年は、

「ヴィルヘルムは、まだ20代だった1812年に初版を発行したグリム童話集を、重版のたびに改訂してきたが、1857年にも第7版を出し、2年後の1859年に73歳で亡くなった。日本で明治以降、翻訳されてきたのは、彼が最後に手を入れた第7版である。
 子どもの頃から弟と励まし合い、ほとんど一緒に生きてきたヤーコブは死に悲嘆するが、幸い、ヴィルヘルムの妻ドルトヒュンと子どもたちと以前と同じように暮らした。ヤーコブは生涯独身だったが、料理をはじめ身まわりの世話を献身的にしてくれたドルトヒュンの存在は大きかったに違いない。・・・・(略)・・・1863年、ヤーコブは78歳で逝去、マテウス教会墓地に埋葬された。隣には、苦難の多かった生涯において、研究、研鑽をともにした弟ヴィルヘルムの墓がならんでいる。」

と松本侑子さんは書いている。知ることの多かったこの「松本侑子さんと行く世界名作ツアー『ドイツ・メルヘン街道とグリム童話紀行』」のツアー。ブログ「ドイツグリム紀行」もこの辺で中締めとさせていただく。松本侑子さんの資料紹介のブログになったみたいだが、この資料がなかったらブログを書き続けることもできなかったのは事実。松本侑子先生に感謝したい。ありがとうございました。
松本侑子さんの体調も戻られたようだ。ツアー途中で体調を崩された方も元気になられただろう。私も来年のツアーに向けて体力づくりをしよう。
松本侑子さんのブログのアドレスは以下の通り。

http://yuko-matsumoto.cocolog-nifty.com/blog/

 

 

ドイツグリム紀行20(5日〜6日目)

フランクフルト

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ブレーメンからフランクフルトに戻ってきた。
フランクフルトはドイツに到着した時は通過しただけだったので、市内を見学していない。
コースでは日本に帰る最後にこの町を歩くことになっている。
あらためて地図を見ると、ブレーimg_7042メンの音楽隊に関係するヴェーザー川も、ローレライのライン川もドイツを縦断して北海に注ぎ込んでいることがよくわかった。

さて、グリム兄弟とフランクフルトはどんな関係があったのだろう。

グリム兄弟はフランクフルトの近くにあるハーナウで生まれた。(左の写真は私が訪れたハーナウにある兄弟の像)。
兄弟はカッセルに30年ほど住んだあと、カッセルから40km程度はなれたゲッティンゲンに移る。そしてゲッティンゲン大学で教鞭をとるようになる。
ヤーコブ52歳、ヴィルヘルム51歳の時(1837年)「ゲッティンゲン大学7教授罷免事件」がおきる。その様子を松本侑子さんの資料より引用すると、

「ゲッティンゲンで二人はたゆまぬ研究、学生への教育指導、図書館管理という多忙な生活に入るが、しかし時代の激変は、またも兄弟に襲いかかる。
このころ、絶対君主制を固持しようとする王侯貴族と、自由を求める富裕で教育のある市民階級との対立が激しくなってきた。学生運動が起き、労働者、職人、農民も、市民としての権利を要求して暴動や集会も開かれた。そうした流れを受けて、ゲッティンゲンのあるハノーファー王国では、国民の議会参加を認めた進歩的な憲法が制定される。それまでは君主の権力は絶対的なもので、臣民には、それに異議を唱える権利はないとされてきたが、新憲法のもとでは、支配者も法的な拘束を受けるようになった。しかし王が交代すると、新しい国王は、統治者に有利な旧い憲法に戻す宣言を出したのだ。・・・(略)・・・
慣習法としての法律を研究し学生たちに講じてきたヤーコブは、君主による横暴を看過することができなかった。
52歳のヤーコブと51歳のヴィルヘルム、そしてほかの5名の教授は、国王に反対する声明を提出した。それによって首謀者の一人とされたヤーコブは教授の地位と職を奪われ、さらに三日以内の国外退去処分を受ける。首謀者ではなかったヴィルヘルム、は国外退去はまぬがれたが、やはり教授職を解かれた。
 これがゲッティンゲン大学7教授罷免事件だ。ヤーコブら7教授を支援する人々の輪はドイツ各地に広がり、職を失った二人は、ベルリン大学、ミュンヘン大学からも教授として招かれた。ゲッティンゲン大学の学生たちもヤーコブを支持し、デモまで行って解雇処分への反対を表した。ハノーファー王国を去りカッセルへ帰っていくヤーコブを追って、学生たちは松明をかかげて行進し、ヘッセン国の国境まで見送ったのであった。グリム兄弟というと、日本では童話のイメージが強いが、ドイツではこの一件によって民主化を求める国民的な英雄としても歴史に名を残している。」

