山月記③ 読解力

私がEnjoy Simple Englishで「山月記」のことに興味を持ったとき、偶然に「週刊文春」を見た。
そこには池上彰さんと新井紀子さんの対談が載っていた。そこに「山月記」のことが書かれていたのだ。
新井紀子さんは私のブログに何回か書いたことがある数学者。東大ロボ(東京大学にロボットは入ることができるか)を研究してきた人として私は知っている。最近は子どもたちの学力について研究していることで有名になり、新井先生の著書の「AI vs 教科書が読めない子どもたち」は私も興味があって読んだ本だ。そんな新井先生が「山月記」について発言してネットで炎上したという。

どんな発言が炎上のきっかけになったのかは、ネットで「新井紀子 山月記」と検索してみよう。興味のある人は検索するとすぐにわかると思う。

さて、週刊文春の池上さんと新井さんの対談のどこに「山月記」が出てきたいるのか、すこし記事を引用してみる。

池上 新井先生は数学がご専門で、AI(人工知能)の研究でも有名ですが、最近は国語の教科書に関する発言が話題ですね。

新井 炎上してしまって(笑)。

池上 私、目からうろこでした。中島敦の「山月記」が、高校の国語「現代文B」のすべての教科書に載っている。詩人になりそこねた男が虎になってしまうという、中国の説話を基にした小説です。新井先生がその理由を編集者に訊いたら、「山月記」を外すと採用率が落ちるんだと。

新井 国語の先生にとって、教え甲斐のある教材らしいんです。

池上 そのほか教科書によく載っているのは、森鴎外の「舞姫」と夏目漱石の「こころ」。三つとも男性作家による「エリート男性の挫折の物語」で、ジェンダーの観点が欠けているという問題提起でしたね。

新井 「この多様性の低さは、いったい何だ」と思ったんです。高校の女子生徒が、捨てられた舞姫や、自殺してしまう「先生」の奥さんに気持ちを重ね合わせたり共感できるかといったら、できませんよね。いまの時代においても男性と女性で苦悩や挫折の形は違うので、主人公にも共感できません。こういう論点を、国文学の先生はどなたもおっしゃらなかったのかな。

池上 芥川賞だって、女性作家が目立つ時代ですから。

新井 ある教科書は、小説や評論など23篇が載っている中で、女性の筆者は二人だけ。しかも一人は、明治時代の樋口一葉です。現代の女性の書き手を半分ぐらい入れて、多様な問題に触れてこそ、「現代国語」の教科書になるんじゃないでしょうか。日本がこれから移民に門戸を開ければ、多様なバックグラウンドの生徒が入学して来るわけですし。

池上 「現代国語」なのに、現代の問題に直面してどう生きるべきかを考える教材がほとんどない。新井先生の指摘で、初めて気が付きました。

二人の対談はここから「読解力」に移っていく。「『山月記』はなぜ国民教材になったのか」の本にも、「山月記」が読解のための教材として使われてきた歴史があることが書かれていた。
高校での「山月記」の読み取りも大事だが、それ以前の小中学校段階での読解力が不足してきているのではないか、というのが新井先生の主張らしい。

さて新井先生の「読解力が不足してきている」という指摘を考えていると、講談社の雑誌「本」に新井先生の名前が出てくるのを発見した。

この「本」は、フリーペーパーで、大きな書店においてある。
この中に、平田オリザさんが「22世紀を見る君たちへ」という連載を書かれている。これがとてもおもしろくて、これまでは大学入試のあり方や、現状が詳しく書かれていて、これからの大学入試がどのように変わっていくのかと毎月興味深く読んでいた。
7月号は「第13回 子供たちの読解力は本当に『危機的』?」というタイトルで、新井先生の問題提起に平田オリザさんが意見を述べている形になっている。
平田オリザさんは「AI vs 教科書が読めない子どもたち」の本を読んで「この本に書かれていることの本質は、けっして間違っていない」と述べられている。平田オリザさんは新井先生の主張を要約すると、次のようになると書かれている。
1.これからAIが発達し、多くの職業が失われると言われている。
2.しかし、まだAIにできない(苦手な)分野がある。これからは、そういった分野の職が増えるだろうし、それに対応できる人材を育成しなければならない。
3.『東大ロボくん』の成果から、AIがもっとも苦手とするのは、ある種の自然言語処理である。
4.そこで、子供たちには、英語教育やプログラミング教育よりも、とにかく『読解力』をつける教育を行わなければならない。

