生きのびるために

この本は映画「ブレッドウイナー」の原作の本。

本のカバーに内容が紹介してある。
「タリバン政権下のアフガニスタン。女性は男性同伴でなければ、一歩も外へ出られない。父をタリバン兵に連れ去られ、食料もつきたパヴァーナの家族が生きのびる唯一の道は?
家族を飢えから救うため、11歳の少女パヴァーナは髪を切り、少年となってカブールの町で働き始める。
難民キャンプで取材したアフガン女性の話をもとに、タリバンに支配されるカブールのようすと人々の暮らしを描く。」

映画とは少し違うが、アフガニスタンの様子がよく伝わってくる。私の知らないことが多い。そのことを知らされる本だ。パヴァーナとショーツィア、二人の少女はどうなるのだろう。続刊を読まずにはいられなかった。

父親をなくしたパヴァーナがどのように生きていくのか。
表紙のカバーから一部を引用すると
「廃墟となった村には、生き物の気配がまったくなかった。立ちつくすパヴァーナの耳に、かすかな風に運ばれて、か細い泣き声が聞こえてきた。子ネコだろうか。村はずれの家から聞こえてくるようだ。・・・略・・・・子ネコではない。部屋のすみにいたのは、赤ん坊だった・・・。たびかさなる戦乱で荒廃したアフガニスタン。家族を探して荒野をさすらう少女が旅の途中で見たものは?」

パヴァーナと赤ん坊のハッサン、地雷で足をなくした少年アシフ。3人の困難な旅と戦いが綴られていく。この子たちに安住の地はあるのか。やっとパヴァーナの母親と出会うことができた。しかしショーツィアとの約束は果たせるのだろうか、このシリーズは続く。

母親と再会したパヴァーナは、難民キャンプのそばに建てられた「レイラの希望の学校」で学びながら働くことができるようになる。しかし女性が学ぶことを良しとしない人たちは、学校で働くもの、学ぶ人たちに偏見と差別と迫害の目を向けてくる。
母親を殺され、テロリストと疑われたパヴァーナ。

私には信じられない世界がここにはある。戦争の悲惨さという一言でくくれない、人間の醜さがアフガンにあることをつきつけてくる。
宗教は人を救わないのか。
そんな疑問が湧いてくる。
小説は後半にパヴァーナとショーツィアの再会が描かれる。フランスに行くことを夢見ながら「その前に、もう二、三人くらい女の子を助けることもできるわね」。
アフガンの少女の元気な顔がうかんでこの三部作はおわる。
しかし現実はまだまだ闘いの最中にある・・・。

このシリーズのもう一人の主人公、ショーツィアの物語。
この本のカバーにある内容の紹介。
「タリバン政権下のカプールで髪を切り少年となっていたショーツィアは、アフガニスタンを脱出し、パキスタンの難民キャンプにたどり着く。だが、泥かべに閉じ込められた生活には何の希望もない。フランスへ行く夢を実現させるため、ついには愛犬とともにペシャワールで路上生活をはじめる少女に、さらに過酷な現実がまっていた。・・・」
前作で書かれていたように、ショーツィアはパヴァーナと再開する。それまでの物語だが、この二人は頑固で、真っ直ぐで、へこたれない。それがこの地で生きる女の子の凄さなのだろうし、そうであってほしいという、作者の願いなのだろうと思う。

「きみ、ひとりじゃない」は、これまでのシリーズとは全く違う話。不法移民となった3人の若者を描いた物語。
クルド人のアブドゥル、ロマをルーツに持つロザリア、ロシアの軍事学校を逃げ出してきたチェスラプ、孤児となったイギリス人のヨナ。それぞれが重い過去を持ちながらあたらしい世界をめざして海を渡る。
映画やアニメーションの脚本になるかのような怒涛のような展開だ。
たどり着いたイギリスの現実も厳しい。そんな若者を支えるのがトランペットでありビートルズなどの音楽。
またロマへの差別と偏見、ナチスによる大量虐殺があったことをあらためて知ることもこの本でできた。

「9時の月」はこれまで紹介してきた本の中では一番新しい本。2017年7月第1刷発行となっている。

「15歳のファリンは、イランの首都テヘランの名門女子校に通う裕福な家の一人娘。学校では孤立し、運転手付きの車で家と学校を往復するだけの鬱屈した毎日を送っている。だが、美しいサディーラが転校してきたことで、フィリンの日常は一変する。
親友となった二人は、学校だけでなく休日も行動をともにするようになり、互いを想う気持ちを深めていく・・・」
ここを読む限り日本でもありそうな話だが、この本を読みイランの現実をしり、私は大きなショックを受けた。