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グリム兄弟はベルリン大学で教授として迎えらる。
そして1846年にフランクフルトで開かれた「ドイツ文学者会議」で、ヤーコブは満場一致で議長に選出されている。
また、1847年のフランクフルト国民会議(ドイツ憲法制定会議)でも代議員に選出されて、憲法草案を提示している。(左の写真はWikipediaの「フランクフルト国民会議」の記載より引用)

グリム兄弟の兄、ヤーコブにとってフランクフルトは重要な場所になっている。

私たちはそのような町フランクフルトを夕方に散策した。

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ここは聖パウルス教会。なんとフランクフルト憲法を審議した場所とか。ヤーコブがここにいたかもしれない。
レリーフはケネデイ大統領。「ここは自由が誕生した場所だ」と1963年にここでスピーチをしたそうだ。

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フランクフルトの町に夕闇が迫ってくる。 私たちは市内のレストランに入る。

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ツアー最後の夕食なので、みんなゆっくりとお酒やジュースなどを飲みながら食事をし、おしゃべりを楽しむ。このツアーは食事が美味しいのでリピーターも増えそう。
最後の写真は「聖ニコラス教会」の夜景。

6日目の朝

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このホテルは建物は古いが、内装や調度品は歴史を感じさせながら、なおかつオシャレ。 img_4101

ガーデンテラスではサラリーマンらしい人が朝食を食べている。 少しはなれたテーブルではブレックファスト・ミーティングあるいはパワー・プレックファストのような朝食風景が見られた。スーツ、ワイシャツがピシッと決まった人たちのグループだ。

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朝食をすませ、私たちはフランクフルトの朝を散策しながら、「ゲーテハウス」に向かう。

左はゲーテ広場にあるゲーテ像。

グリム兄弟とゲーテの関係はどうだったのだろう。松本侑子さんの資料を見てみよう。

「1809年、弟のヴィルヘルムは、ワイマールにゲーテを訪問している。まだ一冊の本も出していない23歳のヴィルヘルムが、60歳のゲーテに会えたのは、恩師ザヴイニーがゲーテに宛てて、グリム兄弟が優秀であること、古代ドイツ文学を収集していることを伝えてくれたからだ。ゲーテはヴィルヘルムの取り組みを激励し、優しく対応してくれ、彼は大いに感激する。晩年のゲーテは職業面では老獪で煮ても焼いても食えない老人という観があるが、利害関係のない年若い文学青年には、警戒心を解いてざっくばらんに接したのであろうか。・・」

今日も良い天気だ。青空の中、ガイドさんの市内観光の説明を聞きながら、ゲーテハウスに向かう。

 

 

 

 

 

ドイツグリム紀行11(3日目の5)

カッセル その3

img_3522これが以前のグリム博物館。まるで絵葉書をコビーしたかのような写真だが、ちゃんと私がiPhone6で写した写真。
この博物館の収蔵物は、私たちが見学した「グリム博物館 Grimm Welt」に2015年9月に移転している。
松本侑子さんはこちらの古い方の博物館を見学したのだろうと思う。

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img_3525グリム兄弟が住んだ家。
1824年〜1826年