平田オリザさんは「全面的に賛成する」といっているが、「文章読解能力が危機的な状況にある」という意見には疑問をもっているような書きぶりになってくる。

そうして平田オリザさんは、新井先生の提案する「基礎的読解力を測る試験」の問題文を検討されている。ここからが推理小説を読むようにおもしろかった。

まず新井先生の「AI vs 教科書が読めない子どもたち」に紹介されている英文の問題に関する設問(英語の愛称についての問題)をとりあげている。中学生の正答率が38%で、高校生の正答率が65%だった。
その結果を見て新井先生は「背筋が寒くなる」ととらえ、平田オリザさんは「まあ、そんなもんだろう」ととらえている。

平田オリザさんはこの英文の出典を探されている。
新井先生のこの本にはのっていないので、以前の新井先生の書かれた本からたぶんこの英語の教科書ではないかと推定される教科書を見つけ出される。
この英語の教科書には問題文にあった愛称のことが載っているのだからたぶんそうなのだろう。しかしこれも新井先生にたずねて特定したものではないので、あくまでも推定だと私は思う。

そうしてこの英語の教科書の文章と、「基礎的読解力を測る試験」の問題文とがちがっていることがわかる。そこで平田オリザさんは新井先生の分析に?を持つ、という内容になっている。
ただ、平田オリザさんは「問題文と英語の教科書の文とがちがっているのは、新井先生の責任ではない。「基礎的読解力を測る試験」の問題文は問題作成チームが作ったものなので、新井先生の知らされないところでこの問題文がつくられたのだろう」と解説されている。
さて、私はここまで読んでみて、この経過を平田オリザさんは新井先生に伝えているのだろうか、と疑問に思った。意見交換や情報交換を直接二人ですればいいのに、してないのかな? 
平田オリザさんと新井紀子さんの対談をすれば、すぐに解決できるのに、と単純に思った。それにしても「読解力」というのは難しいものだ。本の読み取り、本の内容を理解する、文章の内容がわかる、その力をどのようにして計測するのか。「読解力」と言う言葉の定義もまた難しい。
わからないことがわかる、これが私の今の段階かな。

 

 

 

 

 

 

 

山月記② 国民教材

「山月記」がどのように高等学校で使われてきたのか、そのことを詳しく調べているのが左の本。
「国民教材」という言い方を初めて知ったが、それほど教科書で使われている教材ということだろう。

この本によると、
「昭和57年度の『高校国語教科書の小説教材出度数(率)」は、「こころ」82%、「羅生門」82%、「山月記」76%、「舞姫」59%である。」
「『山月記』は1978(昭和53)年度版学習指導要領実施期)において、54冊の教科書に掲載された。この時期に、「羅生門」「山月記」「こころ」「舞姫」という私たちに馴染み深い四定番教材が誕生したのである」とある。
4つの定番の教材という言葉も初めて知った。 

2013(平成25)年度からは、高校の国語は、国語総合、国語表現、現代文A、現代文B、古典A、古典Bの6種類に別れているそうだ。「現代国語」という授業はもうないのだ。そうしてこの現代文Bで使われる教科書すべてに、「山月記」はのっているそうだ。それほど「山月記」は、高校の国語ではポピュラーなのだ。私は全く知らなかった。

「『山月記』はなぜ国民教材となったのか」を読んでみると、なぜ「山月記」がこれほど教科書でつかわれるようになったのか、という分析が詳しく載せられている。
興味のある人は是非この本を読むといいと思う。高校の国語の変遷がよくわかる。

私が興味を持ったのは、「山月記」という小説は「古譚」という作品集の中の一編だということだ。
「山月記」という一つの小説ではなく4つの連作の中の一つだったということが「『山月記』はなぜ・・・・」にかかれていた。
そこで図書館で左のような「中島敦全集」を借りてきた。