作者のあとがきには、「イランの同性愛者人権グループ、ホーマンによると、1979年以来、4000人以上のレスビアンとゲイが処刑されています。同性愛者に対して死刑を科している国は、イランだけではありません。2013年末の時点で、サウジアラビア、モーリタニア、スーダン、イエメン、ナイジェリアの一部とソマリアの一部も同様の刑罰を科しています。・・・」
私には信じられないことだ。しかしコンピューターの父と言われるアラン・チューリングはイギリス人だが、同性愛者ということで逮捕されている。1952年のことだ。人間の意識や人権の意識は時代とともに変化していることは確かだが、今も死刑が存在することに驚きと恐怖も覚えた。
作者のデボラ・エリスさんは、本の印税をストリートーチルドレンやアフガニスタンの女性のために活動するNPOに寄付しているそうだ。

私の知らないことがまだまだ多い。
もう少し知る努力をしなければならない、と思った。

 

漢字ミュージアム2

西洋人が日本の漢字を知り、
      学習するようになった。

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、キリスト教イェズス会の宣教師たちがに日本で布教活動を行いました。
その布教のため作られた文献を、「キリシタン資料」と呼びます。
例えば、1598年に長崎で作られた「落葉集」という辞書は、宣教師たちが日本語を勉強するために、西洋から持ち込んだ活版印刷という技法(一字一字のハンコのようなものを組み合わせて版を作る方式)で作られました。

*これを読むと、全く知らない外国語、ここでは日本語を勉強するために大変な努力をしたことがわかる。

*この「落葉集」の解説に大変面白いことが書かれていた。

「イェズス会の宣教師たちによって作られた辞書です。
現在と同じく「ぱの◯」という符号で半濁音を表しています。
「夫」「邊」のルビ「ぷ」「ぺん」がそれです。
(天理大学付属天理図書館所蔵)」

*私はこれをみて、半濁音の実物を見ることができたと思った。
ぱ・び・ぶ・べ・ぽ、という半濁音は1600年頃には使われていたのだ。さらに興味を引く事実がパネルで紹介されていた。

西洋からの外来語をカタカナで書く
     表記法が生まれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在一般に広く行われている「普通の言葉は漢字ひらがな交じり文で書き、その中の外来語などはカタカナで書く」という書き方は、新井白石の「西洋紀聞」(1715年)で初めて使われたものでした。

この書き方は、とくに外来語をよく使う蘭学者(西洋医学を学ぶ医者)たちに広く受け入れられ、外来語が大量にやってきた明治になって、一般人にもひろまりました。

*左の「西洋紀聞」についての解説は次のように書かれている。

「新井白石によって書かれた西洋の研究書で、写真は白石の自筆本です。左から2行目に「西洋イタリアの地名にて」と書かれています。現在と同じく、漢字ひらがな交じり文を基本として、外来語がカタカナで書かれています。(国立公文書館所蔵)」

*私の知りたかったことが、ここ「漢字ミュージアム」で解決できた、と思った。
長い時間をかけて、現在使われているように、漢字、カタカタ、ひらがなが自由につかえるようになったのだとよくわかった。

これは「駿河版銅活字(するがばんどうかつじ)」のレプリカ。
解説によると、徳川家康がつくらせた日本最初の銅製活字のこと。1606年から1616年にかけて11万余字がつくられ、この活字を使って「大蔵一覧集(だいぞういちらんしゅう)」と「群書治要(ぐんしょちよう)」とが刊行されたと書かれていた。
江戸時代初期に銅製の活字が作られたこと、その現物があることに驚いた。江戸時代ではかわら版や小説は木版画だったように記憶している。
金属活字ではなく、木版が一般的だったのは技術的なことからなのだろうか。またわからないことが出てきた。

このあと展示は、「変体仮名」から「現在・2010年11月の『改定常用漢字表(2136字)の告示」まで紹介されていた。
「変体仮名」については、ハンコまで作られていて、自分の名前を変体仮名で書いてみようなどの工夫がなされていた。
私は「変体仮名」についてはまだまだ知識がないので、もう少し勉強したいなぁと思いながら2階に上がった。

 

 

 

 

 

漢字ミュージアム

ここ「漢検 漢字博物館・図書館」は「漢字ミュージアム」とも呼ばれているところ。
甲骨文字の展示もあり、私は初めて実物の甲骨文字を見た。写真撮影禁止なので、ポスターの写真を撮った。思ったより小さく、何を使って骨に刻んだのだろうか?とおもう。

さてパネル展示は「カタカナ・ひらがな」にすすむ。

1、カタカナ・ひらがながみられました。

漢字だけを使って、工夫して日本語を書いていた日本人は、9世紀頃に独自の文字を作り出しました。それがカタカナとひらがなです。ともに、漢字を簡単にして作り出した日本語専用の文字で、はじめは「これは漢字の画を省略したもの」「これはカタカタ」「これはひらがな」と区別できるものではありませんでしたが、それぞれ独自に発展して、漢字とは異なる、ひとまとまりの文字として使われるようになりました。