カッセルは機関車製造の工業地として栄え、第二次大戦中は連合軍の爆撃を受けて壊滅的な被害を受けている。すべては戦後の再建されて、ほとんどの建物が新しい。
グリム兄弟が住んでいた、というパネルが貼られているが、この建物も再建されたものだろうと思われる。ドイツでは、戦争で破壊された建物の多くは、戦前の姿で再建されているものが多いという。

ここでグリム兄弟のカッセルでの生活を、松本侑子さんの資料により紹介する。父を亡くし、二人がカッセルに来たのはヤコブ13歳、ヴィルヘルム12歳の時だった。

「故郷の田舎シュタイナウからでてきた二人には、さぞかし大都会に見えたことだろう。身分の差が歴然とあった階級社会において、二人は身分のない庶民だ。しかも後ろ盾となる父も財産もない。そんな少年たちには、つらい経験も多々あったのではないだろうか。彼らが持ちうるものは、自らの努力だけだったのだ。
 その知性を頼みにして大学へ進み、社会へ出て立身出世しようとしたことは容易に想像できる。兄弟は母と伯母に迷惑をかけないように、そして立派な人になって母を喜ばせたいと、ギリシャ語、ラテン語などの勉強に熱を入れる。
 実際、彼らは努力に努力を重ねて優秀な成績をおさめ、本来は8年で卒業する中学高校に当たる学校を、わずか4年で終える。さらに兄のヤーコブは校長の推薦を受けて、マールブルグ大学へ進むことを許された。1年後、弟のヴィルヘルムも同じ大学に入る。十代の彼らの奮闘ぶりが、頼もしくもあり、また妙にけなげで、いとおしい。・・・・」

マールブルグの町の様子は、前回のブログに書いたとおり。下の写真は、グリム兄弟が住んだという家にほど近い市庁舎のある広場付近。

img_3529マールブルグ大学を卒業した後のグリム兄弟の足跡を、松本侑子さんの資料をもとに紹介する。

「マーブルグ大学で学生生活を送った後、グリム兄弟は、中学高校時代をすごしたカッセルへ戻る。というのは、シュタイナウにいた母、弟たち、妹がそろってカッセルに移り住んできて、一緒に暮らすことになったからだ。
 兄ヤーコブは恩師とともにパリでしばらく研究したあと、大学を中退して、1805年にカッセルに戻った。弟のヴィルヘルムは学位を取り卒業した1806年にカッセルへ帰った。
 ヤーコブは、収入のない家族の生活を支えなければならない。4人の弟と妹を学校へ行かせなければならない。そこでヘッセン国の陸軍師団の書紀として務めることになった。当時のヘッセンはナポレオン軍と戦争中で、彼は司令部の事務方として働いたのだ。だが1806年、ヘッセン国はフランスに占領され支配を受けるようになる。
 フランス語に堪能だったヤーコブはフランス軍政府のもとで働くことになったが、異国のフランス人に仕えること、古代ゲルマンの研究ができないことを嫌って退職した。弟のヴィルヘルムは戦時の混乱中で、仕事が見つからない。ふたたび一家の収入はとだえ、食事も貧しくなっていく。そんな困窮のなか、兄弟の行末を楽しみにして励ましてくれていた最愛の母が亡くなる。功成り名遂ぐ前に父母を失ったことは、後々の兄弟にとって痛恨だったことだろう。
 続いてフランス占領下のヘッセンは、ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが国王として君臨するようになる。ヤーコブは王の私設図書館に司書の職を得た。幸い職務は少なく、研究に没頭できるようになった。
 兄弟はカッセルに帰った1806年ごろから、ドイツの童話の収集を初めている。ドイツの領邦が、フランスに侵略された時代に、ゲルマンの昔話を集めて民族の文化的な統一意識を誇りを持とう、ゲルマン民族のアイデンティティを追求しよう、という意識が、彼らだけでなく社会全体にあったのだ。 ・・・」