「古譚」は、「狐憑」、「木乃伊」、「山月記」、「文字禍」の4つの作品からなっている。4つじゃなくて6つだという説もあるそうだが、多くは4つと言われている。
・「狐憑」は弟を戦争で亡くした兄が何かに取り憑かれたように物語を語りはじめる。それが人間だけでなく動物や植物にもなって物語をする。実は彼は今で言う詩人だったのだ。しかしこの時代には詩人も文字もなかった。詩人の価値を認めない社会は彼を抹殺してしまう、という感じの話。一番最後に「ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱いだすよりもずっと以前に、斯くして一人の詩人が喰われて了ったことも、誰もしらない。」と書かれているのが衝撃的だった。

・「木乃伊」は、ペルシャ軍の部将がエジプトを占領したとき、わからないはずのエジプト語がわかると言い出した。エジプトの街を捜査しているときに木乃伊を見つける。なんとそのエジプト人の木乃伊が、前世の自分であることを発見する。前世の自分の木乃伊を見ているうちに、その木乃伊の前世も自分であることを発見してしまう。「合せ鏡のように、無限に内に畳まれて行く不気味な記憶の連続が、無限に ー 目くるめくばかりに無限に続いているのではないか?」という文章にいきあたると、なんとこれは立派なSFじゃないか、と思ってしまう。

・「山月記」は人間が虎になってしまった話。

・「文字禍」は文字の精霊が人間をたぶらかし、人間に反逆するという話で、「書かれなかったことは、なかったことじゃ。芽の出ぬ種子は、結局はじめからなかったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」というところは現代に痛烈に突き刺さる台詞だと思う。

こういった一連の作品の中にある「山月記」だと位置づけないと、正確な作品解釈はできないのではないか、という主張である。
「山月記」だけを取り出して作品分析をし、解釈をし、教育的価値を見出すというのは、作品全体を無視することになるのではないか、という意見だと思う。

読解から音声言語指導へ

「なぜ国民教材になったのか」の本を見ると、「山月記」の国語の時間での取り扱い方に大きな変化がある、ということだ。

1960年代は、「読解」が中心であり、「主題、作者の意図」を読み取ることに力を注いだそうだ。そういえば私の習ってきた国語を思い出すと、「この作品の主題はなにか?」「作者の意図を考えよう、読み取ろう」という課題が多かったように思う。
1982年〜90年は、「読解」だけれども「語り、読者論」という指導が多くなってきた書かれているが、正直言って何回読んでも私にはよくわからないところだ。
2000年代になると、「音声言語指導」に力が向いてきているそうだ。音読、群読ということらしい。声を出して読むことが作品理解につながる、ということなのだろう。群読することで一体感と爽快感を味わえる作品だということかもしれない。
音読ブームの現在にはうってつけの作品になったのかもしれない。

しかしこの本の著者は警戒心もしめしている。声を揃えて作品を読むことでの良さを評価しつつ、そのカタルシスは全体主義につながるという警戒心のようだ。

Enjoy Simple Englis で「山月記」を英語で読んでみようとしたことから、大変難しい話になってしまった。
作者の中島敦さんも、自分の書いた作品が全国のほとんどの高校生が読むようになっているとは、想像もしなかったに違いない。
何百何十もの「山月記」にかかわる論文や評論、レポートがある。ネットで検索しても何十と出てくる。
私などは、本を読んで「おもしろいなあ」「この作者の他の作品をよんでみようかなあ」ぐらいで十分なのだが、全集が出るような文学作品ともなると、そうはいかないらしい。教える高校の先生のプライドもあるのかもしれない。
実はこの「山月記」にかかわっては、日本人の読解力が深く関わっていることでネットで炎上した話題があった。それは次回に。

 

 

山月記と英語

Enjoy Simple English の5月号は「山月記」がのっていた。
「山月記」は人間が虎になってしまった話だ、という記憶があった。
ラジオでこの小説を誰かが朗読して、解説しているのを聞いたような気もする。

後で調べてみると、「高校の現代国語の教科書にのっていた、それも全教科書会社の現代国語にとりあげられていた」、ということがわかった。しかし私は高校でこの小説を習った、という記憶は全く残っていない。現代国語の先生には申し訳ないが、、。
このへんのことは、またあとから詳しく書こうと思う。

著者の中島敦さんの文章は、漢文じみて正直ちよっと読みにくい。
出だしはこのように始まる。

隴西の李徴りちょうは博学才穎さいえい、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性、狷介けんかいみずかたのむところすこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるをいさぎよしとしなかった。



(青空文庫より)

Enjoy Simple English では、次のように英訳されている。

Licho  from  Longxi  was  intelligent  and  talented.   At  a very young age, he passed  a  very  difficult  test  called  the  kakyo  so  he  could  become  a      government  official.   He  was  then  sent  to  an  area  called  Konan  to  be  the  leader  of  the  army  and  prison  department.    Bat Licho was too proud to do that job.

