じゃがいもの実

5月のはじめにジャガイモの花が咲いていたということを、ブログに書いた。
そのじゃがいもは5月の終わり頃に収穫されていた。 そのときに、ジャガイモの花が実になっていることを教えてもらった。それが上の写真。

だいたい100円玉ぐらいの大きさだ。

上の写真はベランダで栽培しているミニトマト。よく似ている。
じゃがいもにトマトの実がなった、と言われることがあるらしいが、なるほどよく似ているなあ。

半分に切ってみる。これが種になるのだろうと思う。
畑のオーナーさんの話によると、実から種を取ることはないそうだ。
メインは地下にできたじゃがいもだから、じゃがいもができたらこの畑は終了。次は田植えの準備が待っているからだ。じゃがいも畑は水田に変化していくのだ。

図書館で調べてみると、じゃがいもの実について書いてある本がいくつか見つかった。

この本では、じゃがいもを種から育てていった体験談が乗っている。
著者は東京の人で、手に入れたじゃがいもの種を東京で育てることを計画する。
100粒の種から94粒が発芽するが、あとの成長はうまくいかない。著者は北海道の農業試験場に行って取材をされている、

結果は温度のようだった。じゃがいもの原産地はアンデスの高地。低い気温と昼と夜の寒暖差、それがじゃがいもにとっての成長しやすい条件のようだ。
大阪では、実ができても、種から育てることはとても無理のようだ。

北海道では、野生種のじゃがいもが育てられ、人工授粉によっていろんな品種が作られているようだ。

野生種のじゃがいもの花は上の写真のようにいろんな色がある。

じゃがいもの実も,普段見ているじゃがいもと違ってバラエティ。

野生種、原種があるからこそ、これからも新しい品種ができるわけだ。
じゃがいもの花を見たことから、「実がなったら見てみたい、その種からどんなじゃがいもができるのだろう・・・」と、いろんな興味がわいていったことが、この本で解決できた。

 

上の写真はじゃがいも畑だったところ。
今は水田になって、田植えがすみ、白鷺がエサをさがしにきている。

 大阪の気候では、じゃがいの種から実ができないこと。現実的にはじゃがいも畑は次の利用のために耕作されるので、種ができるまでにじゃがいもは処理されてしまっている。もし種ができるまで待って種を収穫したとしても、大阪の気候では種からじゃがいもになるまで育てられないこともわかった。これも収穫の一つだ。

 

 

 

ジャガイモの花

ジャガイモに花が咲いた(5月3日見つける)

駐車場のそばの畑にジャガイモが植えられている。
花が咲いているではないか。

 

これぐらいの広さの畑なのだが、上の写真に赤い丸で囲んだところのジャガイモに花がついているの

花にも種類があるようだ。

畑のオーナーさんの話にきいてみると、オーナーさんの経験ではジャガイモに花が咲くが、全部のジャガイモiではないこと、また実がなることもあるが、めったにないということだ。
じゃがいもの花と実? おもしろそうなのでもう少しきいてみると、ジャガイモの実は青い小さなトマトのようだと言っていた。
少し調べてみようと思った。

以前に「赤毛のアン」を訪ねるカナダツアーに行った時、ブログにじゃがいもについて調べたことを書いたが、もう少し本を探してみると、左の「ジャガイモの花と実」というその名もズバリの本があった。

表紙には「ジャガイモの実」と「種」の写真もあり、私の関心に応えてくれるピッタリの本だった。
この本の表紙にあるジャガイモ畑は北海道の美瑛だそうだ。一度いってみたいものだ。

ジャガイモの原産地は南アメリカ大陸で、2000年以上前からジャガイモを畑に植え、栽培し、食料にしていたと考えられている。
コロンブスのアメリカ大陸「発見」を機会に全世界に広まっていったわけだが、歴史的な経過については以前のブログ(カナダ赤毛のアンツアー33)に書いた。

ジャガイモの実は左の図のような形をしているらしい。
この「ジャガイモの花と実」の本の表紙にはそこカラー写真がのせられている。
ネットで調べてみると、「ジャガイモの実」で検索すると結構いろんなジャガイモの実の写真が発見できる。

疑問になってくるのは、そのジャガイモの実には種があるのだろうか。

花が咲き、実ができるのなら、その実には種ができているだろうか。
種ができている実があるに違いないとおもう。種ができるのなら、その種からジャガイモが育つのだろうか?