グリム兄弟によるドイツ童話の収集のことについて、松本侑子さんの資料があるが次の機会に紹介することにしよう。

img_3531カッセルの中心部は、ヨーロッパの街によくある風景。
フォルクスワーゲン、メルセデス・ベンツが当たり前のように走っている。
私たちの乗っていた観光バスもベンツ製のバスだった。

img_3533おや? ジェラシックパークに紛れ込んだのかな?

img_3535自然科学博物館?のような建物だった。

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img_5725カッセルの町をあとにして、バスは農園地帯を横切っていく。
広い畑は刈り取られたあとのか、これから種まきがあるのか。働く人の姿もトラクターなどの車も見えない。
太陽光発電のパネルを屋根一面に取り付けた家が、畑地のあちこちに見える。
最近のドイツの家は、家自体の断熱効果を高めることによって、暖炉などの暖房器具やクーラーなどの空調設備がなくてもいいような建設方法が取り入れられているそうだ。
国を挙げて、自然エレルギー利用に取り組んでいるように見える。

さて、私たちが目指しているのは、グリム童話「眠り姫」のお城。
近代的なドイツから、過去にさかのぼったドイツに向かっている。

 

 

ドイツグリム紀行9(3日目の3)

カッセル その1

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img_3491カッセルとシュパルムシュタットの位置関係は上の地図の通り。
ここでグリム兄弟は約30年くらい暮らしている。
20代に「グリム童話」を書いたのがこの町なのだ。
前回は「大学の町、マールブルグ」の様子を書いたが、グリムの時間軸を整理すると、
・「ハーナウ」で生まれた兄弟は、父の栄転により
・「シュタイナウ」に転居する。
そして父の死によって、生活が困った兄弟は、
・「カッセル」に住む伯母に引き取られる。
ここで勉学に励み、
・「マールブルグ」の大学で学ぶことになる。
大学を卒業した兄弟は、中学高校時代を過ごした「カッセル」に戻ってくる。
「カッセル」は「メルヘン街道」の中心となす町で、兄弟の弟たちが住んだ家、グリム博物館もある。上の写真はカッセルにあるグリム兄弟の像。

ヴィルヘルムスヘーエ(Wilhelmshohe)公園

カッセルの町に行く前に立ち寄ったところが二つ。
一つはこの写真の「ヴィルヘルムスヘーエ公園」にある「ヘラクレス像」。丁度修復工事中のようだった。

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松本侑子さんの資料より。 「・・・・この古城からさらに丘の天辺を見上げると、山を覆いつくす木立の果てに、またしても巨大な像が見えてくる。それを目指して頂上まで山道を車でのぼっていくと、またも目を疑うような建造物が現れた。ギリシャ神話の勇者ヘラクレスの馬鹿でかい石像を載せた城塞があったのだ。悪趣味というか古典趣味というか、、、、。さらには、この要塞から下っていく丘の斜面には、幅広の岩の階段が長々と造られているのだ。その石の段々を水が流れへは下へおり、また下の岩へおりて、数十段もの人工滝になっている。しかもこの滝は、カッセルの街中へ続く大通りと一直線につながるように設計されているのだ。山も城も街も一体化させた都市計画、宮廷造園である。かつてのヘッセン国カッセルが豊かに栄えていたことを実感させる。宮殿の城にある滝のある山を、ヤーコブとヴィルヘルムの二人も、春の新緑、夏の深い青葉、秋の紅葉のなかを歩いたことであろう。この山城公園は機会があれば訪ねられることを勧める、、、、。」

img_3417私たちが訪れた時は修理中のためか、水は流れていなかった。

img_3430説明にあった「カッセルの町中へ続く大通りと一直線につながる」ということがよくわかる。

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上の写真の真ん中奥にある建物が、ヴィルヘルムスヘーエ宮殿。この宮殿でグリム兄弟の兄、ヤーコブがこの宮殿の図書室に勤務していたという。残念ながら私たちはこの宮殿の見学はしていない。
左の冊子は、この公園の売店で見つけたもの。色んな国の言語で印刷されていたが、日本語はなかった。しかし英語のパンフがあったので買った。
「Water works in
      Wilhelmshohe Park」とある。(oはウムラウトがつくのだがフォントが表示されないのでご容赦を)

