堺の桜、名古屋の桜

一昨年も行った堺の環濠クルーズ。
前は桜の盛りも過ぎていたので、今年は満開の時期を狙って行った。
週末は雨模様?、という天気予報に一喜一憂しながら行ったが、雨の隙間を狙った桜見物となって楽しむことができた。

鯉のぼりも元気に泳いでいる。なかに「うなぎ」や「かつお」があるのも面白い。

両岸の桜はほぼ満開。 曇り空が残念だったけれど、暑すぎもせず、寒すぎもせず。花曇りの1時間だった。

風が吹くと花吹雪が。船内に「お~っ」と言う声が湧き上がる。

南海電車「堺駅」の東口にこのクルーズの出発点がある。
近くの橋には、ポルトガル人の像がある。このポルトガル人の像は、橋の上からは正面の顔が見えない。

クルーズの船からは正面の顔が拝める。これもこのクルーズの楽しみ。

環濠から堺港に船は出る。

高速道路の下をくぐる。
そこには「桁下満潮時15M」の文字。
東北での大震災、津波はこの高さ以上だった、というボランティアガイドさんの説明。
海風の冷たさ以上の冷たい空気が船の中に広がる。
あらためて自然災害の甚大さを感じた瞬間。

桜満開の環濠クルーズ。少し肌寒いときもあり、曇り空だったけれど満員御礼の約1時間の船旅。
次回は青空のときに来たいものだ。

つづいて名古屋城でのお花見。最後の春休みなのか、ここも大入り満員だった。

ここは名古屋市の地下鉄「市役所駅』入り口」。

駅の向こうに見えている緑の屋根と赤レンガ風の建物が名古屋市役所らしい。お城の門のような地下鉄駅に下る入り口。なんとなく風情がある。

名古屋城は本丸御殿の改修工事中で、現在まで完成した部分を観覧することができた。
来年度には完成し、一般公開されるそうだ。

本丸御殿とは、名古屋城のホームページの説明によると、
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  名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615)に建てられました。20年後、将軍のお成御殿として上洛殿が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲で天守閣とともに全焼しました。
 名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月29日、入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開を開始しました。

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これが修復中の「本丸御殿」。なんとも綺羅びやかだ。御三家の一つ、尾張藩主の御殿だけある。

ミクロ単位で精密に復元されている襖絵や、木目も新しい柱を見るとその豪華さがわかる。

広場では和太鼓演奏があり、外国人観客も非常に多い。
名古屋城にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、シダレザクラ、サトザクラなど、約1000本の桜があるそうだ。

これが天守閣。大阪城もそうだが、お城には桜がよく似合う。それは平和な時代だからだろう。戦国時代には桜がお城内に植えられていたのかどうか?

名古屋城、といえば私がすっと頭に浮かぶのは「金のシャチホコ」。

左の写真はレプリカだが、高さ約2.6メートル、重さ約1200キログラム、18金のウロコが120枚あまり貼ってあるそうだ。
オスのシャチの方が少し大きくて重いそうだ。

この金のシャチホコは大阪の造幣局で作られたはずだ。
私は金のシャチホコを積んだトラックが、国道26号線を走っていたのを見た記憶がある。しかしそれは本当だったのか今では定かではなくなってしまった。

午前中に雨が降ったので、桜の花びらが地面に敷き詰められるように落ちていた。それにしても不思議だったのは、場内で「スター・ウォーズ」展が開かれていたこと。名古屋城とスター・ウォーズと、どんな関係が?

名古屋城のお堀は空堀。そこに菜の花が咲き乱れ、桜のピンク、緑の葉、菜の花の黄色の彩りが春の深まりを感じさせていた。

大阪に帰ってこのブログを書いていると、名古屋城天守閣を元の木造建築に復元する計画があると新聞に載っていた。老朽化した現在の天守閣を、コンクリートで補強してもその寿命は40年あまり。そうなら木造のほうが長持ちするということらしいが、どれくらいの予算が必要なのだろう。天守閣の石垣は国の特別記念史跡だから、ハードルは高そう。
桜満開の季節、気持ちは初夏の太陽へと向かう。

 

 

 

 

 

 

カカオはコロンブスが持ち帰った。

最近見た歴史ドラマで面白かった「クイーン・メアリー」。ドラマの食事風景から、ヨーロッパのお菓子に興味がわいた。

そこで読んだ本が2冊。
一つが左の「お菓子でたどるフランス史」。
もう一つが以前にも読んだが、もう一度読み直したのが「文明を変えた植物たちーコロンブスが遺した種子」。
この2冊から「チョコレート」について少し詳しく勉強してみた。