2,漢字を「はぶく」ことから
       カタカナが生まれました。

9世紀前半頃から、漢文で書かれたお経を日本語として読むための漢字や符号が、紙の余白や漢字の四隅に書かれるようになります。お経の行と行との間の狭いスペースに、なるべく早く書くために、漢字の偏や旁(つくり)を省きました。こうして筆画をはぶいて書いた字を、「省画仮名(しょうかくがな)」「略体仮名」と呼びます。この省画仮名が、現在のカタカナのもとになりました。

カタカタは漢字の一部を取り出して作られました。

カタカナが芽生えた9世紀前半には、漢字の偏や旁をあまり省略せずに書き込んでいました。
それが、漢字やひらがなと見分けがつくようにと次第に形が変化していき、いっそう簡単なものになっていきました。
主に、下記はじめの一、二画目を使ったり(「ア 阿」、「イ 伊」など)、終わりの数画を使ったり(「エ 江」、「ヌ 奴」など)して、漢字の一部だけを取り出すことで、省略しました。

カタカナは、漢文を読む時の補助記号として生まれたものでした。つまり、あくまで漢字が主で、そこにカタカタでその漢字のよみがなや助詞(「て・に・を・は」など)、助動詞(「む・たり」など)、活用語尾(書くの「く」など)を補ったものです。
漢文訓読のときには、カタカナ以外にも、日本語として漢文を読む時の順番を示す「返り点」や、漢字の周りなどに点を打つことで読み方を表す「ヲコト点」と呼ばれる記号が用いられました。

平安時代末期〜鎌倉時代にかけてカタカナがたくさん使われだしました。

ひらがなとは違って、カタカナはひとまとまりの文字として独立してからも、多くの場合、漢字と交ぜて使われました。
それは、カタカナが漢文を読むために記号から生まれたものだからです。
漢字とカタカナを交ぜた、「漢字カタカタ交じり文」は、鎌倉時代を通じて、主に学問や仏教関係の書物を書く時に用いられ、日本語の散文(和歌や漢詩以外の文章)を書く時の文章様式として、広く使われました。
(左は今昔物語集から。助詞や助動詞をカタカナと小文字で2行に分けて書いている)

3,漢字を「くずす」ことから
      ひらがなが生まれました。

万葉仮名として使われている漢字を、早く楽に書くため、形をくずして書くようになりました。これがひらがなの起源です。 漢字の形をくずすということ自体は、奈良時代からなされていたのですが、くずされた文字を「ひらがな」という、漢字とは別の文字だと意識して人々が使い始めたのは、9世紀末頃だと考えられています。

万葉仮名を、早く書くためにくずしたものを「草仮名(そうかな)」といいます。
ひらがなは、この草仮名をさらにくずして、漢字とは別の文字として使ったものです。
草仮名とひらがなとは、はっきりと区別できるものではありませんが、『源氏物語』や『宇津保物語(うつぼー)』の記述から考えると、平安時代の人は「さう=草仮名」と、「かんな・かな=ひらがな」とを使い分けていたようです。
貞観(じょうがん)9年(867)に、讃岐国の戸籍帳に書かれたメモには、万葉仮名からひらがなに変化する途中の草仮名が使われています。
・・・・・略・・・・・

日本独特の文化「国風文化(こくふうぶんか)」が盛んになり、文学にもひらがながつかわれるようになりました。

 10世紀になると中国文化の永享が薄くなり、日本独自の文化が盛んになりました。これを「国風文化」といいます。この時代には、ひらがなを使って多くの優れた文学作品が書かれました。ひらがなは細やかな感情を表すのに適しているので、日本独自の優れた作品を記すことができたとも言われています。 漢字を使って日本語を書くと、どうしてもことばが硬くなり細やかな思いや感情が表現できません。この時代から、文学に使われる文字も、日本独自のものとなりました。

女流文学作品の文字として
ひらがなが盛んに使われるようになりました。

平安時代中期には、女性たちがひらがなを使って、盛んに物語や随筆、日記といった文学作品を書きはじめました。
女流文学があまりにも有名なので、女性しかひらがなを使わなかったと思いがちですが、実は男性もひらがなを使っていました。
ひらがなのことを「女手(おんなで)」と呼ぶのは、女性はひらがなしか書かなかったからとも、また、ひらがなそのものではなく、ひらがなを数字続けて(連綿させて)書いたものを「女手(おんなて)」と呼ぶのだ、ともいわれています。
(上の写真は池田本とよばれ、「桐壷」の冒頭の部分。)

*ここのパネルの記述は少しことば足らずだと私は思う。
平安時代の女性がひらがなしか使えなかった、女性が漢字を使うことは(男性が、当時の社会が)よしとしない雰囲気があったのではないか、と私は思うからだ。
女性は漢字を使わなかったのか? そうではないと思う。上の源氏物語は漢字かな交じり文で書かれている。紫式部が源氏物語をひらがなだけで書いたのか、漢字かな交じりで書いたのか、はたまた万葉仮名だけで書いたのか、私にはわからない。写真のような写本を見ると、漢字かな交じりで書いたのではないかと私は思う。

パネルはさらに変化する日本の文字について知らせてくれるが、少し時代を飛ぶことにする。