写真の説明には、「The treatment of water in the evolving garden art of the 18th century 」と書かれている。

18世紀のもので、水の芸術で有名ということらしい。パンフの中を見ると、

img_20161017_0002真ん中の建物の上の像が、私たちが見たヘラクレスの像。こんなふうに水が流れているのだろう。

img_3457これは工事フェンスの周りに張ってあったパネルの一部。修理がおわるとこのような噴水も見ることができるようだ。水の芸術の呼ばれるゆえんだろう。

img_3463 img_3466 img_3467続いてやってきた二つ目の場所。昼食のレストラン。
山の中腹にある静かなレストランだった。

img_3468 img_3473 img_3475前菜からデザートまで。ドイツの伝統料理を楽しんだ。

img_3483屋根には風見鶏があった。 今回の旅ではいろんな風見鶏を見た。
ドイツの建物と空には風見鶏が似合うようだ。

食事も終えて、私たちはカッセルの町へ移動する。
グリム博物館の見学だ。

 

 

 

ドイツグリム紀行6(2日目の5)

マールブルクにあるグリム兄弟の足跡

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右の写真のような木組みの建築方法がドイツの家々の特徴。なにかホッとするような町並みが続く。

さて父をなくしたグリム兄弟は、カッセルに住む叔母に引き取られることになった。カッセルは翌日訪れる街なので、そのときに詳しく書ければと思う。

カッセルで中学・高校にあたる学校を優秀な成績で卒業した二人は、校長の推薦を受けてマーブルグ大学に進学する。

このマーブルグ大学で,生涯を決する恩師と運命的な出会いをするのだった。
恩師とは当時まだ20代の若き学者、フリードリッヒ・カール・フォン・ザヴィニー教授。私たちはそのザヴィニー教授の屋敷跡をたずね、グリム兄弟が住んだと言われる住宅も探すことにした。

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この町は斜面の多い町。急な階段、坂道が多い。こんな坂道や階段を昇り降りして、グリム兄弟はサヴィニー教授の家に行ったのだろうかと思うと、向学心に燃える二人の姿が想像できる。

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サヴィニー教授の家。
左の三階建ての建物が教授の家のようだ。ここに到着した時は、現地ガイドさんもよくわからないようだったが、翌日には、松本先生の資料にある「標識がうめこんである」家いうのは、この家だと説明があった。
その松本侑子さんの資料。

「ヤーコブは法律家だった父の影響もあり、法学を学んでいた。父なき後、最年長の彼は、一家の生計を立てるために、早く世に出て法律家になろうと決意していたのだ。 
当時のヨーロッパの法学は、ローマ法の研究だった。ローマ法とは、ローマ時代に作られた法律で、6世紀に編纂されたローマ法大全の各書物に明文化されてまとめられている。このローマ法が、近代ヨーロッパ各国の法律のもとになっている。
しかし恩師ザヴィニーは、ローマ法を教えながら、その一方で、法律とは、それぞれの民族地域の社会習慣から発展してきた歴史的所産であるという考えも持っていた。つまり、ゲルマン民族は、ゲルマン人が古くから村の取り決めや支配者のおふれとして守ってきた法的な慣習があり、そこにゲルマンのアイデンティティがあると考えたのだ。
もちろん、このゲルマン法は法律書として体系だっているわけではなく、慣習法だ。さまざまな利害関係の解決を記録した古文書、写本を収集し、読み、調べていくしかない。そうした調査からザヴィニーは、ゲルマン民族の伝統、古い伝説、昔話、民謡、民話にも関心を持っていた。
このように、広い意味でのドイツの文学的な歴史遺産に目を向ける恩師の影響を受けて、ヤーコブもまた法学から、ドイツの古い時代の文学に興味をもつようになる。実際、グリム兄弟がメルヘンを集め始めるのは、1806年のことで、ヤーコブが入学して4年後のことだ。彼は古文書を読むためにドイツの古語も学び始める。