チョコレートの原料というか、元になっているのが「カカオ」。
少し前に「咲くやこの花館」でみた、「カカオとコーヒー展」が潜在意識にあって働いたようだ。

左の本によると、私たちの生活を激変させたもの、それは「ジャガイモ」「とうもろこし」「カカオ」「唐辛子」「ゴム」「タバコ」であるという。
それははもともとヨーロッパにはなかったものである。
コロンブスは多くのものをアメリカ大陸やアジア、インドから持ち帰ってきているが、その内容をわかりやすく紹介しているのがこの本である。
この本を読むまでは、ジャガイモ、唐辛子、ゴムがヨーロッパにはなかったことを知らなかった。
ジャガイモの歴史については「赤毛のアン」のツアーで学ぶことが多かったが、今回はチョコレートの歴史から「カカオ」存在に気づくことになった。

上の写真は「咲くやこの花館」であった「カカオとコーヒー展」で撮ったもの。そこにはこんな説明があった。

「カカオノキ 南米アマゾン川、オリノコ川流域 アオイ科
カカオノキは、直径約1cmの白い花を、幹に直接咲かせます。たくさんの花のうち、受粉・結実するものは少なく、200〜400個の花に対して1個の割合といわれています。
 完熟した種子を発酵させると、苦味が消えて独特の香りを発散させるようになります。水洗いし乾燥させたカカオ豆を、火にあぶり、種子を除いて粉末にします。これに砂糖、香料を混ぜて固めるとチョコレート、カカオ脂を除くとココアのでき上がりです」

上の本によるとカカオノキの樹高は
10〜13mに達し、アマゾン川の上流地域が原産地だそうだ。果実は直径が15cm、長さが25cmくらいでラグビーボールのような形をしている。
3歳の子どもが、展示されていたカカオの実を持ってみるとこんな感じになる。25cmとなるともう少し大きくなると思う。
かなり大きい実なのだ。

カカオの歴史が詳しくのっているホームページがあった。

http://cocoalabo.com/know/detail/history.html

チョコレート・カカオの歴史

このホームページや2冊の本を参考にして簡単な歴史を書いてみると、

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☆紀元前
 南アメリカのマヤ族、インカ族、アステカ族がカカオを栽培していた。
 貴重な飲料として飲まれていた。通貨としても利用していた。
 カカオの実をKAKAWA(カカワ)と呼んでいたのが、ヨーロッパにカカオとして
 伝わったという説がある。

☆1502年
 コロンブスが第4次航海で、ホンジュラスでカカオ豆を入手するが、
 興味もなく、スペインへ持ち帰るが用途もわからないままであった。

☆1519年
 スペインのエルナン・コルテスがメキシコ湾東岸に到着。アステカの首都に入り、モンテマス二世よりカカオ飲料でもてなされる。

☆1528年
 コルテスはアステカを占領。略奪品とともにカカオ豆をスペインへ持ち帰り、カルロス王に献上。カカオの実質的なヨーロッパ伝来となる。

☆1580年
 スペインの宮廷でチョコレート飲料が普及。

☆1613年
 支倉常長を代表とする遣欧使節団がメキシコを経由してヨーロッパへ。チョコレートを口にした最初の日本人では?と言われている。

☆1615年
 スペイン王女、アンヌ・ドートリッシュがチョコレートコックを連れてフランスのルイ13世と結婚。チョコレート飲料はフランス宮廷の流行となる。

☆1656年
 スペイン王女、マリア・テレサがフランスのルイ14世と結婚。王女もチョコレート好きだったため、フランスでチヨコレートが定着。
チョコレートはフランスでは「ショコラ−」と呼ばれた。

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チョコレートの語源を調べてみた。Yahooの知恵袋を参照すると、

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日本語「チョコレート」は英語 chocolate からですが、英語 chocolate はスペイン語 chocolate(チョコラテ)から(フランス語 chocolat (ショコラ) もスペイン語からです。
このスペイン語 chocolate は、中央アメリカのアステカ諸語の一つであるナワトル語(Nahuatl)の xocolatl(ショコラートル)からで、この xocolatlは、ナワトル語の xocolli「苦い」+atl「水」からできた言葉です。
スペイン語には「xo ショ」音がないので「cho チョ」になりました(フランス語で cho が再び「ショ」音になった)。

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なるほどスペイン語からの変化が今に伝わっているわけだ。
1600年代のヨーロッパの文化の中心はスベインだったことがよくわかる。

歴史に戻ってみると、
☆1828年
 オランダのコンラート・ヴァン・ホーテンがカカオ豆から脂肪分を分離して、低脂肪でなめらかなココアをつくる。

これ以降、板チョコの発明、添加物ゼロの純粋なココアの発明、ミルクチョコレートの発明と続く。19世紀末には今のようなチョコレートの形になる。
日本では、1918年に森永製菓がカカオ豆からチョコレートの一貫製造を開始。
翌年1919年にミルクココアの発売となる。

さてカカオとココア、その違いは?