といった疑問がわいてくるのは当然だと思う。

ところで、現在の私たちがジャガイモを育てるときは、種イモをつかう。種をまくのではない。そして私たちが食べている部分は根ではない。茎である。「地下茎(ちかけい)」という言葉を習ったのは、小学生だっただろうか。中学生だっただろうか。
とにかくジャガイモは茎、サツマイモは根っこを食べていると習った。

種イモから育ったジャガイモはクローンだから、性質は同じだと予想できる。性質が同じだと、病気や害虫によって大打撃を受けることがあることは歴史が証明している。アイルランドでは多数の人が死に、アメリカ大陸などへの移民となった。ケネディ家も、ロナルド・レーガンもアイルランドからの移民の子孫だと言われている。

さて、ジャガイモの実から取れた種は、品種改良に利用されているそうだ。

1930年頃に、南アメリカに野生のジャガイモを見つける探検隊がだされたそうた。ロシア、アメリカ、スウェーデン、ドイツ、イギリスなどが探検隊を出し、ロシアの探検隊は150種類もの野生のジャガイモを発見したと伝えられている。

上の図のように種から育ったジャガイモは、親のジャガイモと遺伝形質が違っているため、多様なジャガイモになっている。
野生のジャガイモは、現在の栽培種のジャガイモと違い、花にはたくさんの花粉があるので、さまざまな性質を持ったジャガイモがとれたそうだ。
多様なジャガイモから、病気に強いもの、害虫に強いもの、味の良いもの、多量にイモが取れるもの・・・というように改良がなされていくわけだ。

日本には1595年頃に伝わったといわれている。豊臣秀吉が死んだ頃の時代だ。 オランダ商戦が持ってきたので「ジャガタラいも」「ジャガイモ」と呼ばれるようになったという。 飢饉の時の食料として広まったといわれている。 本格的に日本中に広まって栽培されるようになったのは、明治になってからで、アメリカ人などが持ってきた新しいじゃがいもの品種によって、ということだ。

花が咲いたあと、実がなるかどうか、気にかけて見ていくことにしよう。

 

 

 

 

 

藍染め 2017年

今年は5月5日に藍の種をまき、9月30日に藍を刈った。 写真は藍を刈ったあと、葉が出てきたところ。約1週間ほど天日干しした。

65グラムほどの乾燥葉がとれた。

今回は手に入りやすい薬品で染めてみることにした。

ハイドロサルファイトナトリウムのかわりに衣服用漂白剤の「ハイドロハイター」をつかう。
炭酸ナトリウムとして「消石灰」を使うことにした。
「ハイドロハイター」は近くの大型薬局にあった。
「消石灰」は大型スーパーの肥料売り場で購入。
かなり安く買うことができた。

参考にした本は以前も使った「そだててあそぼう18 アイの絵本」(農文協)。絵本なのでよくわかる。

本によると、

乾燥葉・・・100グラム
水・・・2リットル
炭酸ナトリウム・・・15グラム
ハイドロサルファイトナトリウム
       ・・・15グラム

というのが基本になる。
これを比例計算して藍染をすることにした。

65グラムの乾燥葉なので、1.2リットルほどの水を入れて15分ほど煮る。

煮た藍の葉をタオルなどで濾過する。

1回目の濾過した液は廃棄する。
ここまでは準備段階。

15分煮て絞った藍の葉が主役。
ここに1リットル余りの水を入れて再び煮る。水の量は計算では1.1リットルぐらいだが、それよりは少し多めにしている。

沸騰し始めたら、消石灰を12グラム、ハイドロハイターを12グラム入れる。
必要な正確な分量はわからないが、炭酸ナトリウムとハイドロサルファイトナトリウムの分量と同じと仮定して量をきめた。
実際は1グラムぐらい多めに入れている。

タオルで溶液を濾過する。熱いのでやけどに注意。
右が染液を絞り出したあとの藍の葉。
この葉に水を1リットル余り加えて煮る。

沸騰し始めたら、消石灰と、ハイドロハイターを前回と同じ量を入れ、15分ほど煮詰める。 このことを全部で3回繰り返して、染液を集める。左の写真のように藍の青色が見えてくる。