 マーブルグには、恩師ザヴィニーの家も残っている。兄弟が下宿していた家の右脇から石段を上り、探し歩いていくと、城に近い中腹にあった。遠くの田園まで広々と見晴らせる気持ちのよい住宅地である。三階建に屋根裏の付いた立派な一軒家で、1803年から1808年までザヴィニーが暮らしたという標識が壁に埋め込んである。この大きさの家なら、学生たちが集まって講義を受け、盛んに討論も抱きただろう。
 十代後半のヤーコブとヴィルヘルムは、まだ20代の若い師を慕ってこの家に通いつめ、先生の熱心な研究態度、ゲルマンへの祖国愛に感化され、ますます文学の研究にうちこむのだ。格式ある大学で良き師に恵まれ、貧しくとも充実した学生生活を送った兄弟は、幸せだったのではないだろうか。」

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上の写真は、ザヴィニー教授の屋敷のある場所から見たマーブルグの町。「兄弟は、城の辺りから街を見下ろす展望を好んでいた」と松本侑子さんの資料に書いてあった。
200年前もこんな風景だったのだろうか。

私たちは今度はグリム兄弟が住んだという下宿に向かった。
石畳の坂道、傾斜する狭い路地、石の階段を降りていく。
商店街バーフリュサー通りにある建物の二階に、兄弟は下宿をしていた。左の写真の建物である。外壁の二階には、そのことを記したプレートがあった。

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建物の角には写真のようなグリム兄弟の下宿とわかるように、顔入りの掲示板が置かれている。松本侑子さんが訪れた頃にはこの掲示板はなかったと思われる。
ただ落書きがされていたのは残念。どこの観光地にもこういったイタズラはある。

この下宿で、グリム兄弟は二百十数年前、この二階に机を並べて勉学に励んだのだ。

さて、私たちはグリム兄弟の学んだマールブルク大学の直ぐ側にある、今日のホテル
「WELCOME MARBUG」 に向かう。

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丘の上にそびえ立っているのが、マールブルク大学。 なんとも壮大な建物だ。

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マールブルク大学は1527年に、初のプロテスタントの大学として創設された大学。現在はルター派とカルヴァン派の共存する大学らしいが、宗派の違いについては、私には詳しいことはわからない。
この大学に関係する有名な人は、グリム兄弟・サヴィニー教授以外に、私の知っている人は、ドイツ哲学者のマルティン・ハイデッガーや日本の哲学者三木清がいる。
このウェルカムホテルは、マールブルク大学の直ぐ側にある。大学は丘の上に建っているが、ホテルはその丘のふもとにある。この町は斜面と坂道、丘の上に立っている。地図ではごくそばにある建物でもその高低差は大きい。

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ホテルに到着。希望者は街の散策。私もスーパーマーケットめあてでついていった。

夕食はこのホテルで。
「万歩計は12000歩だった」という感想もあり、ホントに良く歩いた。ヨーロッパの町はたいてい石畳なので、慣れていない日本人はとても疲れる。というのが私の感想。

まずはドイツのビール。小麦からのビールと、大麦からのビールがあります、と案内があった。へーっ、小麦からのビールもあるんだなあと思ったが私は大麦から作ったビールをお願いする。
やっぱり、ドイツのビールはドイツで飲むのが美味しい。

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夕食後、ホテルの周りを少し散策する。 夕方のドイツの町並みは少しロマンティック な雰囲気がある。

明日は、「赤ずきんちゃん」の村、「シュパルムシュタッド」とグリム兄弟が暮らした「カッセル」に向かう予定。天気も良さそうだ。