「咲くやこの花館」での「カカオとコーヒー展」の展示にその説明があった。 

「なぜココアという呼び名になったのでしょうか?
そもそもカカオという呼び方はマヤやアステカの言葉が語源です。先住メキシコ人たちはカカオの樹を「カカバクラヒトル」と呼んでいました。
メキシコを征服したコルテスはカカオの樹を「カカップ」とスペインに伝え、「カカップ」が変化し、「カカオ」になったと言われています。
スペインに持ち帰られたカカオという呼び名はヨーロッパに広まり、現在でもその名称が使われています。しかし、ただ一カ国、イギリスだけでは、カカオという発音が難しかったためか、音の組み合わせが代わって「ココア」と呼ばれるようになり、その名称が定着。日本もイギリスにならい「ココア」という名称を使うようになりました。

なるほどね。同じものをイギリスでなココアといい、それが日本に伝わったようだ。
カカオが一般的な呼び名であることがわかった。

チョコレートと砂糖と奴隷労働

チョコレートの発展には砂糖の影響が大きくある。 ここでは取り上げることはできなかったが、その開発と発展の影には、ヨーロッパ人が南アメリカ、アフリカの先住民を人間扱いしなかった圧迫の歴史がある。
「日本チョコレート・ココア協会」のホームページに次のようなことが書かれていた。

チョコレートと砂糖と奴隷労働
ヨーロッパ各国は新世界発見とともに、メソアメリカや南米でサトウキビ栽培を始め、砂糖を生産してヨーロッパ大陸に持込みました。料理や菓子に使われるようになると大量の砂糖が必要になり、ヨーロッパがカリブ海諸島を植民地化すると、サトウキビのプランテーションが盛大に行われるようになりました。砂糖やカカオ栽培の労働力を補うためアフリカから奴隷が導入されました。 新世界から砂糖やカカオを積んだ船がヨーロッパに入ると、その船にヨーロッパ製の武器・繊維などの工業製品を積んでアフリカに向かい、黒人奴隷と交換して新世界に向かうという、ヨーロッパ・アフリカ・新世界植民地を結ぶ大西洋三角貿易が成立し、長い間行われていました。

http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/history/world/w04_a.html

私たちが美味しく食べているチョコレートには苦い過去がある。そしてその苦味は今も続いている。もう少し勉強してみよう。

 

 

 

 

カカオとコーヒー展

鶴見緑地にある「咲くやこの花館」で、『カカオとコーヒー展」があったので行ってきた。

私は何年か前から家でコーヒーの苗を鉢に植えて育てているが、うまくいかない。コーヒーについてもう少し詳しく知りたかったこともあったからだ。

コーヒーの木は人の背丈から数十センチものまでいくつかあった。 コーヒー生産地ではコーヒーの木の背丈はどれほどなのだろうか。調べてみると、次のようなことがわかった。

「コーヒーになる原料は、日本の学名「コーヒーノキ(coffiea)」になる果実になる種子です。コーヒーの木はアカネ科(クチナシもアカネ科です)の常緑樹で6〜8メートルまで成長します。エチオピア(アフリカでの生産量は現在1位)で、アフリカやマダガスカル島、マスカリン諸島に自生し、交配などの改良で100種類(飲用にされているのは60種類ほど)以上が存在します。
 コーヒーは種をまいて3年目くらいから深緑の二枚の葉の間に白色の花を咲かせます(ジャスミンのような甘い芳香です)。そこに緑色の小さな実(コーヒーの生豆、グリーンコーヒーです)がなり、開花後6から8ヶ月で徐々に大きく成長し、赤色になります(黄色く熟するものも一部あります)。」(問題形式で学べるコーヒー額の基礎 全国大学連合コーヒー学特別公開講座編 旭屋出版より)