上の写真左は、3回目の抽出のあとの藍の葉の様子。 3回かけて集めた染液に、白い綿の布を入れる。染液の温度は40度〜45度。下がれば温めることが必要。

5分漬けて空気中に広げる。黄色だった布がみるみると青に変化していく。
この作業を3回くりかえる。

左が3回染めたあとの様子。

きれいな藍色がでてきている。
真っ白だった布が、藍の染液につけると緑色になり、空気に触れるとみるみる青に代わっていくのは本当に不思議だ。
化学反応で説明できるのだが、そのことを知っていても感動する。
日本に藍染の技術が入ってきたのは5世紀ごろといわれている。その当時の人は非常に驚いたにちがいない。
正倉院にはいくつもの藍染めされた宝物があるそうだ。

水洗いしてベランダで干す。ショールも染めてみた。全く同じ染液に入れているのに、木綿のように鮮やかには染まらなかった。化学繊維が使われているのかもしれない。

これで完成としよう。
愛を使って染めても、使う生地によって染め上がりが変わってくるのもおもしろい。
種が取れたら、来年も実験してみよう。

注意:煮た藍の葉は、臭いがきついのでビニール袋に入れて生ゴミとして処分した。
   また染液は下水に流すように本では書かれている。
   私は庭の植物を植えていない部分の土にしみこませた。
   前回は手が藍で染まったので、ビニールの手袋を用意した。
   指が染まることはなかった。この手袋は必需品。
   やけどをしないように注意。染液の温度は高いことを忘れないこと。

 

 

 

堺の桜、名古屋の桜

一昨年も行った堺の環濠クルーズ。
前は桜の盛りも過ぎていたので、今年は満開の時期を狙って行った。
週末は雨模様?、という天気予報に一喜一憂しながら行ったが、雨の隙間を狙った桜見物となって楽しむことができた。

鯉のぼりも元気に泳いでいる。なかに「うなぎ」や「かつお」があるのも面白い。

両岸の桜はほぼ満開。 曇り空が残念だったけれど、暑すぎもせず、寒すぎもせず。花曇りの1時間だった。

風が吹くと花吹雪が。船内に「お~っ」と言う声が湧き上がる。

南海電車「堺駅」の東口にこのクルーズの出発点がある。
近くの橋には、ポルトガル人の像がある。このポルトガル人の像は、橋の上からは正面の顔が見えない。

クルーズの船からは正面の顔が拝める。これもこのクルーズの楽しみ。

環濠から堺港に船は出る。

高速道路の下をくぐる。
そこには「桁下満潮時15M」の文字。
東北での大震災、津波はこの高さ以上だった、というボランティアガイドさんの説明。
海風の冷たさ以上の冷たい空気が船の中に広がる。
あらためて自然災害の甚大さを感じた瞬間。

桜満開の環濠クルーズ。少し肌寒いときもあり、曇り空だったけれど満員御礼の約1時間の船旅。
次回は青空のときに来たいものだ。

つづいて名古屋城でのお花見。最後の春休みなのか、ここも大入り満員だった。

ここは名古屋市の地下鉄「市役所駅』入り口」。

駅の向こうに見えている緑の屋根と赤レンガ風の建物が名古屋市役所らしい。お城の門のような地下鉄駅に下る入り口。なんとなく風情がある。

名古屋城は本丸御殿の改修工事中で、現在まで完成した部分を観覧することができた。
来年度には完成し、一般公開されるそうだ。

本丸御殿とは、名古屋城のホームページの説明によると、
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  名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615)に建てられました。20年後、将軍のお成御殿として上洛殿が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲で天守閣とともに全焼しました。
 名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月29日、入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開を開始しました。

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これが修復中の「本丸御殿」。なんとも綺羅びやかだ。御三家の一つ、尾張藩主の御殿だけある。

ミクロ単位で精密に復元されている襖絵や、木目も新しい柱を見るとその豪華さがわかる。

広場では和太鼓演奏があり、外国人観客も非常に多い。
名古屋城にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、シダレザクラ、サトザクラなど、約1000本の桜があるそうだ。

これが天守閣。大阪城もそうだが、お城には桜がよく似合う。それは平和な時代だからだろう。戦国時代には桜がお城内に植えられていたのかどうか?

名古屋城、といえば私がすっと頭に浮かぶのは「金のシャチホコ」。

左の写真はレプリカだが、高さ約2.6メートル、重さ約1200キログラム、18金のウロコが120枚あまり貼ってあるそうだ。
オスのシャチの方が少し大きくて重いそうだ。

この金のシャチホコは大阪の造幣局で作られたはずだ。
私は金のシャチホコを積んだトラックが、国道26号線を走っていたのを見た記憶がある。しかしそれは本当だったのか今では定かではなくなってしまった。

午前中に雨が降ったので、桜の花びらが地面に敷き詰められるように落ちていた。それにしても不思議だったのは、場内で「スター・ウォーズ」展が開かれていたこと。名古屋城とスター・ウォーズと、どんな関係が?