英語で読めば、なるほどとわかる。

「山月記」での授業で、討論になるところが2つあるという。
一つは李徴の書いた詩について、友人の袁傪の抱いた感想についてである。

本文を見てみよう。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。

この部分はよくわかる。英語ではどのように書かれているだろう。

You  could  tell  the  poet  was  very  talented.                                                  Ensan  was  impressed  but   thought,   “Licho  could  have  become  a  great  poet.  But  there  is  something  missing  for  the   poems to  be  really  great.”

何が欠けているのか、何が missing  なのか。
このことをテーマにして高校の現国の時間で話し合うことが多かったそうだ(「山月記」はなぜ国民教材となったのか」大修館書房 佐野幹著)が、私の記憶にはない。原文を読んでも直接的な答えが書かれていないのだから、話し合うことそのことに重点が置かれていたのかもしれない。

もう一つは、虎になった原因を考えるところ。
李徴は自分でこのように言っている。少し長いが青空文庫より引用する。

何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようにれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己のっていたわずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐと、刻苦をいとう怠惰とが己のすべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。

Enjoy Simple English の英訳は次のようにまとめている。

I  said  before  that  I  don’t  know  why  this  happened  to  me.  but  I  have  an  idea.  I  wanted  to  become  a  great  poet.  But  I  didn’t  have  a  teacher  or  try  to  improve  my  writing  with  other  people  with  the  same  dream.
Not  only  that,  I  was  not  happy  living  with  people.
 I  worried  that  I  wasn’t  good  enough,  so  I  never  tried  to  improve  my  writing.

But  at  the  same  time,   I  half  believed  that  I  was  good  enough,  so  I    couldn’t  be happy  living  a  normal  life.
I  had both cowardly  pride  and  arrogant  shame  inside  me.  I  have  heard  people say,  “Each  of  us  is  an  animal  trainer.  We train  the  animal  within  us.  That  animal  is  who  we  really  are.”
  My  animal  is  a  tiger.  It  made  me  a  bad  person  and  made  me  hurt  my  family  and  friends.
The tiger  was  inside  of  me,  but  now  my  inside  and  outside  look  the    same.
I  can  no  longer  live  as  a  human.  And  even  if  I  could  wirte  a  great     poem  now,  there  is  no way  for  me  to  tell it  to  people  anymore.   
 
我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心

李徴の自分自身の分析によると、自分が虎になったのは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」によるものだと言っている。
その部分の英語は cowardly  pride  and  arrogant  shame  となっている。

cowardly  は文字通り「臆病な」という意味の形容詞。

arrogant  は「傲慢な、尊大な、横柄な」という意味の形容詞(どちらも Eゲイト英和辞典 ベネッセ による)

原文通りの形容詞を、英単語の形容詞から選んでかかれている。

「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」、これは日本語でも難解な言葉だと私は思う。
これについて高校の現国の授業の中で議論する指導がなされてきたそうだ(「山月記」はなぜ国民教材となったのか」より)。
議論することはできても、どこが終着点なのだろう? と私は思ってしまう。

高校の現代国語の時間に、1回だけ班で話し合いをしたことを覚えている。
たしか安部公房の作品だったことまで思い出すが、作品名は覚えていない。それぞれがなにか意見を言ったが、授業の最後に「現代社会の矛盾」という大きな概念でくくられてしまったかなあ、というぼんやりした記憶があるが、、、それ以上のことは覚えていない。

さて、そういった「文学論」とか「授業論」はまたの機会に考えることにして、「山月記」も原文と英訳文を比べながら詠むと、自分ではよくわかる気がする。
英訳した人の読みが確かなのだろう。原作をしっかり理解していなと、英語に翻訳するときに困るだろうと思う。日本や世界の名作を、私にとって読みやすい英語にしたものを詠むことは、両方の理解にとって役立つと思った。