6〜8メートル、そんなに大きくなるのか。

上の写真はハワイコナ地区のコーヒー園。海岸まで広がる広いコーヒー園だ。

左はエチオピア高原に、今も自生しているコーヒーノキの原生林。

こらの写真は「図説コーヒー」(UCCコーヒー博物館著 河出書房新社発行)から引用したもの。どちらも私のイメージを補強するのに役立った写真だった。

最初にコーヒーを飲んだ日本人はだれだろう。
パネルに説明があった。

「はっきりとわかりませんが、17世紀後半(江戸時代前期)に長崎出島に出入りしていた通詞(今の通訳)か、遊女の誰かであったろうと言われています。その頃は一握りの人しかコーヒーを味わえませんでした。
同じ時代、長崎に赴任していた大田蜀山人(おおたしょくさんじん)のコーヒー評は、「焦げ臭くて味わうに堪えず」。当時の日本人には苦くて飲めなかったようです。
出島に滞在した学者のひとり、シーボルトはコーヒーを薬用として紹介しており、飲用として知られるのは日本の鎖国が解かれてからでした。」

なるほど、鎖国の時代だったらオランダかポルトガルから入ってきたのだろう。
同じパネルにココアのことが書いてあった。

「最初にチョコレートを食べた日本人。
日本で初めてチョコレートを口にしたのは、17世紀伊達政宗の命により、ヨーロッパへ渡った支倉常長(はせくらつねなが)を代表とする遣欧使節団一行か? と言われています。
日本にチョコレートがもたらされたのは、江戸時代。長崎の遊女が「しょこうらあと」と書かれたチヨコレートをオランダ人から貰い受けた記録が残っています。
1878年には米津風月堂(よねづふうげつどう)から日本最初のチョコレート「貯古齢糖(ちょこれいと)」が発売されます。その後アメリカで西洋菓子を学んだ森永太一郎(もりながたいちろう)が帰国、製造販売を始め、徐々に浸透していきました。」

上の写真がカカオノキ。見事な実がなっている。
説明のパネルにはこんなふうに書かれていた。

「カカオノキ アオイ科 南米アマゾン川、オリノコ川流域 カカオノキは、直径1cmの白い花を、幹に直接咲かせます。たくさんの花のうち、受粉・結実するのは少なく、200〜400個の花に対して1個の割合と言われています。  完熟した種子を発酵させると、苦味が消えて独特の香りを発散させるようになります。水洗いし乾燥させたカカオ豆を、火にあぶり、種皮を除いて粉末にします。これに砂糖・香料を混ぜて固めるとチョコレート、カカオ脂を除くとココアのできあがりです。」

手に触れたり、ゆかいなパネル展示など、小さな子どもたちでも楽しみながら学べるように工夫されていた。

館内を1時間ほどかけて解説してくれるツアーもあり、大人も咲くやこの花館にある植物に親しめるようになっていた。

この本はここで紹介されていた本。 収益金が「アフリカ理解の促進とアフリカの女性と子どものための教育支援に使います」ということなので購入した。「アフリカ理解プロジェクト」の製作。
コーヒーは日本では嗜好品だが、その生産地の苦労は私の想像をこえるようだ。この本にこんなことが書いてあった。

「・・・エチオピアのコーヒー年間生産量は約32万トン(2006/2007)で、このうちの約60%が日本や欧米に輸出されている。コーヒーはエチオピアの主な外貨獲得源であり、輸出額の35%(2005/2006)を占め、1000万人(国民の7人に1人)がコーヒー生産に関わっている。コーヒーの市場価格は、世界的に低く不安定であることに加え、平均的な生産コストを下回るまでになっているといわれる。またほかの生産国との価格競争や気候変動による不安定な収穫量など、アフリカのコーヒー産業を取り巻く状況は厳しい。
 エチオピアに限らず、世界のコーヒーの半分以上は数エーカーの農地しか持たない家族経営的な小規模農家により生産されている。そして生産農家の収入は、極めて低い。現金収入をコーヒーに頼っている家族は、価格が下がれば、子どもに学校をあきらめさせたり、食事や医療費を削ったりせざるを得なくなる。生産者がコーヒーから公正な収入を得られるようにすることが、とりもなおさずコーヒーを取り巻く自然環境を守り、私たちが長くコーヒーを楽しむことにつながっていく。・・・」

最近ブルーマウンテンのコーヒーを喫茶店やコーヒー豆の販売店で見なくなった。
コーヒーの疫病と異常気象が原因だそうだ。生産農家の苦労がますますふえているように思われる。

楽しみながら、コーヒーやカカオの現状、世界経済にまで視野を広げることのできる「カカオとコーヒー展」だった。