名古屋城のお堀は空堀。そこに菜の花が咲き乱れ、桜のピンク、緑の葉、菜の花の黄色の彩りが春の深まりを感じさせていた。

大阪に帰ってこのブログを書いていると、名古屋城天守閣を元の木造建築に復元する計画があると新聞に載っていた。老朽化した現在の天守閣を、コンクリートで補強してもその寿命は40年あまり。そうなら木造のほうが長持ちするということらしいが、どれくらいの予算が必要なのだろう。天守閣の石垣は国の特別記念史跡だから、ハードルは高そう。
桜満開の季節、気持ちは初夏の太陽へと向かう。

 

 

 

 

 

 

カカオはコロンブスが持ち帰った。

最近見た歴史ドラマで面白かった「クイーン・メアリー」。ドラマの食事風景から、ヨーロッパのお菓子に興味がわいた。

そこで読んだ本が2冊。
一つが左の「お菓子でたどるフランス史」。
もう一つが以前にも読んだが、もう一度読み直したのが「文明を変えた植物たちーコロンブスが遺した種子」。
この2冊から「チョコレート」について少し詳しく勉強してみた。

チョコレートの原料というか、元になっているのが「カカオ」。
少し前に「咲くやこの花館」でみた、「カカオとコーヒー展」が潜在意識にあって働いたようだ。

左の本によると、私たちの生活を激変させたもの、それは「ジャガイモ」「とうもろこし」「カカオ」「唐辛子」「ゴム」「タバコ」であるという。
それははもともとヨーロッパにはなかったものである。
コロンブスは多くのものをアメリカ大陸やアジア、インドから持ち帰ってきているが、その内容をわかりやすく紹介しているのがこの本である。
この本を読むまでは、ジャガイモ、唐辛子、ゴムがヨーロッパにはなかったことを知らなかった。
ジャガイモの歴史については「赤毛のアン」のツアーで学ぶことが多かったが、今回はチョコレートの歴史から「カカオ」存在に気づくことになった。

上の写真は「咲くやこの花館」であった「カカオとコーヒー展」で撮ったもの。そこにはこんな説明があった。

「カカオノキ 南米アマゾン川、オリノコ川流域 アオイ科
カカオノキは、直径約1cmの白い花を、幹に直接咲かせます。たくさんの花のうち、受粉・結実するものは少なく、200〜400個の花に対して1個の割合といわれています。
 完熟した種子を発酵させると、苦味が消えて独特の香りを発散させるようになります。水洗いし乾燥させたカカオ豆を、火にあぶり、種子を除いて粉末にします。これに砂糖、香料を混ぜて固めるとチョコレート、カカオ脂を除くとココアのでき上がりです」

上の本によるとカカオノキの樹高は
10〜13mに達し、アマゾン川の上流地域が原産地だそうだ。果実は直径が15cm、長さが25cmくらいでラグビーボールのような形をしている。
3歳の子どもが、展示されていたカカオの実を持ってみるとこんな感じになる。25cmとなるともう少し大きくなると思う。
かなり大きい実なのだ。

カカオの歴史が詳しくのっているホームページがあった。

http://cocoalabo.com/know/detail/history.html

チョコレート・カカオの歴史

このホームページや2冊の本を参考にして簡単な歴史を書いてみると、

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☆紀元前
 南アメリカのマヤ族、インカ族、アステカ族がカカオを栽培していた。
 貴重な飲料として飲まれていた。通貨としても利用していた。
 カカオの実をKAKAWA(カカワ)と呼んでいたのが、ヨーロッパにカカオとして
 伝わったという説がある。

☆1502年
 コロンブスが第4次航海で、ホンジュラスでカカオ豆を入手するが、
 興味もなく、スペインへ持ち帰るが用途もわからないままであった。

☆1519年
 スペインのエルナン・コルテスがメキシコ湾東岸に到着。アステカの首都に入り、モンテマス二世よりカカオ飲料でもてなされる。

☆1528年
 コルテスはアステカを占領。略奪品とともにカカオ豆をスペインへ持ち帰り、カルロス王に献上。カカオの実質的なヨーロッパ伝来となる。

☆1580年
 スペインの宮廷でチョコレート飲料が普及。

☆1613年
 支倉常長を代表とする遣欧使節団がメキシコを経由してヨーロッパへ。チョコレートを口にした最初の日本人では?と言われている。

☆1615年
 スペイン王女、アンヌ・ドートリッシュがチョコレートコックを連れてフランスのルイ13世と結婚。チョコレート飲料はフランス宮廷の流行となる。

☆1656年
 スペイン王女、マリア・テレサがフランスのルイ14世と結婚。王女もチョコレート好きだったため、フランスでチヨコレートが定着。
チョコレートはフランスでは「ショコラ−」と呼ばれた。

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チョコレートの語源を調べてみた。Yahooの知恵袋を参照すると、

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日本語「チョコレート」は英語 chocolate からですが、英語 chocolate はスペイン語 chocolate(チョコラテ)から(フランス語 chocolat (ショコラ) もスペイン語からです。
このスペイン語 chocolate は、中央アメリカのアステカ諸語の一つであるナワトル語(Nahuatl)の xocolatl(ショコラートル)からで、この xocolatlは、ナワトル語の xocolli「苦い」+atl「水」からできた言葉です。
スペイン語には「xo ショ」音がないので「cho チョ」になりました(フランス語で cho が再び「ショ」音になった)。

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なるほどスペイン語からの変化が今に伝わっているわけだ。
1600年代のヨーロッパの文化の中心はスベインだったことがよくわかる。

歴史に戻ってみると、
☆1828年
 オランダのコンラート・ヴァン・ホーテンがカカオ豆から脂肪分を分離して、低脂肪でなめらかなココアをつくる。

これ以降、板チョコの発明、添加物ゼロの純粋なココアの発明、ミルクチョコレートの発明と続く。19世紀末には今のようなチョコレートの形になる。
日本では、1918年に森永製菓がカカオ豆からチョコレートの一貫製造を開始。
翌年1919年にミルクココアの発売となる。

さてカカオとココア、その違いは?

「咲くやこの花館」での「カカオとコーヒー展」の展示にその説明があった。 

「なぜココアという呼び名になったのでしょうか?
そもそもカカオという呼び方はマヤやアステカの言葉が語源です。先住メキシコ人たちはカカオの樹を「カカバクラヒトル」と呼んでいました。
メキシコを征服したコルテスはカカオの樹を「カカップ」とスペインに伝え、「カカップ」が変化し、「カカオ」になったと言われています。
スペインに持ち帰られたカカオという呼び名はヨーロッパに広まり、現在でもその名称が使われています。しかし、ただ一カ国、イギリスだけでは、カカオという発音が難しかったためか、音の組み合わせが代わって「ココア」と呼ばれるようになり、その名称が定着。日本もイギリスにならい「ココア」という名称を使うようになりました。

なるほどね。同じものをイギリスでなココアといい、それが日本に伝わったようだ。
カカオが一般的な呼び名であることがわかった。

チョコレートと砂糖と奴隷労働

チョコレートの発展には砂糖の影響が大きくある。 ここでは取り上げることはできなかったが、その開発と発展の影には、ヨーロッパ人が南アメリカ、アフリカの先住民を人間扱いしなかった圧迫の歴史がある。
「日本チョコレート・ココア協会」のホームページに次のようなことが書かれていた。

チョコレートと砂糖と奴隷労働
ヨーロッパ各国は新世界発見とともに、メソアメリカや南米でサトウキビ栽培を始め、砂糖を生産してヨーロッパ大陸に持込みました。料理や菓子に使われるようになると大量の砂糖が必要になり、ヨーロッパがカリブ海諸島を植民地化すると、サトウキビのプランテーションが盛大に行われるようになりました。砂糖やカカオ栽培の労働力を補うためアフリカから奴隷が導入されました。 新世界から砂糖やカカオを積んだ船がヨーロッパに入ると、その船にヨーロッパ製の武器・繊維などの工業製品を積んでアフリカに向かい、黒人奴隷と交換して新世界に向かうという、ヨーロッパ・アフリカ・新世界植民地を結ぶ大西洋三角貿易が成立し、長い間行われていました。

http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/history/world/w04_a.html

私たちが美味しく食べているチョコレートには苦い過去がある。そしてその苦味は今も続いている。もう少し勉強してみよう。